3-8 ただ一つの花

「えー……ちょっと百花もかさん……」


 樹神こだま先生は百花さんを軽々抱え上げ、椅子に座らせた。華奢な身体は、まるで人形みたいにくたりとしている。

 一連の事件で、魂の抜けた人がこういう状態だった。


「俺、もっかい行ってくるわ」


 先生は僕に命綱代わりのスマホを預け、今しがた出てきたばかりの万華鏡を覗き込む。

 しかし。


「……あれ、何も見えん」


 当然、中へ吸い込まれることもない。


「さっき、鏡が砕けてましたよね。もう万華鏡として機能しとらんてことなのかも」

「合わせ鏡で『鏡の世界』から回り込んで入るのも無理ってことか。いやしかし、この筒自体が霊的な力を持つ『場』なわけだで、どうにか入れんかな」


 カイコさんが低い声で言った。


「私、糸を通じて大体の状況を把握しとるつもりなんだけどさ。百花ちゃん、最初に強力な結界張っとっただら。『念』や怨霊を外へ出さんようにって。そのせいで外側からも入れんくなっとるんだと思う。術者が中におる場合、結界はテリトリーそのものだでさ。本人でないと破棄できない」

「でも、それじゃあ……」

「うん。術者が死ぬまで、結界は解けない」


 聞き間違い、であれば良かったけれど。


「この万華鏡の内部に張られた結界は、百花ちゃんの魂が死を迎えん限り、誰にも解除できない」


 繰り返される言葉は、あまりに無情だった。

 先生は眉根を寄せ、口元だけにほんのわずかな笑みを作る。


「いや、何か方法あるでしょ。彼女、ただで死ぬような人じゃないですし」

「どうかな……中にある魂がどのくらい自我を保てとるかにも拠るに」

「万華鏡をこじ開けたらどうですかね」

「下手したら魂ごと砕けるかもよ。百花ちゃん、お母さんに捕まっとるんだら。こんだけ血が近いと相当強く縛り付けられるでさ。『念』は浄化しても、魂は残っとった。あの魂、万華鏡本体とほとんど一体化しとったと思う。壊したら百花ちゃんもタダじゃ済まんて」


 僕は先ほどのことを思い出した。


「万華鏡から出る直前、女の人の声がしませんでした?」

「え?」

「はっきり聞き取れんかったんですけど、『何々ちゃん』って呼びかけるみたいな声が」

「……いや、俺には何も」

「僕も受信型だで聞こえたんですかね。百花さん、それに反応しとったと思います。あれはお母さんの声だったんですね」


 先生はしばらく口を噤んだ後、独り言みたいに呟いた。


「俺、そんなことにも気付けんかったんだな。すぐ隣におったのに」


 肉体と魂はいつまで結び付いているのか、魂の抜けた肉体はいつまで保つのか。

 思い出すのは茜ちゃんのことだ。彼女もまた長らく身体から魂が抜けて、生霊の状態で『狭間の世界』にいた。その間、身体はずっと病院で生命維持のための装置に繋がれていたのだ。


 ひとまずは百花さんもそうすべきか。魂を戻す有効な方法を見つけるまで。

 だけど。

 もしこのまま百花さんを目覚めさせられなかったら。

 もう二度と、あの優しい笑顔を見られなくなってしまったら。

 驚くほど強く心臓が軋んだ。

 怖くて仕方がない。どんな怨霊と対峙した時よりもずっと。


 永遠のような沈黙を破ったのは、カイコさんだった。


「樹神くん、立ち入ったことを訊いていいかや」

「何ですか」

「昨日か今日かで、君と百花ちゃん、気の交換はした?」

「……はい?」

「君さっき言っとったじゃんね、『昨夜からいろいろ試した』って。君んらレベルの術者同士なら、選択肢に挙がるだら」

「…………まぁ。ほら、百花さんが、万華鏡に気を吸われるもんで、どうにか緩和できんかと……」

「ほんなら結構がっつりめに?」

「……比較的」


 珍しく歯切れの悪い先生。

 一方でカイコさんは表情を明るくする。


「じゃあ、今もまだ百花ちゃんの身体の中には樹神くんの気が残っとるってことだね」

「え、えぇ、まぁ……あの、勘弁してください……」


 ……えぇと? そうだったんだ?

 というか、これは僕が聞いてもいい類の話なの?


 カイコさんが万華鏡と百花さんを見比べる。


「魂とうつし身とは、まだしっかり繋がりがある。樹神くんの声だったら、現し身に残った気が媒介になって、きっと百花ちゃんの魂まで届く。自我に直接働きかけられる」


 先生が息を呑む。


「なるほど、一理ある」

「樹神くんは発信型。百花ちゃんは受信型。いっぺんやってみりん。ただし根の深いとこまで母親の亡霊に侵食されとる場合、無理に引き剥がすと魂そのものが傷付くかも。こういう時こそ百花ちゃんの術がぴったしなんだけど」


