#4 約束のブローチ

4-1 カイコさんがいない

 ◆ ◆ ◆



 それは、よく晴れた初夏の昼下がりだった。

 人影のない境内、木漏れ日の揺れる石畳をゆっくり歩けば、彼女は私の数歩後ろをついてきた。


「疲れてはいませんか」

「えぇ」


 朗らかでよく笑う人だったが、こうも口数が少ないのは何かを察しているからなのかもしれない。


 拝殿で並んで手を合わせる間、密かに隣を覗った。

 女性にしてはすらりとした長身。癖のない黒髪はうなじで一つに束ねられ、背中の半ば辺りまで降りている。頬も手の甲も、そのはだは抜けるように白い。

 美しい人だった。

 そもそもは私の父の知己のお嬢さんであり、半ば許嫁のようにして決められた間柄ではあった。だが、この人が私の妻になるのかと、遠き日に一目見た時から人知れず胸を焦がしていた相手でもあった。

 しかし……。


 目的も告げずに連れ出したお詣りを終え、境内の東屋でひと息つく。


「今年の豊橋祇園祭も、打ち上げ花火はやらないのでしょうか」

「このご時世ですからね。手筒花火の奉納は、一本だけでもやると聞きました。大事な神事ですから」


 どうしても話題の向きが暗くなってしまう。

 静かだった。今この瞬間もどこかで爆撃機が街を焼いているなどとは信じられないほどに。


 けほけほ、と小さく咳き込む音で、私は顔を上げた。彼女が口元を押さえている。


「大丈夫ですか」

「えぇ、すみません。やだ、風邪かや……」


 そうとなれば、身体に障らぬよう早めに切り上げねばなるまい。


「実は、大事なお話があります」

「はい」

「先日、徴兵検査を受けました」

「はい」

「私も、いつ召集されるか分かりません」

「……はい」


 彼女は落ち着いた様子で、やはり察していたのだと思った。この時期にわざわざ名古屋から豊橋まで出向いた時点で、事情は推して知るべしであろうが。


「ですので申し訳ないですが、婚約は一旦保留という形に。お父上には先んじて知らせておりましたが、貴女には私の口から直接お伝えしたかったのです」

「はい」

「貴女の花嫁姿を、楽しみにしていたんですが……」


 私はズボンのポケットから小さな箱を取り出し、蓋を開けた。


「何の約束もできませんが、良ければこれを」

「わぁ……綺麗」


 それは、白い蝶の形をした襟飾りブローチだった。


「うちの店の隅で出しておったものです。ご存知の通り貴金属類は大方お国に回収されたんですが、これは貝細工なので免れました。見事な透かし彫りでしょう。これを初めて見た時、なぜか貴女のことを思い出したんです。お似合いだと思います」

