2-7 その名を抱く
「服部
保ちたい。保たねば。というか、言われた通り辛うじて、そうすることしかできていない。
ぼやけた視界に、大人三人の姿がある。
カイコさんと先生は難しい顔だ。
「こりゃあ相当強い内向きの『念』だったんだねぇ」
「どうしたらいいですか」
「うーん、私の糸じゃ下手すると服部くんの魂ごと引き摺り出してまうかも……」
「ほんなら、あたしの出番だね」
そう言った
長い髪が空中に躍る。不思議な香りが辺りに拡がる。鼻を抜けて頭の奥まで滲み入るような、華やかで強い匂いが。いつも百花さんが髪に焚きしめている、感覚を開くための香だ。
ぼんやりしていた自意識が、一段飛ばしにクリアになる。
「ごめんね、ちょっと我慢しとってまえるかしらん」
百花さんは僕の正面に立ち、どことなく気怠げな眼差しで僕を捉えた。瞳の奥は昏く、底のない闇が覗く。
色白の手には
ほっそりした指が伸びてきて、そっと僕の顎を持ち上げた。気付けば至近距離に百花さんの顔がある。
鼻先が、触れ合うか否か。
唇が、触れ合うか否か。
肌に淡い熱の気配を幻覚する。本当に睫毛の長い人だなと、変に感心しているうちに。
ふぅっと、甘い匂いのする吐息が口元にかかった。
思わず深く吸い込んだ香の煙が、僕の身体の内部に円く留まったのが分かる。
「捕まえた」
少し掠れた囁き声が、優しく耳朶を撫でていく。
煙管の先がくるくると円を描く。そこに結わえられた糸状の煙が、僕の口へ、喉の奥へと繋がっている。
そして。
「そぉれっ」
手首のスナップで勢いよく糸が引き上げられれば、腹から喉を通ってすぽんと何かが抜き取られる感覚があった。
朧げだった自分の魂の輪郭を、突然くっきり自覚する。頭の天辺から爪先まで、僕という存在が確固としたものになる。
同時に襲いくるのは、凄まじい倦怠感だ。堪らなく身体が重い。
「う……」
「服部少年、無事か」
「あっ……は、はい……」
「なら良かった」
先生の低い声に、安堵の色が混じる。
じくりと胸が痛んだ。
心配をかけてしまった。せっかく頼りにしてもらったのに。
「服部くん、これ使やぁ」
百花さんからハンカチを差し出され、僕はやっと自分が泣いていることに気付いた。
心を落ち着けようと息を吐いたら、逆にタガが外れたらしく、後から後から涙が溢れてくる。
「うぅっ……」
「そんなに泣かんでいいよ。よしよし、服部くんは頑張ったよ」
「す、すいませ……っ」
結局、濡れた頬を拭いてもらった上、頭まで撫でられてしまった。小さな子供みたいに。
しかも、さっきは唇が触れ合いそうだった。
急速に鼓動が足を速め、かぁっと顔面に熱が上る。今もきっと、あのふっくらした唇が目の前にある。少しも顔を上げられない。
情けないのと、恥ずかしいのと、どうにも処理しきれないモヤモヤしたものが
「百花さん、今日は大サービスだな」
「いや、さっきのは寸止めだでね。今の時代コンプラとかいろいろあるし」
寸止めだからいいというわけでもない。
むしろ寸止めだからこそ、無限に想像が拡がってしまう。
……ごめん、茜ちゃん。
「それにしても百花ちゃん、
「カイコさんの糸の使い方、あたしなりにアレンジしたんです」
言われてみると、カイコさんと百花さんの術は似たところがある。師弟に近い関係なのかもしれない。
引き換え、僕は全然ダメだ。これで樹神先生の助手を名乗ろうだなんて
足らない。力が足らない。
足らない。足らない。足らない……
——足らぬ……足らぬ……足らぬ……
「服部 朔。回線を閉じろ」
混濁する情動の渦を切り裂いて、先生の
途端ぱちんと頭の中で何かが弾け、嘘のように思考がクリアになった。
「自我の主導権を手放すな」
「あっ……は、はい……」
「とりあえず深呼吸」
「……はい」
鼻から息を吸い、口から吐く。自我の領域に線を引き、外側からの情報をシャットアウトした。
基本中の基本だ。普段ならば、無意識でもできることなのに。
「魂ごと呑み込まれて、いつもより同調しやすい状態なのは分かるが、君とあれとは別の個体だ。ちゃんと客観視しろ。あの茶壺の『念』も、君自身の感情もな」
「でも、あの……」
「泣き言は後で聞く。今すべきことは何だ」
「……あの魂を、浄化することです」
「よろしい」
先生は力強く頷く。
「カイコさんから大体の経緯は聞いた。だが、魂に直接触れた君の口から、あの茶壺のことを教えてほしい」
僕の中には、茶壺の魂の名残がある。まるで型抜きしたみたいに、そこだけぽっかり穴が空いて、上手く埋めることもできない。
茶壺は今も苦しそうに呻き続けている。
——足らぬ……足らぬ……足らぬ……
「……足らないのは、自分の持ち主だった母子を助ける力でした。お母さんの方は病気に罹って、息子の方は薬代を稼ぐのに不味い手を取った。目の前で二人がひどい目に遭っとっても、何もできんかったんです。あの『念』は、無力な自分に対する悲痛な嘆きです」
