2-6 手も足も出ない

 誰かの記憶を覗いていた。

 僕は僕の自我を保ったままで、ガラス越しの情景を眺めるように。

 よし、今回は大丈夫そうだ。

 現世うつしよに紐付く清浄な気を自分に纏わせつつ、僕は相手の魂へと意識を集中させた。




 ——それは、雨の降る日だった。


「ついついつっこぉばち ごまみとじゅい たつぼにおあえて とっぴんたん」


 ひどく舌足らずな甲高い声が、家屋の中に響いていた。


「坊や、『たつぼ』じゃなくて『ちゃつぼ』よ」

「たつぼ?」

「ちゃつぼ」

「たつぼ」


 は、母子の会話を聞くともなしに聞いていた。

 粗末な戸の隙間から入ってくる湿気は、陶器でできた彼の身体にしんしん滲みる。どうにも辟易していた頃合い、微笑ましいやりとりが彼の内側で柔らかく反響した。


「将軍さまへ運ぶお茶壺が通る。お外は出られん。もう少しの辛抱だよ」


 御茶壺道中おちゃつぼどうちゅうの風刺歌。外が雨でなかろうと、どのみち籠りきりなのだ。


 同じ茶壺でもずいぶん違うものだ、と彼は思った。

 彼はくだんの巡行が始まるよりずっと前の時代に造られた茶壺だった。瀬戸窯せとようの里で長く保管されていたのが、ある時この母子のものとなった。


 二人の暮らしは、決して楽なものではなかったようだ。

 遠くからこの土地へと流れてきて、縁ある者よりこの住居を宛てがわれ、住み着いた。

 その際に与えられた生活のための道具の一つが、彼だったのだ。

 初めのうちは金銭などの援助も受けていたようだけれど、次第にそれもなくなったらしい。

 茶葉を入れるはずの彼の中は空っぽだった。抹茶どころか、煎茶すらも。


 だけど、それでもいいと、彼は思っていた。

 どのみち彼は不要物だったのだから。

 瀬戸窯には新たな知と技が伝えられ、瀬戸物は陶器から磁器への時代を迎えていた。

 古い製法で造られた彼は、もはや誰からも見向きされず、里の外れの蔵の奥で静かに朽ちるのを待つのみだった。

 こうして人の手の触れる場所に出られただけでも、幸運だったのだ。


 調子はずれな『ずいずいずっころばし』の歌を、何度か聞いたある日のこと。

 彼の中に、硬い何かが落とされた。金属でできた貨幣だ。

 ちゃりん、ちゃりんと軽い音を立てるそれは、日に日に募っていった。


 母親の方が、彼に触れながら言った。


「どうか、何かの折には、よろしくお願いします」


 それは彼の中にあるお金へと向けられた言葉だった。

 だけど彼は、中のものを護れと言われたように思った。

 自分を撫でたその手を、彼はとても温かく感じたのだった。


「坊や、困りごとがあったら、この茶壺の中を覗きなさいね」

「たつぼ?」

「ちゃつぼ」

「たつぼ」


 相変わらず舌足らずな男の子は、小さな掌で彼をぺたぺた触った。その手もまた何とも温かく、しっとり湿っていた。湿り気を心地よく感じたのは初めてだった。


 新たな役目を与えられた彼は、誇らしい気持ちでいっぱいだった。

 この母子の慎ましやかな暮らしを護る一端となったことで、やっとまともな道具となれたように思ったのだ。


 彼の中身は、少しずつかさを増していった。

 それと同じように、彼に触れる男の子の手も少しずつ大きくなっていった。彼の名を『ちゃつぼ』と、正しい音で紡げるようになっても、その響きの中に『たつぼ』と言っていたころの甘さがあった。


