3-7 イグアナの娘
「お母さん? お祖母さんじゃなくてですか?」
「あれはあたしの母親だよ。あたしが子供のころに、心を病んで
亡霊は
それを自分の母親だと言った
「母親がどうやって死んだのか、詳しく教えてもらえんかった。あたしも特に知ろうと思わんかったし。……ここに、おったんだ」
淡々とした口調。再会の感慨など微塵も混じらない。
「血縁が関係するかもって聞いた時にまさかと思ったけど、さっきの幻覚で確信したよ。魂、通じやすいはずだわ。
わずかに『念』が力を増した。百花さんから亡霊へと、負の感情が流れ込んでいるのだと気付く。
吹き
「この嵐の音は何なんですかね。台風は……お祖母さんのことは、関係なかった……?」
「何がどう関係した『念』なのか、確認の必要があるな」
「百花さん、服部少年にあの霊の記憶を読んでまってもいい?」
「もちろん。そのために来たんだでね」
僕は先生からの目配せを受け、気を結束させて身に纏った。亡霊へと歩み寄る前に、百花さんの横顔を盗み見る。
百花さんがお母さんへ向ける感情は、きっと理解できる質のものだと思う。僕も自分の親とは折り合いが悪いし、なんなら僕の母親も心を病んでいる。
でも、百花さんは百花さんだし、僕は僕だ。下手なことは言いたくない。
「百花さん、僕、しっかり記憶を読みます。そしたら浄化の仕方をみんなで考えましょう」
言えるとしたら、それくらいだった。
長い睫毛の端から、僕へと流れる視線。百花さんの白い頬がふわりと緩む。
「うん、ありがとね服部くん。頼んだわ」
「任せてください」
付喪神の憑依とは違う、他者からの記憶の受信。よく慣れた手段だ。
僕は感覚の回線を引き絞り、ピンポイントに相手へと向けた。その意識の深層を探り当てれば、相手の感覚が流れ込んでくる——
暗闇の中、ゆらゆらと蝋燭の火が揺れていた。
外はひどい暴風雨で、雨戸は今にも壊れそうだった。
父は嵐の中、仕事に行った。
狭い家には、幼いわたしと母の二人きり。
「おかあさん、こわい」
「大丈夫よ、お父さんがおまじないかけてってくれたでね」
手渡された万華鏡は、わたしのお気に入りだった。
護りの気を使うことのできる父は、わたしが肌身離さず持っていた万華鏡に簡単な術をかけていった。嵐の混乱で悪い『念』が寄ってこないように、わたしが穏やかに過ごせるように、と。
温かな気の満ちた万華鏡を、わたしはいつものように覗き込んだ。停電していたから、蝋燭の火に向けて。
筒の中の六角形に映り込む、色とりどりの幾何学模様。
怖い気持ちが一転、喜びに大きく振れた。
「わぁ、きれい。このなか、はいってみたいなぁ」
無邪気に発したわたしの言葉が、呪文となった。
ひゅっと、身体の中身を引っ張られる感覚。
急に横から突き飛ばされて、気付いたら。
わたしの身代わりで魂を吸い取られた母の身体が、すぐそばに横たわっていた。
感情が揺れた時に願いを口にすると、その言葉は力を持つ。
それが、わたしの生まれ持った体質だった。
あの夜、結界の張られた小さな筒の三面鏡でわたしの異能が増幅し、力が暴走して悲劇が起きた。
わたしはあまりに幼くて、動かない母が目覚めるのを待つことしかできなかった。
やっと父が帰ってきたころには、魂の抜けた母の身体はもう冷たくなっていた。
母はわたしの力のせいで死んだ。親戚の誰かがそう言ったのを聞いた。
「可哀想に」と。母とわたし、両方を指して。
異能を持って生まれた者は、力を制御することを覚えなくてはならない。
だけど、わたしはいつまで経っても自分の力と向き合えなかった。
血族の中でも、わたしは出来損ないだった。
わたしは人間じゃない。化け物だ。
わたしが取れる方法はたった一つ。
なるべく感情を動かさないように生きること。
中学へ行っても、高校へ行っても、友達はいなかった。
独りぼっちだ。独りは寂しい。
でも、不幸で当然だった。わたしは母を殺してしまった出来損ないの化け物なのだから。
あの一件以来、父は会社勤めを辞めて一人親方の電気工事士になり、駄菓子屋を始めた。いつも忙しそうで、いつも疲れていた。
わたしを育てるためだ。わたしのせいで、そうなった。
高校を出て就職した会社では、上司からしつこく付きまといを受けて、二年で辞めた。
その後は転々とアルバイトを探した。父が仕事に行っている間には、わたしが店先に出ることも多かった。
よく店の前を通りがかっていた男の人に見染められたのは、十分行き遅れになってからだった。
断る理由は何もなかった。わたしは異能を隠してその人のお嫁さんになった。
わたしも、やっと普通の幸せを手に入れられたのだと思った。
だけどなかなか子供ができずに、お姑さんからは嫌味を言われた。出来損ないの嫁だと。
やっと生まれた娘は、わたしにそっくりだった。顔立ちだけじゃない。異能持ちだということまで。霊の気配に大泣きしたことで、そう気付いた。
バレてしまう。わたしが化け物だということが、化け物を産んだせいで。
幸せなんて望むべきじゃなかった。不幸で居続けるべきだった。
その後のことは、あまり覚えていない。
わたしは頭がおかしくなったと言われ、結婚生活は砂山が崩れるように終わった。
娘を連れて実家に戻った。父にとっては、どこまでもお荷物だっただろうと思う。
「この子、嗅覚の強い受信体質だし、前世はいわゆる『百花』っちゅう、江戸時代の
