2-5 女神と生なごにゃん
そして僕にとっては、
からころと、下駄がコンクリートを軽やかに打ち鳴らす。
今日の彼女は、水色の地にセピア色の縦縞模様の着物。白の帯に、濃い紫の帯締めが映えている。
夕暮れ色に沈んだ店内に、爽やかな色彩が加わった。
「やぁ百花さん、今日はひときわ可憐だね」
「
いつものように先生の気障な口説き文句をさらりとかわした百花さんは。
「ご無沙汰してます、カイコさん」
「百花ちゃん、久しぶり。モダンな装いだねぇ。可愛らしいわ」
「うふふ」
一方で、カイコさんの言葉には満更でもなさそうに笑みを
「服部くん、今日もよろしくねぇ」
「あっ、はい、よろしくお願いします」
長い睫毛に縁取られた切れ長の双眸が笑みの形に細められ、ふっくらした艶やかな唇が柔らかく弧を描く。結い上げた髪を留める
負の方向へ傾きかけていた空気が、ぱぁっと払拭されていく。
「待っとったわ百花さん。こればっかは俺じゃどうしようもないもんでさ」
「もう、あんたねぇ、服部くんに慣れんことさせて」
「これが問題の茶壺ね。なるほど、只ならぬ気配だわ」
着物の裾を整えながら膝を折った百花さんは、壺の側面にそっと触れた。
「へぇ、渋い。こういうの、どこで買えるんかしらん」
「百花ちゃん、興味ある? メロカリでも出とるよ」
「メロカリって何でもありますよねぇ。あたし、こないだネットで香炉買って——」
カイコさんと百花さんは仲が良いらしい。二人を包む雰囲気は和やかだ。軽い世間話が何往復か続く。
壺を撫でる百花さんの手が、不意に離れた瞬間のことだった。
——足らぬ……足らぬ……
「んっ?」
しばらく静かだった壺が、急に『声』を発したのだ。
だけど、百花さんの手が再び触れると。
「あ、何も言わんくなった」
手が離れる。
——……らぬ……足らぬ……足ら——
触れる。
沈黙。
離れる。
——足らぬ……足らぬ……足——
「触っとるうちは声が止まるってこと? スキンシップが足らんてことかしらん」
百花さんが小首を傾げる一方で、先生はぼそりと呟く。
「あの壺の気持ちは分かる」
「思っても口に出さんといてください」
「金と女が好きなのかもしれん」
「じゃあやっぱり酒も用意しとくべきですかね」
前の持ち主は二十世紀の成金みたいな人だったのかもしれない。
「そもそも、どういう壺なの?」
「あぁ、これはねぇ——」
カイコさんから壺に関する概要を聞いた百花さんは、意外な言葉を口にした。
「うーん、雨の日ねぇ……関係ないかもしれんけど、『せともの祭り』の都市伝説って知っとる? 毎年二日間ある日程のうち、絶対どっちか雨が降るんだって。加藤民吉に関する話が元になっとるんだけど」
曰く。
加藤民吉は、日本初の磁器・肥前の有田焼の製法を知るため、
門外不出の磁器の製法を習得すると、民吉は逃げるように地元へ帰った。
夫を追って瀬戸へとやってきた現地妻とその子供は、彼に家族がいることを知り、池に身投げしてしまったという。
「だもんで、『せともの祭り』で降る雨は、その奥さんと子供の哀しみの涙だって言われとるみたいよ」
「哀しみというか、呪いっぽいですね」
「うん、あたしもそう思う」
百花さんは優しげな角度の眉根をきゅっと寄せた。
「あたしだったら男を怨み倒すわ。要は利用されとったってことでしょ。しかもそれで重要機密の製法が外に漏れてまったんなら、おめおめ
先生が頷く。
「土地に
「それに、贋物とはいえ仮にも『民吉ゆかりの壺』って言われとったんでしょ? 呼び名ってそれなりの力があるよ。どんな経緯でそんな銘が付けられたか知らんけど、そのせいで本当に民吉ゆかりの怨念とリンクしてまったのかもね」
だが、と先生は付け加える。
「その現地妻のエピソード自体がガセだって説もある。実は初めから身分を明かして普通に弟子入りしとったとか、ただ愛人がおっただけとか。真相は不明だ」
何にしても。
「結局のところ、この壺そのものがどんな『念』を抱えとるのかってことよね」
まぁ、そうなるだろう。遠のいていた不安が一気に戻ってくる。
「ほんで、もう今から服部くんがこの魂を憑依させるの?」
「あ……そう、ですね。あの、でも、こないだは自我を乗っ取られかけてまって……」
「そっかぁ、それは怖かったよねぇ」
「……はい」
なぜだか百花さんには素直な気持ちを吐露できる。
「百花さんも、憑依の経験あるんですよね? 怖くなかったんですか?」
「ん、普通に怖いよ」
「えっ?」
「怖いっていうか、緊張するよ、未だにね。ほらあたし、前世の魂も元々この身体の中にあるでしょ。そこへ更に別の魂を入れるとなると、自分とそれ以外との境界のバランスが揺らぎやすくなるんだわ」
百花さんは、生まれながらに前世の記憶を持っている。彼女の纏う独特の気配は、このためだ。
一つの身体に二人分の魂。そもそも魂の器になりやすい体質なのだろう。
