3-6 感じるな、考えろ
激しい嵐の音に、聴覚が支配されている。雨の降りしきるノイズに混じり、びゅうびゅうと風の鳴く。
足元からは地面が消えた。前後左右も天地も不覚だ。景色が歪む。心臓が縮む。三半規管が揺さぶられる。眩暈と吐き気が脳と臓腑を掻き回す。
叫び出したい衝動を堪え、目も口も強く閉ざして息を詰めて。
気付けば、僕は倒れていた。
「服部くん、大丈夫? ちょっと気持ち悪かったねぇ」
優しく握られたしなやかな手の感触にハッとして、瞼を持ち上げれば。
「うわぁ……」
開けた目を、即座に
赤、青、黄色に琥珀色。それらが細かに折り重なって、紫、橙、緑も見える。
正六角形を象った模様は、すぐさま形を変えてぱっと見事な花を咲かせ、しかし一つ瞬きする間に今度は雪の結晶を描き出す。
乱反射する色とりどりの光。筒の中の鏡は三枚のはずだけれど、四方八方どこまでも空間が続いているように思える。
いつの間にか、嵐の音は止んでいた。
「三人とも無事に入り込めたね。服部くん、まだぼーっとしとる」
言いつつ
二人とも僕とはレベルが違った。いきなりこの調子で、僕は大丈夫なのだろうか。
「俺んらも
周りを取り囲む鏡には、何人もの僕たちが映り込んでいる。
どこに誰がいるのか、本物はどれなのか。手を繋いでいなければ、あっさり分からなくなりそうだ。
「考えるな、感じろ」
「若い子には通じんのじゃないの」
元ネタを知らないわけではないけれど、先生のドヤ顔があらゆる角度で無数に映し出されて面倒くささが普段の比ではなかったため、僕はスルーを決め込んだ。
僕の右手の小指からは、カイコさんの白い糸が真上に伸びている。混乱しかけた思考がすっと落ち着いた。大丈夫、僕は僕だ。
実を言うと、全身を這うような
「俺んらがここに入ったでか知らんけど、『念』も全部こっちに来た感じだな。充満しとる」
「今のうちに強めの結界張っとくわ。『念』がこれ以上拡がらんように」
百花さんは
「よし。『念』を発する魂の本体を探そう」
三人で手を繋ぎ直して、目の前の鏡をくぐる。すると、似たような景色のところに出た。引き返そうと今出てきたばかりの鏡に飛び込んでも、視界の印象は変わらない。
それは先ほどと同じ場所なのか、あるいは別の場所なのか。鏡のこちら側なのか、あちら側なのか。
二枚で行う合わせ鏡とは違って、三面鏡の反射は複雑だ。次から次へと様相を変える模様は、二度と同じ形にならない。つまり、何も目印になり得ない。
先生が唸った。
「どうも行ったり来たりしとる感じだな」
『念』の気配は相変わらず濃い。
胸の裡には、奇妙な高揚感が生まれ始めていた。
不思議な『念』だ。ひどく心が惹き付けられる。怖気が身体の芯を甘やかして、むしろ心地よく思えてくるほどに。
百花さんの気に似ている、と感じた。
ここにいれば何も怖いことなどないのではないか。なぜなら、完全に鎖された空間なのだから。
柔らかく包み込まれるように、完璧に護られているのだから。
肌の敏感なところを優しくなぞられる感覚。堪らなく気持ちいい。意図せず、熱っぽい吐息が漏れる。自分自身の輪郭すら、とろけていくと錯覚する。
頭が限界までぼんやりしてきたころ、出し抜けに先生が言った。
「感じるな、考えろ。思考を放棄するな」
脳内に直接響く、
「あの被害者たちが言っとっただろ。ずっとそこにおりたいような気分になる夢を見た、と。相手の狙いはそれだ。引き込んだ者を外へ出したくないんだよ」
慌てて深呼吸すれば、身体の軸の感覚が戻ってくる。
一連の案件は、ここから『鏡の世界』へ波及した『念』により、別の場所の鏡が通路に変じてしまったことが原因だった。だから拘束力は弱く、すぐに魂を現世へ連れ戻すことができた。
だけどここは『念』の発信源がある閉鎖空間だ。僕たちも簡単には出られないのだろう。
「悪霊本体を見つけ出して、無力化しんとね」
「カイコさんの糸を辿ってこう。出口の方へ向かえば、相手も何らかの動きを見せてくるはずだ」
白い糸は、やはり真上に伸びている。どうするのだろうと思っていたら、先生が床面から壁面へと足を踏み出す。
すると、空間まるごと、ぐるんと回転した。
「あっ……」
「おっと、大丈夫?」
「あぁ、うん、ごめん」
「顔色が良くない。ちゃっと解決して、なるべく早よここから出よう」
「うん、そうだね」
身を寄せ合い、囁くように言葉を交わし合う二人。
ひゅっ……と胸の奥が冷える。
もしや僕、邪魔ではないだろうか。百花さんと繋いでいる手が気まずい。
いつの間にか、先ほどまで壁だったものが床になっていた。今は前方へと向かっている糸を辿って、僕たちは進んでいく。
