3-3 ころきしめんと個人的な相談

 百花もかさんの家には、僕も何度か訪れたことがある。一階が化石みたいな駄菓子屋で、家屋自体も相当古い。彼女の仕事の手伝いをした折に、二階の自室に上げてもらったこともあった。

 その家が、一連の事件の中心部とは。


「先生、最近百花さんに会いました?」

「いや、じいさんの葬式の日が最後だな。もうひと月ぐらい前になるか」

「あぁ……」


 百花さんはお祖父さんと二人暮らしだった。お祖父さんはいつも店先にじっと座っていた。話してみると、矍鑠かくしゃくとして快活な人だった。

 そのお祖父さんが、六月上旬、自宅で亡くなった。持病はなく、急な心筋梗塞だったらしい。

 通夜も告別式も身内のみで行うと言われたので、僕は香典だけを樹神こだま先生に託したのだった。


「それから十日後くらいに一回LIMEしたわ。何か手伝うことないかって訊いたら、心霊相談のお客さんを回された」

「あぁ、死んだペットの犬が化けて出るっていう件ですね。犬の霊が大事なおやつやおもちゃの隠し場所を教えてくれとったんでしたっけ」


 それらを一緒に埋葬して弔うことで解決した、簡単な案件だ。


「人一人死ぬと手続きやら何やらでバタつくでな。いくら親戚といっても、家族のことには立ち入りづらいもんでさ」

「そしたら同業者で良かったですよね。百花さんに手を貸せることがあって」

「ん……そうだな、確かに」


 先生はすっかり冷めたコーヒーをぐいと呷ると、スマホ画面をタップした。


「ちょっと電話してみるわ」


 呼び出し音が鳴り始める。それほど大きくもない音のはずなのに、一コールごとに重みを増していくように感じる。

 百花さんの身に、何かあったのかもしれないのだ。

 もはや煩いのは心音か呼び出し音か……というところで、唐突に回線が繋がった。


『……はい?』


 小さく漏れ聞こえる声。二人して顔を見合わせる。

 先生が通話をスピーカーに切り替えた。同時に、人差し指を唇に当てて目配せしてくる。声を発せずに会話を聞いていろということのようだ。


皓志郎こうしろう?』

「やぁ百花さん、今電話いい?」

『うん。いいけど、どうしたの?』

「ちょっとね、百花さんの声が聞きたくなったんだよ」


 甘いテノールに気障なセリフ。しかし先生の視線は怜悧なまま、机上の地図に注がれている。

 そこでピンときた。電話の相手が百花さんの意識を乗っ取った何者かである可能性を疑っているのだ。


 返ってきたのは、苦笑いを含んだ呆れ声。


『もう、またそんなことばっか言って……』


 あれ? 何か満更でもなさそう。


「いやぁ、百花さんがどうしとるか気になったんだわ。最近何か変わったこととかなかった? また代われる依頼でもありゃあ、回してもらえや受けるでさ」

『あぁ、うん……』


 そこから、ふた呼吸分くらいの間が空いて。


『変わったことっていうか……実はね、皓志郎に相談したいことがあって』

「うん、何?」

『あ……でも、仕事じゃなくて個人的なことだで、全然いつでもいいんだけど……電話で話すより、直接見てまった方が早いかも』


 先生の視線が一瞬、ちらと僕に向いた。


「いいよ、俺そっち行こうか。服部少年も連れてった方がいい?」

『ううん、皓志郎だけでいいわ。そんな大したことじゃないし』

「分かった。今日の昼過ぎから行けるけど」

『え、ほんと? ごめんね、忙しいとこ』

「他でもない百花さんの頼みだ。お安い御用だよ」


 ふふっ、とスピーカーからこぼれた軽い笑みが、何となく甘やかな余韻を残す。

 じゃあまた後で、と締めの挨拶を交わし合って、通話は終わった。

 事務所の中に静寂が戻ってくる。


「うーん、どうよ服部少年。今の、百花さん本人かな」

「いつもと変わらんように思いましたけど。強いて言えば、普段よりちょっと可愛らしい印象だったような……?」

「そう? いつもあんな感じなことない?」

「いや、百花さんは先生に対してもっと辛辣というか、先生が変な気障ったらしいセリフ言った時なんかは特に冷ややかじゃないですか」

「ちょっ……」

「普段が普段だけに、可愛くお願いされたら先生も悪い気しんでしょう。『個人的なこと』なんて、僕でもドキッとしましたよ。だから先生を新たな人柱としておびき寄せるための罠の可能性もあるんじゃないかと」