「怖いって思うのは全然悪いことじゃないよ。それだけ慎重にできるってことだでさ」
悪いことじゃない、と。
急に視界が明るくなった気がした。
「自分自身が不安定にならんようにね。呼吸が大事なんだよ。おへその下辺りを意識してね」
「えぇと、丹田ですか?」
「そうそう、よぅ知っとるね」
「高校の時、弓道部だったもんで」
それならば身に馴染んでいるのでイメージしやすい。
「まずは良い気を引き寄せる。次にそれを吸い込む。特に
言われてみればと、納得する。前回の憑依では慌てて呼吸をしたものの、特にどの気を取り込もうという意識もなかった。
「そうやって自分の存在を強く保つこと。自分の内部でちゃんと境界線を引くこと。いったん感覚掴めば、きっとすぐ慣れてくるわ。服部くんがいつもやっとる基本の応用だでね」
「はい」
ふんわり微笑みかけられて、気持ちがずいぶん和らいだ。
「後はねぇ、外向きより内向きの『念』を持つ魂の方が引っ張られやすいもんで、用心しやぁよ」
「外向きと、内向き?」
「外向きは、他者に対する怨みつらみ。内向きは、自分自身への後悔や嘆き」
先日の市松人形は、外向きの『念』だったのだ。
今回のケースはどちらだろう。
「内向きの『念』を持つものは、内側に溜め込んでまう性質ってことね。異能の性質に置き換えてみや分かりやすいかも。謂わば服部くんみたいな受信型だよ」
「あぁ……」
受信型は他者の思念などを引き込む性質。
つまり、内向きタイプの魂を身体に取り込むと、今度は逆に自分の魂が取り込まれかねない。まるでマトリョーシカみたいに。
「外側から見とる分にはそれほど害はないんだけどね。この壺は内向きっぽいね、攻撃性は感じんし。だで、距離感に気を付けやぁよ」
「分かりました。用心します」
「あたしらみんな服部くんの傍におるで、気楽にね。不安になったら思い出しゃあね」
「あっ、はい……っ」
百花さんのしなやかな手が僕の二の腕に触れ、そして離れた。あの壺の気持ちがよく分かる。
「じゃあ、憑依の前に、現世に結び付くものをお腹入れとこっか」
そうして百花さんから差し出されたものは。
「……『生なごにゃん』? こんなのあるんですか?」
「うん、ちょっと前に『生』が出たんだわ」
そもそも『なごにゃん』とは、名古屋に本社を置く製パン会社が製造している饅頭である。スーパーなどで気軽に買えるものだ。
薄いカステラ生地の皮に、黄色っぽい餡子。パサパサした食感が特徴的なので、飲み物必須のお菓子である。
しかし『生』と冠するのは、何が違うのか。
カイコさんが僕の手元を覗き込んでくる。
「それ、どんな味?」
きらきらした上目遣い。
……まぁ、いいか。
せっかくなので百花さんのアドバイス通り清浄な気をしっかり取り込んでから、カイコさんに憑依してもらった。
確かに先日より、自分の中のカイコさんの存在を冷静に受け止められている。
憑依の負担をあまり感じないのは、やはり気のせいではないと思う。『念』の有無というよりも、彼女の魂自体がひどく軽いような。
『早よ食べてみりん』
「あぁ、はい」
僕は生なごにゃんを一口齧る。
まず、皮がしっとりもっちりしていて驚いた。そして餡は滑らかでクリーミー。
蜂蜜風味の優しい甘さはそのままに、食感だけが全く違う。
『わぁ、美味しい!』
「うん、美味しいですね」
共有する感覚に対して、同じ感想を呟く。
僕の身体から出たカイコさんの表情は、蕩けそうなほどうっとりしていた。
「はぁ、美味しかったぁ……服部くんの中ほんと最高……」
先生が物言いたげな視線を寄越してくるけれど、僕は無視を決め込んだ。
百花さんが睫毛をぱちくりさせる。
「そっかぁ、服部くんがこの手の憑依に向いとるってのは、感度がいいからなのね。あたしも時々やるけど、中に入った
あはは、と転がる笑い声は、心地よいほど軽やかだ。
百花さんは少し前、ある女性の幽霊を自分に取り憑かせ、未練を晴らさせてから成仏させていた。恐らくその時にも憑依を行ったのだろう。
「感度がいいなら、余計に心を強く持たなかんに。相手と混じってまわんようにね」
「……分かりました」
いよいよである。
僕は三人に見守られながら、椅子に深く腰を据える。
背筋を伸ばし、両手を打ち鳴らして気を呼び込む。丹田を意識しつつ、それを鼻から吸い込んだら、勢い良すぎて盛大に咽せた。
「気張りすぎだ」
先生から苦笑気味に
「じゃあ、始めるよ」
カイコさんが口から糸を吐き、茶壺の魂を絡め取る。
「契約しよう、服部
ひゅっと気を吸われる感覚。
繭が浮き上がり、僕の心臓の辺りへ沈むように消え——
……思えば、この時点で僕は、ちょっと変に力んでいたのかもしれない。
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