3-9 未練のゆくえ

「ごめん、あたし……」


 百花もかさんは、うっ、と小さく呻いて口元を覆った。


「……気持ち悪ぅ」

「魂が万華鏡あっちから身体こっちに移ったでな。容れ物に馴染むまで、ちょっとえらいかも」

「はぁ、情けな……あんなことで引っ張られるなんて」

「名前の縛りは強いで仕方ないわ。……心の持ちようには関係なく、な」


 だから、何も実母から名を呼ばれたせいではない、と。

 忘れたいと思った相手に後ろ髪を引かれたわけではない、と。

 明示する代わりに、樹神こだま先生は軽い口調で言った。


「ごめん、約束破ったわ」

「あぁ、名前? ……いいよ、そうするしかなかったでしょ。手間かけて悪かったね」

「いいや、お互いさまだよ」


 二人は淡く笑い合う。あまりにもいつも通りに。


「お母さんの魂は結局どうなった?」

「あたしの香は効いとったよ。でも血の繋がりまでは断ち切れんかった。だで、繋がれたとこから直に気を注ぎ込んで、強制的に


 淡々とした言葉。わずかの感情の揺れも許さないほどの。


「あの状態でよぅやれたな。さすがだわ」

「皓志郎の声が聞こえて……強い気を、貸してもらえたから。それだけじゃない。あたしを包む糸から、カイコさんや服部くんの気の匂いも感じたよ。独りじゃないって思えた。みんなのおかげだわ」