今になって、あれこれ考えが広がる。
『ずいずいずっころばし』の春歌説。母親の仕事が何だったのか。どんな病気だったのか。
恐らくそれゆえ、母子は周囲からロクに助力を得られなかった。結果、息子はタチの悪い連中と付き合いを持ってしまった。彼はその後どうなったのか——
知る術もない、想像するしかないそれらのことが、幻の傷痕を抉る。
「持ち主の母子は、遠くからこの土地にやって来て、
あの無頼者は「噂に拠りゃあ、あの陶工の」という言い方をしていた。噂話が一人歩きすることなんて、いくらでもある。
「断定はできません。茶壺にとっては、ただの自分の持ち主でした」
「そういうことか。ここからは本人に訊いた方が良さそうだな」
「会話、できるんですか?」
「壺には『口』があるだろ」
言われてみれば確かに。だから『声』も聞こえたのだ。
先生は茶壺の側にしゃがみ込んだ。その手には懐中時計型スマートウォッチ。
「やぁ、こんにちは。君と話がしたい」
時計に仕込まれた機構と蓋の紋章が、
はたして、茶壺は応えた。
『
「あぁ、そうだよ」
『お前は何者だ。何か用か』
「これは失敬した。俺は樹神という者だ。君の現在の持ち主からの依頼で、君と話をするに至っている。君の抱える事情は大筋で把握しているつもりだ。持ち主だった母子のこと、さぞ無念だっただろう」
『あぁ……』
「だが、君に落ち度はなかったはずだ。自分を責める必要はない」
しばしの沈黙の後、茶壺は低く唸った。
『そんなことは
「誰も、自分以外の何者かにはなれないさ」
『それも解っている。だが、己の無力を嘆かずには、あの母子に申し訳が立たぬ』
「なるほど、理解はできる。しかしこのままでは、君の魂は闇に堕ちてしまうだろう。母子への想いもろともな」
『……どうしたらいい』
先生はきっぱりと言った。
「最も手っ取り早いのは、原因となった記憶を消すことだ」
『記憶を消す、だと?』
「あぁ。辛いことを忘れてしまえば、もう嘆くこともないだろう。ただ、それには個を特定する名前が必要だ。不本意かもしれないが、君に付けられた銘を使用させていただく」
『……
どこか自嘲気味に聞こえる呟きだった。
だけど。
呼び名。
僕の脳裏に閃くものがあった。
「『たつぼ』……」
「え?」
「『たつぼ』です、先生。持ち主の男の子が、最初は上手く『ちゃつぼ』って発音できんくて、『たつぼ』って」
息を呑むような間。
『……あぁ、懐かしいな。確かに己れは「たつぼ」と呼ばれた』
先生が小さく笑う。
「『茶壺』じゃなくて『
用途によって道具の呼び名は変わる。
この壺に、茶葉は入っていなかった。
あったのは、少しのお金と、そこに込められた子を想う母の愛情だった。
名前とは、当人を当人たらしめる混じり気のない唯一の言葉。
『たつぼ』。それが彼の名だ。
「では『たつぼ』。辛い記憶を消し去り、長きに渡った苦しみから君を解放しよう」
それは救いを
しかしなぜか、胸を締め付けられる思いがした。
夕暮れ色の空間が、しんと静まり返る中。
『……厭だ』
彼は、搾り出すような声で言った。
『消さないでくれ』
その瞬間、鮮やかに蘇る。
あの、可愛らしい呼び声。
——たつぼ!
『忘れたくない』
そっと触れた、あの優しい手の温もり。
——どうか、何かの折には、よろしくお願いします。
例え辛い記憶に繋がっているのだとしても。
『己れはあの母子と共に在った。そのことを、何一つとて忘れたくない』
——坊や、困りごとがあったら、この茶壺の中を覗きなさいね。
——たつぼ?
——ちゃつぼ。
——たつぼ。
きっとこの世で一番幸せな道具だったに違いない、大切な思い出だ。
「……承知した。君の意思を尊重する。優しい人たちだったんだな。だから君にも優しい魂が宿った。その魂こそが、君が二人と共に過ごしたことの何よりもの証だ。何よりも
『あぁ……』
張り詰めていた空気が解けていく。もう雨の匂いはしない。
先生は柔らかな口調で続ける。
「ところで、君に頼みがある」
『何だ』
「今の持ち主が、君に新たな役目を望んでいるんだ」
『新たな、役目……』
「君の中に茶葉を保管したいそうだ。心優しい女性だよ。きっと君を大切に使ってくれる。任せていいか」
『……悪い話ではなさそうだな。いいだろう』
改めてスマートウォッチが握り直される。
「『たつぼ』、君の前には道がある。過去から未来へ続く道だ。そのままでいい。前へ進め」
穏やかに、沁み入るように、
茶壺の纏う『念』が収束していく。他者を引き込むような重苦しさは
だけどそれは、決して消えたわけじゃない。まだ彼の中にある。『たつぼ』という存在を構築する、重要な一部分として。
『……ありがとう』
小さな呟きを残して、『たつぼ』は沈黙した。
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