「ひど……信じれん、むしろ君が辛辣だわ……いや、でも、一理なくもないな……」


 先生は溜め息をついて眉間の皺を揉み解し、掛け時計にちらと目をやった。


「ひとまず午後から百花さん行ってくるわ。とりあえず先に昼メシ食いに行こうか」



 梅雨もそろそろ明けようかという七月中旬。

 長く続いた雨も終わり、今日の空は綺麗に晴れ渡っている。天辺に昇り詰めた太陽からは刺すような日差しが照り付け、半袖から出た肌をじりじり焼く。

 こんな日にはさっぱりしたものが食べたいと、僕たちは金山駅近くにある小さなうどん店で昼食を摂ることにした。

 表の張り紙には『冷やし中華はじめました』の文字。軒先には『氷』の旗が揺れ、夏の到来を予感させる。


 入り口をくぐった途端、冷房の効いた空気と出汁の良い匂いに包まれた。

 狭い店内には、他にお客が二組。僕たちは古い木のテーブル席に向かい合わせで座った。

 さっとメニューに目を通し、お冷やを出してくれたお店の人に告げる。


「僕、ころきしめんの天ぷら定食の、麺大盛りでお願いします」

「こっちは冷やし中華で」


 ひんやりしたおしぼりがほてった掌に気持ちいい。氷がゴロゴロ浮かんだお冷やを一口飲めば、渇いた喉が潤う。


 正面の先生が、難しい顔を上げた。


「服部少年、今日この後って何か用事ある?」

「えっ、茜ちゃんと約束してますけど」

「デートか、いいな。ちなみに明日は?」

「明日はカイコさんの手伝いに呼ばれてます」

「分かった。もしかしたら、百花さんの件でまた手を借りるかもしれん」


 先生の声のトーンは思いのほか硬めだ。

 僕は少し反省した。


「もちろん大丈夫ですけど……すいません。僕、余計なこと言ったかも」

「いや、ああいう状況である以上、疑いの目で見て然るべきだ。これで百花さんの相談ってのが本当にただの個人的なことなら、何も問題ないよ。どのみち例の件については百花さんにも話す必要がある」


 先生はふっと頬を緩めた。


「何にせよ百花さんの一大事なら、駆け付けない選択肢はないさ」


 一切の迷いのない言葉。うっかりちょっとカッコよく聞こえてしまい、微妙に釈然としない気持ちになった。


 一人、二人とお客が増えたところで、注文の品が運ばれてくる。


 僕が頼んだ『ころきしめん』とは、冷製のきしめんのことだ。

 濃い琥珀色のつゆからは、白く艶やかな平たい麺が顔を覗かせている。具はシンプルに、三つ葉と油揚げ、それに削り節。

 同じ盆に載った天ぷらは揚げたてらしい。小籠の中に、エビ、さつまいも、かぼちゃ、大葉、ししとうが盛られている。天つゆが付いているので、きしめんの冷たいつゆには浸さないようにということのようだ。


 先生の冷やし中華は、錦糸玉子と細切りのきゅうりとハムで彩られ、天辺には紅しょうがが添えられている。

 そして、ボトルごと置かれたのはマヨネーズ。


「気前いいね」


 先生はマヨネーズを冷やし中華にぐるぐると巻きかけた。


「昔は冷やし中華ってあんま好きじゃなかったんだけどさ。三十すぎてからかな、夏場になると無性に食いたくなるんだわ」

「へぇ。でも確かに僕も、冷やし中華はメニューにあっても選んだことないですね。何だろ、給食のイメージが強いかも」


 小中学校の給食で出た冷やし中華は、ゴワゴワしたソフト麺に、小皿のおかずとして供される具材を自分で載せる必要があり、つゆとマヨネーズの小袋はそれぞれ別添えで、パーツが多くて面倒だった。その上つゆが少なくて麺は解れず、しかも温くて酸っぱさだけが際立っていた。

 給食のように決まりきったものは微妙だけれど、自分で美味しいお店のものを選べるなら良いのかもしれない。


「ちゃっと食おう」

「はい」


 先生は何となくそわそわしている気がした。

 ハニートラップであろうと個人的な相談であろうと、どのみちそわそわするのは頷ける。

 今日はお代わりをやめておこうと思った。


 さて。僕の目の前にあるのは、ころきしめんである。

 箸を割り、一口目を啜る。麺は滑らかな舌触りで、だしの香る冷たいつゆが爽やかだ。削り節の風味も香ばしい。つるつると、いくらでも食べられそうである。

 エビ天を天つゆに潜らせて、ひと齧り。衣はサクサクで、身はまだ熱い。温かいつゆが嬉しい。

 僕の胃袋を満たすには量が足りないのではと思ったけれど、きしめんも天ぷらも絶品で満足度は高かった。


 食事を終えて店を出ると、途端にだるような空気に包まれた。どこかで蝉が鳴き喚いていて、体感温度が急上昇する。

 昼食を摂っている間に、一気に夏が押し寄せてきたような感じだ。金山総合駅までの徒歩三分で、全身に汗が滲む。


 駅舎の中で僕たちは別れた。僕は地下鉄、先生は名鉄だ。


「じゃあ、何かあったら連絡するでな」

「分かりました」


 それぞれに、人波へ紛れる。

 僕も先生も、この時は想像もしていなかった。

 まさか、あんなことが起きるなんて。

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