 カイコさんは、がしがしと短い髪を掻く。


「私の糸でくるんで保護すれば、いけんことはないか。私のテリトリー内とはいえ、百花ちゃんの結界を通過するのはちょっと骨だけどね。服部くん、私の感覚も読める?」

「たぶん、できると思います」

「じゃあ私の糸の感覚を傍受して、百花ちゃんの気配を探したってよ。最短時間で到達したい。糸が魂を捕まえたら、樹神くんが百花ちゃんを呼び戻す。オッケー?」


 先生が問う。


「ご協力いただけるのは助かりますが、大丈夫なんですか? 力が前より弱なっとるって……」

「いやぁ問題ないよ、このくらい。『契約』で君の気を貸してまやぁ、強い糸をれるでさ」


 カイコさんは薄い唇の両端をにぃっと吊り上げると、軽く目を伏せた。


「それにねぇ、私もあの子のことは昔っからよぅ知っとるんだて。それこそ『百花』なんて名乗り出す前からね」


 母親の魂から呼びかけられた名前は、きっと本名だったのだろう。

 以前、百花さんは「自分の名前なんて、あってないようなものだ」と言っていた。

 それがどういう意味だったのか、今になって腑に落ちる。呼んでほしい人に呼んでもらえなかった名前だったのだ。


「分かりました。カイコさん、よろしく頼みます」

「よしきた。、樹神 皓志郎こうしろうくん。私の糸をあの万華鏡に潜らせる。期限は、百花ちゃんの魂を救い出すまで」


 先生からカイコさんへ、対価として気が流れる。

 カイコさんは本日二度目となる糸を吐き出した。


「じゃあ、行くよ」


 糸の先が、万華鏡の中へと入っていく。結界に突入する際、パチンと爆ぜるような音がした。


「うっ、結構くるね。まぁ、これしきじゃ解除できんよね」


 僕は感覚の回線を開き、カイコさんへと向けた。やはりこの方法であっても、彼女自身の記憶には触れられない。その分、『糸』の感覚がクリアに伝わってくる。


 鏡の残骸。『念』の残滓。そういうものを肌で知覚するような、奇妙な感覚。

 先ほどまで筒の内部で張り詰めていた、不安定で不穏で不思議と心惹かれる気配は既にない。あるのは、嵐が破壊し尽くした後のような寂寞せきばくだけだ。


 そんな中、百花さんのあの独特の気を探す。

 甘く胸をくすぐる、色っぽくてふわっと優しい、唯一無二の気配を。

 百花さん。百花さん。

 もっといろんなことを教えてください。

 また一緒に美味しいものを食べましょう。

 これからも頼らせてください。僕も、頼ってもらえるように頑張りますから。

 百花さん。

 百花さん。

 ……行かないで。


 不意に。

 糸の先に、覚えのある気が触れた。


「あっ……! ありました! そこから右方向です」

「はいよ」


 糸が方向転換した。気がどんどん強くなってくる。近い。そして。


「それです!」

「見つけた!」


 探り当てた温かい魂。しかし、あの亡霊が絡み付いている。

 母親の魂は今や輪郭を失いつつあった。最期の力を振り絞り、娘の魂を留め置こうとしているのだ。

 糸はその拘束の合間に潜り込み、百花さんだけをくるりと繭で包み込む。


「樹神くん」

「はい」


 先生が百花さんの前にひざまずいた。そして手を彼女の下腹部に添え、右回りにさする。

 丹田。……たぶん。

 右回りは、良い気を入れる動きだ。


「百花さん、ごめん。約束破るわ」


 百花さんの本名を誰にも教えない。それが二人の間の決まりごとだった。

 先生は力を解放する。低く強く響く、容喙声音インタヴィンボイスが紡ぐのは。


香呑こうのみ 此乃花このか


 当人を当人たらしめる、唯一無二の彼女の真名だ。


 万華鏡の中、囚われた魂が、わずかに動いたのが分かった。


「香呑 此乃花、


 繭がふわっと浮き上がる感覚。


「此乃花さん、君の現し身はここにある。


 しかし繋がれた風船のように、百花さんの魂はぴたりと上昇を止めた。


 カイコさんが呻く。


「うっ……は、早よぅ」


 此之花さん。此之花さん。香呑 此之花。

 百花さんの真名を呼ぶ先生の声が募っていく。繰り返すほどに、込められる気は強さを増す。

 一方で、母親の執念はカイコさんの繭を侵食し始めていた。百花さんの魂が、また引き戻されてしまう。


「くそ……」


 先生が、吐き捨てるように漏らした。


「何が『逝く時は独り』だよ。ふざけんなよ……」


 震える情動が伝わってくる。こんなに心を揺らす先生を、初めて見た。

 『百花さんの一大事なら、駆け付けない選択肢はない』と先生は言った。

 その関係を正しくは何と呼ぶのか、僕は知らない。

 だけど先生が、樹神 皓志郎という一人の人間が、迷わず取った選択肢がこれなのだ。


 カイコさんの糸は、限界が近い。痛みにも似た痺れを、僕も感じる。


「香呑 此乃花ぁ……っ」


 ひときわ大きな気が爆ぜた。

 容喙声音インタヴィンボイスこだまする。狂おしいほど切実な響きを伴って。

 先生は百花さんの髪を掻き上げる。そして露わになった耳元に唇を寄せ、何事かを囁いた。僕には聞こえない、小さな声で。

 聞き取れたのは、最後の呟きだけ。


「……だから、頼むよ。


 祈るような。縋るような。絆を手繰るような。


 すると。

 繭が、ひゅっと急上昇した。

 それは瞬く間に筒の出口まで到達し、すぽんと抜ける。


「あっ……!」


 万華鏡から飛び出した繭は、きらきらと光を弾きながら宙を舞い、百花さんの胸元にぶつかって解ける。

 同時に、白い糸は散り散りに消え去った。


 はたして、眠り姫が目を覚ます。


「ん……皓、志郎……?」


 先生は静かに息をついてから、気障な緩い笑みを作った。


「おかえり、


 まるで何事もなかったかのように、いつも通りに。

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