親戚の誰かが小さな娘をそう評した。
可哀想な子。わたしなんかが産んだから。
まともに育つわけがない。この子もきっと、ロクな人生を送れやしないだろう。
可哀想に。
こんな子、産むべきじゃなかった。
気付いたら、娘は私の目の前から消えていた。
父はしきりに誰かと話していた。私の目には映らない誰かと。
わたしは独りぼっちだった。
独りは寂しい。独りは寂しい。
独りぼっちじゃなかったのは、いつだっただろうか。
あの嵐の夜が最後かも知れない。母がすぐそばにいて、二人ぼっちだった。
父のくれた、おまじないのかかった万華鏡が温かで、きれいだった。
あれがきっと、人生で一番幸せな瞬間だった。
万華鏡はどこにあるだろう。確か、父が封印の術をかけて大事に仕舞っていた。
あの中に、母がいる。
わたしもそこに行けるだろうか。
あの時と似た状態を作り出すのに、母が術に使っていた千代紙を万華鏡に貼った。霊の魂を宿らせる人形を作っていた、特別な紙を。
独りは嫌だ。独りは嫌だ。だから——
底のない哀しみの渦から、僕は意識を引き剥がす。
あのまま受信し続けていたら、記憶の中の彼女の異能の影響で、この万華鏡に魂ごと縛り付けられてしまいそうだった。
「服部少年、どうだった?」
「あの……」
僕は今しがた見たものを、掻い摘んで先生に説明した。
「なるほど。強い発信体質の人の、内向きの『念』だったんだな。それで受信型の被害者が引き込まれた」
「『独りは嫌だ』……誰かに傍におってほしかったんですね」
「最初に入った百花さんのばあさんの魂は、あの亡霊が取り込んでまったんだろう」
「こんなのないですよ……お祖父さんは家族を護りたかっただけのはずなのに」
亡霊の彼女は昏い目をして項垂れている。儚げで美しい、触れたら壊れてしまいそうな、庇護欲を掻き立てるタイプの女性だ。
『お願い……独りにしないで』
誰にともなく漏らされた呟き。ガラスのような瞳は、眼前にいる実の娘の姿すら映していない。
百花さんが短く溜め息をついた。
「なるほどねぇ……あたし、母親から無視されとったことしか覚えとらんわ」
「百花さん大丈夫か。無茶はするなよ」
「あたしが無茶するのは、あんたが隣におる時だけだわ、
殺し文句で先生を黙らせてから、百花さんは言い放つ。
「大丈夫、自分でケリをつける」
ほっそりした指が
煙管の火皿に香の粉が落とされる。その手つきに澱みは一切ない。
「ねぇ、お母さん。一つ言っとくわ」
まるで鏡に映したように、よく似た相貌の二人。
だけど。
「あたし、『可哀想』なんかじゃないよ。勝手に決めんといて」
さまざまな角度で映し出された百花さんの瞳は、確かな光を宿していた。
「あんたのことも、別に可哀想じゃないと思う。あたしは少しも同情しない。憐れみや同情や後悔なんかじゃ、変えられるものなんて何もない」
感情の籠らない——否、ぎりぎりまで感情を抑えた声で。
「逝く時はみんな独りだよ。もう忘れやぁ、何もかも」
静かに紡いだ紅い唇が、吸い口を咥えた。
身を屈め、そっと落としたくちづけで、亡霊の魂に濃い桃色の煙が注がれる。
まるで、無償の愛みたいに。
対象者以外には匂いも感じ取れない特殊調合の香は、それでも気の波濤となって僕の肌を泡立たせる。
蔓延っていた『念』は急激に小さくなり、呆気なく収束した。
「……あたしも、忘れるわ」
ふらつきながら立ち上がった百花さんは、こちらを振り返ってひどく哀しそうに微笑んだ。
「さぁ、帰ろ。無念も未練もなくなりゃあ、魂も輪廻に還るでしょ。外に出たら結界解くわ」
「えらい強い術使ったな。立っとるのがやっとだろ」
「まぁね。でも、皓志郎も服部くんもおるし」
先生が懐中時計型スマートウォッチを操作し始めた。
「服部少年、気を呼び込んでくれ。カイコさんに引っ張り出してもらおう」
「分かりました」
僕は両手を打ち鳴らす。パチンと音が弾けて空間が裂け、気が流れ込んでくる。
スマートウォッチの呼び出し音が響き始めると、周りを囲む鏡にヒビが走る。
空気が振動している。
通信回線が繋がる。
鏡の亀裂が蜘蛛の巣状に広がる。
自分の右手の小指から伸びた命綱に、カイコさんの気を感じる。
ひゅっと身体が浮く感覚。入った時と同様の酩酊感。
出口へと引っ張られる。
夢の終わり。
眠りから醒めるように、脳がクリアになっていく、その時。
遠い嵐の音が耳を掠めた。
いや、嵐じゃない。
女性の声だ。
——◾️◾️◾️ちゃん!
「えっ?」
百花さんが小さく声を上げた。
いったい何だったのかと考える間もなく、視界が真っ白に塗り潰され——
瞼を上げると、そこは夕暮れ色の店の中だった。
激しい乗り物酔いみたいな状態の身体に喝を入れて、どうにか半身を起こす。
「おかえり。戻ってこれて良かった」
カイコさんと僕の間にあった糸は跡形もなく消えていた。契約期間満了だ。
「百花さん、おーい」
先生が、まだ横になっている百花さんの肩を軽く揺すっている。
着物の袖から覗く細い腕は、力なく垂れたままだ。
「百花さん?」
解けた長い髪がコンクリートの床に波打って広がり。
睫毛の影は白い頬に色濃く刻まれていて。
百花さんは。
目を、覚まさなかった。
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