さりとて、どちらを見ても色鮮やかな幾何学模様が消えては現れ、やはり目に映る景色は定まり切らない。まっすぐ道を示す糸があっても、方向感覚が麻痺している。
「わっ」
不意に僕は足を踏み外した。
ぐるんと回転。
視界が傾ぐ。繋いだ手が離れる。バランスを崩して膝をつく。足腰から力が抜ける。
玉虫色の地面で、僕は無様に転がった。
先生と百花さんの後ろ姿が遠ざかっていく。倒れた僕に気付かずに。
手を伸ばして声を出そうとした。だけど上手くいかない。
あぁ、でも。
二人の邪魔をしない方がいいのかも。せっかく良い雰囲気なんだし。
ずきりと胸が痛む。
どうして僕はここに来ているんだろう。僕、必要なかったんじゃないのか。
くるくる。きらきら。次々入れ替わる極彩色の花や結晶。それらが、だんだんと闇色に染まっていく。
耳の奥から嵐の音が溢れ出した。吹き
置いていかれた。
いや、自分で望んだのかもしれない。二人が振り返って、声をかけてくれるかどうか。きっと、それを試したくなったのだ。
「君の力が必要だ」と、いつものように言ってもらえたら良かったのに。
唐突に心細くなった。
誰からも必要とされていない。
僕は独りぼっちだ。
轟音が、脳髄を侵食する。暴れる風の音は、まるで女性の悲鳴のようにも聞こえる。
そんな中、鈴を転がすような声が耳を掠めた。
「独りぼっちじゃないよ」
顔を上げれば。
「……茜ちゃん?」
急に音が消えた。
昨日会ったばかりの彼女が、なぜか目の前にいる。
さらさら揺れるショートボブの黒髪。きらりと光る瞳。差し出される小さな手。
「
どうして茜ちゃんがここにいるのか。たぶん夢でも見ているのだろうと、自覚はあった。
だけど何であれ、茜ちゃんの手を取らない選択肢は、僕の中には存在しない。
いつも欲しい言葉をかけてくれる。
僕を必要としてくれる。
「朔くん」
愛らしい微笑み。細い指先が、僕の指に絡んだ。
ぐるんと回転。
仰向けになった僕の上、茜ちゃんの身体が覆い被さるように密着している。柔らかくて、温かい。
「ねぇ朔くん、私だけを見てよ」
至近距離で視線が交じる。薄紅色の唇が近づく。
甘やかな熱を期待して、僕は瞳を閉じ——
「服部 朔、目を覚ませ!」
ハッと瞼を開けた。
横倒しの視界に、見慣れた男物の黒い革靴がある。
「あれ? 茜、ちゃん……?」
「しょうがないやつだな、君は」
樹神先生。
「まぁまぁ。完全に相手のテリトリー内だで、そりゃあ幻覚にもかかりやすいわ」
百花さん。
半身を起こして見回せば、最初にいた鏡の間だった。カイコさんの白い糸は、ちゃんと僕の右手の小指に結えられている。
「さっきのは、幻……?」
先生が唸る。
「俺んら三人とも、知らんうちに相手の術中に嵌まっとったらしいな」
「先生も幻を見たんですか?」
「そう、情けないことにな」
「どんな?」
「……内緒。見破れたんだで別にいいでしょ」
百花さんが気怠そうに溜め息をついた。
「はぁ、あんなもん見せるなんて、どういう悪趣味かしらん……でもおかげで、尻尾を掴めたわ」
右手には煙管。その先に結えられた煙の糸が、一枚の鏡の中へと伸びている。
「まぁいい加減、姿見せやぁよ」
くい、と糸が引かれる。すると折り重なった色と色の合間から、すぽんと何かが抜け出てきた。
香の煙を纏ったそれは、やや小柄な人の形を取っている。
辺りに蔓延っていた『念』がどす黒く変色して膨張する。
それが一気にこちらへ向かってきて、僕たちは瞬く間に包み込まれた。
再び凄まじい暴風雨の音に耳を塞がれ、僕は思わず身をすくませる。鼓膜に突き刺さるのは、まるで甲高い悲鳴だ。
先生が懐中時計型スマートウォッチを突き付けた。
「捕縛」
迫りくる『念』は、ぴたりと動きを止める。
「正体を表せ」
煙と『念』とが、一瞬にして霧散する。
後に残された人型は輪郭が徐々に明確となり、髪の長い妙齢の女性の姿を取った。
美しいけれど、どこか儚げな面差し。
やはり百花さんに似ていると思った。発する気配と同様に。
その百花さんが、わずかに顔を歪める。
「やっぱりそうだった」
嵐の音が、遠くで鳴り続けている。
伊勢湾台風。仕事でしばらく家を空けていたお祖父さん。その間に亡くなったお祖母さん。
魂の抜けた身体は昏睡状態となる。繋がりが維持されているうちに元へ戻さなければ、肉体的にも死を迎えてしまう。
だから、目の前の魂はきっと——
しかし百花さんの発した言葉は、僕の予想とは違っていた。
「久しぶり、お母さん」
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