幕間

幕間 僕の居場所、君の居場所

 チャイムが鳴る。

 「今日はここまで」と、壇上の講師の声がスピーカーから響く。

 荷物をまとめた学生たちが席を立ち始め、大教室はにわかに騒がしくなる。

 必修科目のため、履修者は多い。まだ入学してひと月も経っていないのに、学科内では既にグループができているらしい。キラキラした女子の集団が賑やかに通路を闊歩していくのを、僕はゆっくり後片付けしてやり過ごす。


 三限目が終わり、時刻は午後三時すぎ。

 授業のあるコマが曜日によってバラバラで、毎日のスケジュールを一定に保てない大学生活には、正直まだ慣れない。

 今日のように一限から三限まで隙間なく埋まっている日はいいけれど、空き時間があると困ってしまう。


 高校までは自分のクラスがあった。教室内に居場所があったとは言い難いけれど、それでも朝から夕方まで座っていられる席が存在した。

 うちの学部では、研究室に入るのは二回生から。一回生のうちは所属先もない。どこへ行っても借り物の椅子に座っているような気分だ。


 これでも一応、サークルや部活の勧誘の時期に弓道部のブースを覗いてみたりした。高校までは弓道部だったから。

 だけど新歓コンパに参加するのが億劫で、結局どこにも入らずじまいで今に至る。

 よく知らない人たちと呑んだこともない酒を呑むのは、さすがに不安要素が大きすぎた。体育会所属の運動部だと基本的に飲み会も全員強制参加だと聞き、集団に飛び込むハードルが上がったように思えた。


 僕は昔から人付き合いが苦手だ。

 強すぎる霊感や共感応エンパス体質のせいで、物事の感じ方が他の多くの人たちとは全く違う。気を抜くと、いくらでも余計なことを受信してしまったりする。

 みんな普通にやっていることが、僕にはとても難しい。


 教室棟を出て、駅へと向かう。大学名を冠した地下鉄の駅は、キャンパスの敷地を貫く主幹道路沿いにある。

 僕の通う国立N大学は広大だ。東京ネズミーランドの約六倍もあるらしい。そのうえ構内は起伏が多くて移動が大変なので、基本的に自分の授業に関係あるエリアにしか足を踏み入れない。