「ねぇ、それって、私が蚕糸さんし工場の娘だからですか……?」

「えっ? いや、何もそういうわけでは……うーん、どうだろう……」


 蝶というより、カイコを連想したのかもしれない。

 すると彼女はこの日初めて破顔して、軽やかに笑い声を上げた。


「ありがとう、大事にします」


 その言葉だけで、この贈り物に意義はあった。


「絹子さん」

「はい」


 彼女の名を呼べば、涼やかな声が応じる。


「いつか一緒に花火を見られる日が来るといいですね」

「そうですね」


 望みが叶うのは難しいと、互いに分かっていた。

 約束とも言えないこの約束は、やはり果たされることはなかった。




 ◆ ◆ ◆




「あっ、花火大会」


 いつものカフェを出てバス停へと向かう途中、茜ちゃんが言った。

 見れば商店街の掲示板に、八月半ばに行われる花火大会のポスターが貼ってある。開催場所は西区の緑地公園だ。


「いいなぁ……」


 つばの大きな白い帽子を深く被った茜ちゃんの表情は、僕からは見えない。

 じりじりと照り付ける日差しの下、アブラゼミの鳴き声がそこかしこから聞こえる。


「行きたい?」


 そう訊ねると、茜ちゃんは驚いたように顔を上げた。


「うん、行ってみたい。けど、夜だし、人混みだろうし、難しいかも……」


 言葉尻は、消え入ってしまう。

 確かに、日中に出かけるのだって時間が限られている茜ちゃんにとっては、途轍もなく高いハードルだろう。

 僕は小さな手を握り直した。


「いっぺんお母さんに訊いてみたら? 茜ちゃんが安全に花火見られる場所とか、僕も調べるでさ。一緒に行けたらいいね」

「……うん」


 そうこうするうち、白地に青い線の入ったバスが追い抜いていった。僕たちが停留所へ辿り着くより先に、バスはさっさと走り去ってしまう。


「あぁ、嘘、行ってまった」

「でも、この待ち時間、もう少し一緒にいられるね」


 じぃっと上目遣いで見つめられる。万華鏡の中で出会った幻影と重なるような、どこか婀娜っぽい表情。

 瞬間的に頭の天辺まで熱が昇った。もちろん、暑さのせいではなかった。



 茜ちゃんを家まで送り届け、その足で大須へと向かう。

 そこそこ混んでいた地下鉄は、人熱ひといきれもあって蒸し暑く、カフェで飲んだメロンソーダの水分が汗となってじんわり滲んだ。


 今日の最高気温は三十八度だったか。

 名古屋の夏がこれほど暑いのは、フェーン現象が原因らしい。隣の三重県にある鈴鹿山脈から高温の偏西風が吹き降りてきて、濃尾平野の気温を上昇させるのだとか。

 さすがに体温より高い外気の中では、ただの呼吸にすら難を感じる。


 大須商店街はアーケードで日差しを避けられるため、やはりそこそこ混んでいた。

 例の寺院の白龍のオブジェはちょうどパフォーマンスの時刻らしく、口からミストを噴出することもあってか人が集まっている。

 夏休み中なのになぜか制服姿の女子高生たちが、カップのアイスを食べながら歩いているのを見かけた。

 それにまんまと釣られた僕は、通り沿いのアイスクリーム専門店で『八丁味噌アイス』なるものをテイクアウトし、カイコさんの店へと足を進めた。


 アーケードを出て、再び直射日光に晒されながら脇道を行く。

 現世うつしよの『懐古堂』は、いつも通り時の流れに取り残されて沈黙したままだ。

 メインストリートを逸れたせいで、周辺に人影はない。

 喧騒が、ひどく遠い。

 そこへ、ジワジワと蝉の声だけがまばらに響いてくる。

 アスファルトからは陽炎が立ち昇り、足元の影は極端に短い。

 僕はなぜだか心許ない気持ちになった。


 せっかくのアイスが溶けてしまう。

 シャッターに触れると、バチンと軽い衝撃があり、『狭間の世界』へといざなわれる。

 店内は変わらず夕暮れ色に染まっていた。外の日差しも暑さも消え去り、Tシャツの中を伝う汗だけが何だか嘘みたいだった。


「こんにちは、服部です」


 店の奥へと声をかけたけれど、返事はない。


「カイコさん?」


 今日は商品の手入れをするからと、連絡を受けて来たのに。

 まさか、この前みたいにあのブローチの中にいるのでは。

 白い蝶は、ガラスのカウンターの上に置いてあった。手に取ってみたけれど、何の変化もない。この中ではないのか。


 ショートボブの市松人形は、最後に見た時と同じアサガオ柄の浴衣姿で、ただじっと棚に座っている。

 店の神棚が発する清浄な気も、今日はどこか弱々しい。

 試しに奥の部屋の戸を開けようとしてみたけれど、わずかたりとも動かなかった。


「カイコさん、アイス買ってきましたよ」


 スイーツ目当てに出てきやしないかという目論見は、あっさり外れた。


 ひゅっと冷えた胸の奥に、焦りが生まれる。


「カイコさん!」


 僕の声すらくぐもって、誰にも届かず消えてしまった。


 どうしたものかと、途方に暮れかけたころ。

 突然、ペンダントライトが瞬き始めた。電球の接触が悪い時みたいに、何度かぱかぱかと点いては消える。そのたび店内全体の色味が行ったり来たりして、僕は眩暈を覚えた。

 現世と『狭間の世界』、二つの階層が揺らいでいる。

 こんなこと、今までなかったのに。


 僕は一旦、店の外へと出ることにした。

 『狭間の世界』の店内からでは、現世の外界の景色は視認できない。

 後から考えても、注意のしようもなかったと思う。

 扉を引き、店舗の空間から這い出た瞬間。

 誰かとぶつかってしまった。


「わっ」

「す、すみません!」


 反射的に頭を下げた。

 相手は四十歳前後の男性だ。やや面長で、清潔感ある白シャツにスラックス。

 おや、と思う。この人、どこかで会ったことがあるような?

 だけど、その既視感について記憶を探る暇はなかった。


「えっ、君は……? 今、この店から出てこんかった?」

「あっ……」


 まずい。現世のこの店は空き家同然で、錆び付いたシャッターが降りているというのに。

 目の前の男性には、僕が突然現れたように見えたに違いない。


「あの、どちらさん? で何しとったの? というか、どっから出てきた……?」

「えっと……」


 うちの店、とは。

 思考回路が働かない。

 降り注ぐ強い日差しとは裏腹に、僕の背を冷たい汗が幾筋も流れ落ちていった。

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