 百花さんと、視線が合った。


「服部くんも、カイコさんも、ありがとね……って、あれ? カイコさんは?」

「ん?」


 言われて初めて気付く。つい先ほどまで僕の隣にいたはずのカイコさんの姿が、忽然と消えていた。


「えっ……カイコさん、どこ行ったんだろ。百花さんの魂が出てくるまで、僕、カイコさんの糸の感覚を傍受しとったんですけど」


 カウンターの裏。棚の陰。どこにもいない。

 店の奥の部屋を勝手に覗くわけにもいかないけれど、引き戸を開け閉めするような音はしなかったはずだ。幽霊なので、ちょっと急いでトイレということもあるまい。


 先生は万華鏡を拾い上げた。


「これをどうしたらいいか、訊きたかったんだけどな。また何か間違いが起きて呪いを宿さんとも限らん」

「おじいちゃん、なんでか護りの術までかけて仕舞い込んどったもんね」

「いや、なんでってことはないでしょ」

「え?」

「大事な妻と娘の魂がこの中にあったんだ。例えもう戻ってこんのだとしても、捨てたりなんかできんかったんだろうよ」


 みしり、と。心の軋む痛みを、僕は受信した。


「……そっか。ほんなら一緒にお棺に入れたら良かったのかもね。最期に魂だけでこれのことを伝えにきたくらいだったもん……」


 震えた吐息が空気を伝ってくる。

 複雑に入り混じり、じわじわ膨らんで、今にもはち切れそうな感情の波。

 その持ち主の顔を、僕は見ることができなかった。


「……弔いの仕方は、また考えよう。それより、百花さんはそろそろ現世うつしよに戻った方がいいな。身体に障る」


 先生が百花さんを立ち上がらせる。


「服部少年、悪いがカイコさんが戻ってきたらお礼言っといてくれ。報酬とかの話もまた後日、と」

「分かりました」


 覚束ない足取りの百花さんを支える先生。寄り添って出ていく二人の後ろ姿を眺めながら、『気の交換』の話が頭をよぎる。

 大人って。


 もやもやと湧いてくるあれやこれやの想像を掻き消して、僕は改めて店内を見渡した。

 行儀よく並んだ陶磁器類に、繊細な細工の小物入れ。前時代のタイプライターや写真機や、何に使うかも分からない古い道具たち。

 神棚は変わらず清浄な気を発して、この空間を維持している。


 ショートボブの市松人形は、今日は小花柄のワンピースを着て棚に座っていた。そのビー玉のような目が、きらりと光った気がした。

 視線と呼んで差し支えないまなざしを辿った先。ガラスのカウンターの下に、何かが落ちていた。

 カイコさんのブローチだ。

 それを拾い上げた途端、ひゅっと気を吸われる感じがした。

 次の瞬間、透明だった粒子が可視化されつつ結集して、カイコさんが姿を現す。


「……ふぅ、ごめんごめん。契約しとらんのに気をもらってまった」

「いや、別にいいですけど。どうしたんですか?」

「んー、ちょっとねぇ、一時的に力を使い過ぎてまったみたい。姿形を具現化しとく分まで綺麗に消耗したわ」

「え、大丈夫なんですか?」

「ほれ、この通り」


 カイコさんは指をパチンと鳴らし、あの男性の姿になった。二度目のパチンで元に戻る。


「あの魂もそうだったけど、怨念や未練って魂だけの存在にとっちゃパワーの根源なんだよねぇ……」


 アルトの声が一段沈む。

 カイコさんの面差しに、陰がぎった。

 その白い指先の輪郭が揺らいだように見えたのは、気のせいか。


「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」

「何ですか?」


 今や第二の雇用主のようになってしまった彼女は、黒々とした大きな瞳でじぃっと僕を見つめ——


「服部くん、私の未練になってくれんかや?」


 どきりとするほど甘やかな響き。思考回路がにわかにフリーズする。


「えっ……? あ、あの、具体的には、どういう……?」

「うーん、何だろ。例えば君の先生んとこの事務所の壁になるのもいいなって」

「どんな未練ですか」


 そう言えばこのひと、腐幽霊だった。

 僕と先生で腐った妄想をし続けられたら堪ったものじゃない。


「観測者としては推しのやりとりを邪魔せず摂取できる環境って夢なんだわな」

「そういう方向で未練にされるのは心の底から嫌です。だいたい先生は、ほら、百花さんと……」

「いや解釈の余地はまだある」

「わけが分かりませんよ」


 カイコさんは朗らかに笑い声を上げた。


「やっぱいいなぁ、服部くん。まぁ、また店の手伝いでもしに来たってよ」

「今まで通りじゃないですか。そんなことで良いんですか?」

「うん、ありがと。何かあったら呼ぶわ」


 にぃっと笑うカイコさんは、やはりいつも通りだった。

 先ほどの表情には、深刻な色があったように思えたのだけれど。




 後日。

 僕が樹神探偵事務所へ赴くと、百花さんが来ていた。


「こないだ、ちゃんとお礼言えんかったもんで。ありがとね、服部くん」

「いえ、僕は全然。ほんとに良かったです」


 薄群青と白の小花柄の着物に、淡い黄色の帯。それだけで、この男っぽい事務所がぱっと華やぐ。

 百花さんの顔色はすっかり良い。柔らかく微笑みかけられると、胸の奥がふわふわしてしまう。


 先生はゆったり煙草をふかしている。


「あの万華鏡は、術をかけて焚き上げしたよ。じいさんが死んでからまだ四十九日経っとらんでな。このタイミングなら、誤差で一緒に供養できるだろ」

「なんか自己満足みたいだけどねぇ」

「いいんだよ。弔いは遺された者のためにあるんだ」


 近しい誰かを喪って、どうやって気持ちの整理を付けるのか。

 遺志を継ぐとかそんな大層なことでなくとも、背筋を伸ばして前へ進むには必要なことだろう。


 百花さんは穏やかな明るい声で言った。


「あたしね、あの駄菓子屋を閉めて、新しく商売を始めようと思うの」

「へぇ、どんなお店をやるんですか?」

「香りの専門店だよ。お香とか香水とか匂い袋とか。今までネット販売しとったものを店頭に出すだけだけどね。屋号も決めて、看板も頼んだんだよ。ほら」


 見せてもらったスマホの画面には、看板のデザイン画が映っていた。

 そこに並ぶ文字は。


【この香 -KONOKA-】


「わぁ、いいじゃないですか!」

「でしょ」


 うふふ、と嫋やかに笑みをこぼす百花さんは、憑き物が落ちたように軽やかな気を纏っていた。


「じゃあ、あたしこれから店のリフォームの打ち合わせだもんで、そろそろおいとまするわね。後でカイコさんとこにも顔出すわ」


 ほのかに甘い香りを残して、百花さんは事務所から去っていった。

 その匂いが消えるころ、先生は新しい煙草に火を点けた。


「実は百花さんに、うちの事務所に来ないかって誘ったんだけどさ。今まで通りあの場所でやるのがいいんだと」


 大きく吐き出された煙が、しばらく辺りに漂う。


「……まぁ、百花さんが元気なら何よりだよ。今回の件も、誰の未練も残らず綺麗に片が付いたしな」


 良かった良かった、と先生は片頬で緩く笑う。

 僕は何と言っていいかよく分からず、視線を窓の外へと向けた。晴れ渡った濃い青色の空に、作り物のような入道雲が積み上がっている。嘘みたいにピカピカの夏本番だ。


「先生、コーヒーでも淹れましょうか」

「冷たいので頼むわ」


 全自動コーヒーメーカーのミルで豆をガリガリやかましく挽きながら、ふと僕は思う。

 誰かの未練になるには、どうしたらいいのだろうか、と。


 天気予報では、しばらく猛暑日が続きそうだ。

 今度カイコさんの店へ行く時は、アイスか水羊羹でもお土産に持っていこうと僕は決めた。



—#3 夢みる万華鏡・了—

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