 あぁ、これが『幸せ』というものなのかもしれない。彼はそう思った。


 だけど、そんな幸……長くは続……な——……




 この後からこそが、きっと『念』に繋がる重要なところなのだ。そう思った矢先。

 クリアに再生されていた記憶の映像に、突然ノイズが混じり始めた。


 僕はもう一息、うつし身の丹田に気を入れて、相手の魂へと歩み寄る。

 どうしたことか、自分の魂の軸がふらりと傾いだ。

 その拍子、自分と相手とを隔てる透明な境界を踏み越えてしまった感覚があった。


 今になって思い出す。高校の弓道部時代、師範から言われた。

 丹田に心気を込めろ、ただし丹田を意識し過ぎるな、と。

 そこだけに集中すると、姿勢が乱れやすくなってしまうのだ。


 目の前の光景が揺らぐ。

 引っ張られている。意識ばかりでなく、魂もろとも。

 強い『感情』の渦が、茶壺の魂から巻き起こっている。

 抗おうとした。だけど、抗いきれなかった。


 せっかく線引きできていたはずの魂の境目が曖昧になる。現世に繋がるものに縋る暇もない。

 取り込まれる。混ざっていく。侵食される。


 そうして僕の自我は、あっさりと僕の手を離れた。




 僕は誰。


 僕は——れだ。


 己れは——




 ……——だが、そんな幸せも長くは続かなかった。


 己れがこの母子のものとなってから、季節の廻りを八か九か数えた頃合い。

 坊やの母御が、床に臥した。糊口を凌ぐための勤めの所為で、病を得たようであった。

 己れのからだに触れる掌は次第に荒れ、ひび割れた。

 己れの内側でちゃりんちゃりんと響く音を聞かぬ日が募っていく。


「お母、薬買ってくる」

「よしなさい、そんな余計なこと」

「でも、あの茶壺の銭で……」

「あれはお前のための銭だよ」


 そう云われても、坊やは何度か己れの中の銭を取り出そうとしていた。

 だが結局、母御の言い付け通り手を付けることはせず、別の手立てで稼ぎを得ることにしたらしい。


 それが、地獄の始まりであった。


 坊やは外へ出る度、怪我をこしらえてくるようになった。どうしたのかと母御が訊ねても、黙り込むばかり。

 僅かな入り前では、育ち盛りの坊やの腹が膨れる迄には到底足らぬ。ようやく得た薬も、母御の病には用を成さなかった。

 時折、無頼者がやってきて、坊やが折角稼いだ日銭を根刮ねこそぎ奪っていった。


 母御は日一日と弱っていく。

 己れは只その場に在っただけであった。

 坊やの留守の間、母御が呻く。

 己れは只その場に在っただけであった。

 坊やは母御に心配をかけまいと、傷の痛みにも聲を押し殺す。

 己れは只その場に在っただけであった。


 遂に母御は静かになった。

 帰ってきた坊やが母御の様子に気付き、くずおれた。


 矢張やはり、己れは只、その場に在っただけであった。


 弔いも儘ならぬうち、追い討ちの如く無頼者共が訪ねてきた。


「いくら餓鬼とは言え、限度ってもんがある」


 彼奴きゃつらは坊やを痛め付け、懐にあった雀の涙ほどの銭を巻き上げた。

 そして、一人が目敏めざとく己れを見つけた。


「兄貴、この壺ん中にもありましたわ」

「やめろ! それはお母の……」

「うるせぇ!」


 坊やの蹴り飛ばされる音で己れの身が震えた。

 乱暴な太い指が己れに触れ、泥砂利を掻き回すような聲が己れの内側に放られる。


「何だ、全然足らせんがや、糞餓鬼が」


 足らぬ、と。

 母御が坊やの為に懸命に貯めた銭が。

 坊やが手を付けずにいた大切な銭が。


「こんな壺でも売っ払や二束三文にゃなるだろ」

「いや待て。この餓鬼、噂に拠りゃあ、あの陶工の……」

「ほんなら、上手いこと言や高く売れるかもしれんわ。壺ごと貰ってくでな」


 足らぬ。

 無頼者から逃れる為の、脚が足らぬ。

 足らぬ。

 坊やを助け起こす為の、手が足らぬ。

 足らぬ。足らぬ。足らぬ……


 ——どうか、何かの折には、よろしくお願いします。


 そう云われた筈であった。

 己れが護る役目を賜った筈であった。


 足らぬ。足らぬ。用に足らぬ。


 己れは見知らぬ男の手に担ぎ上げられた。


「待っ……」


 粗末な戸板が、乱暴に閉ざされた。


 不快な水の粒が容赦なく打ち付け、軀に滲みた。残った僅かな温もりさえも奪われる。

 もう何もない。全てを失ってしまった。

 それは、雨の降る日であった。

 冷たい、冷たい、雨の降る日であった。



 以降、いくつかの古物商を転々とした。

 己れは珍しくも何ともない、時代遅れの茶壺であった。

 たとえ名匠に似せた銘をあたえられようと、仮初かりそめの名に過ぎぬ。

 たとえ誰の手に触れられようと、ろくに役目も果たせはせぬ。


 足らぬ……足らぬ……足らぬ……




 混濁した意識を切り裂いて、声が届く。


「服部 はじめ!」


 樹神こだま先生の声だ。

 茶壺の記憶は再生を終え、映像は途切れた。

 どうにか瞼を持ち上げれば、そこは夕暮れ色に染まった『懐古堂』の中だ。


 だけど、何かがおかしい。

 自分の意識の輪郭を掴めない。


「服部少年?」


 先生が目の前にいる。それは分かる。だけど。

 返事ができない。呼吸が浅い。指先一つ動かせない。


 僕の魂は、僕の身体の中で、僕ではない魂に呑まれたままだった。

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