 大学生になったところで、交友関係どころか行動範囲も限定されている。

 訳あって居候している叔父夫婦の家と、大学と、樹神こだま探偵事務所。

 僕という人間を構成するものは、片手で足りるほどしかない。


 今日はこれから約束がある。

 週に一度の、僕にとって唯一の友達と言える相手との約束が。



 予定より五分早くいつものカフェに入り、席に着いてメニューを眺めていると、彼女はやってきた。


はじめくん!」


 さらさらしたショートボブの、小柄な女の子。水玉模様のワンピースが可愛らしい。狭い歩幅で駆け寄ってくる様子は、小動物を思わせる。


「ごめんね、待った?」

「ううん、ついさっき来たとこだよ」

「そっか、良かった」


 僕の正面に腰を下ろした彼女、阿久比あぐい あかねちゃんは、僕と同じ十八歳だ。


 茜ちゃんとは、小学四年生の時に知り合った。

 僕が祖母の見舞いで訪れていた病院に、長期入院中だった彼女。週に一度の約束で、院内の中庭でお喋りをするのが、当時の僕の心を支えていた楽しみだった。

 そんなある日、茜ちゃんは大きな手術を受けた。

 以降、七年間。

 僕たちは約束を違えたまま、離れ離れになった。

 術後に昏睡状態に陥り、生霊となった彼女は、その地に巣食う怨霊に魂を囚われてしまっていたのだ。


 自我を奪われた茜ちゃんの魂を救い出したのが、約一年前。

 そこから彼女は三ヶ月ほどの療養を経て退院し、現在は自宅から定期的に通院中だ。

 この春には通信制高校に入学した。彼女なりのペースで、高卒資格を取ろうと頑張っている。


 僕たちは十歳の時と同じく、週に一度の約束で一緒にお茶している。

 茜ちゃんはいちごパフェ。僕はメロンフロート。二人して甘いものを頼んで、一週間ぶりに向かい合う。


「学校行った日は、やっぱりすごく疲れちゃう。生徒もいろんな事情の人がいるから、お互い踏み込まないようにしてる感じ。ある意味、それはそれで楽なんだけどね」


 そう言う茜ちゃんは、僕の前ではよく喋る。楽しかったことも、難しかったことも。

 鈴の転がるような声で紡がれる言葉が心地いい。僕の空っぽの胸の中では、特によく反響する。


「僕も、バイトでちょっと大変なことがあったよ」


 茜ちゃんも第六感が冴えている方で、昔から怪談や都市伝説が好きだった。

 だから僕が『懐古堂』や付喪神つくもがみの話をすると、瞳を輝かせた。


「『狭間の世界』の骨董店なんて素敵。それで、その人形はどうなったの?」

「あぁ、うん……」


 憑依のことに触れると、腹の底がヒヤッとする。

 いっそのこと少しくらい見栄を張って、自分の活躍を盛って話すような図太さが僕にあったら良かったのだろうけれど。ただ事実を淡々と説明するに留めた。


「……そんなわけで、最終的に浄化はできたんだけど、僕にはまだ難しいよ。次にまた憑依することになったら、上手くできるんかな」


 少し弱音みたいになってしまったのが情けないけれど、優しいフォローを期待する気持ちも薄っすらあったかもしれない。

 が。


「そっかぁ。その人形も、カイコさんてひとも、朔くんの中に入ったんだ。……なんか嫌」

「えっ?」

「朔くんの身体の中で、朔くんと一つになってたってことでしょ?」

「ちょっ、言い方! そんなんじゃないって。危うく身体を乗っ取られるところだったんだでさ」

「ふぅん」


 軽く尖らせた唇。じぃっと上目遣いにめ付けられる。


「朔くんはみんなに優しいよね」

「えぇっ……? そ、そんなことないよ……単にヘタレなだけだし」


 みんなって。僕にはそんなに知り合いもいないのに。


 ふわりと、『嫉妬』の感情を受信する。周囲から影響を受けすぎないよう回線を閉じた状態ですら伝わってくる、直接的に僕へと向けられた強い想い——すなわち、好意に起因するもの。

 心拍数が勝手に増す。かぁっと頬に熱が上る。

 嬉しいのか困るのか、いろいろい交ぜになって、僕の思考は呆気なく停止した。

 上手い対応を紡げずいるうち、茜ちゃんの『嫉妬』に『自己嫌悪』が混ざり始める。


「……ごめん。優しいのは朔くんの良いところだし、お人形のことも頑張ったのにね」

「いや、ほんと……全然大したことないんだよ……」

「ううん、本当にすごいよ。朔くんは、他人の弱さや痛みにちゃんと寄り添える人だから」


 あどけなさの残る外見に反して大人びた、淀みのない口調だった。


共感応エンパスだろうと憑依だろうと、お人形を助けられたのは、朔くんがその子の気持ちに寄り添ったからでしょ? それは朔くんにしかできないことだよ」


 精一杯のような、明るい笑顔がこちらに向く。

 彼女との間に、すぅっと一線が引かれる。

 あなたはすごい、頑張った。そう言われたはずなのに。

 このところ胸に巣食っている心許なさが、自己肯定の余地を与えてはくれない。


 魂を侵食されて確固とした自分を保てなくなった感覚と、新しい環境に身の置き所を見つけられない状態と、そして今。


 他者との付き合いが、難しい。


 あの人形に対してだって、もう少し上手く言葉を紡げたのに。

 肝心の茜ちゃんには、どうして。


 淡い微笑みの気配が耳朶に触れる。


「朔くんは謙遜しすぎだよ。お人形の髪を切るなんて、よく思い付いたと思うもん」

「あっ……あぁ、それはね」


 さっと光が差し込んだ気がした。あの時と同じく。


「茜ちゃんのことを思い出したもんでさ」

「えっ?」

「ほら、茜ちゃん最近ばっさり髪切ったでしょ」


 以前まで背中に届くロングヘアだった茜ちゃんは、入学の前に現在のショートボブにしたのだ。彼女なりに不安な気持ちを振り払って、前へと進むための願掛けだったのだと思う。


「イメージがガラッと変わってびっくりしたけど、すごい可愛いし似合っとるで良いなと思って、それで……」


 そこまで言いかけて、ハッとする。口が滑りすぎた。樹神先生じゃあるまいし。


「あの、だから、茜ちゃんのおかげなんだよ、うん」

「そ、そうなんだ……ありがとう」


 今度は、茜ちゃんの頬が見る見る朱に染まっていった。まるでパフェに載ったいちごみたいに。

 ……いや、たぶん、僕も負けていないはずだけれど。



 店を出て、バス停までゆっくり歩く。

 男としては小柄な僕の隣に並んでも、茜ちゃんは更に小さい。

 十歳のころと印象はあまり変わらないけれど、至近距離で見ると瞼の上がほんのりオレンジ色に彩られている。

 茜ちゃんは昔から聡明だった。七年という決して短くない時間の空白があっても、ちゃんと学力を付けて高校を卒業できるだろう。


 前方から、制服姿の女子高生三人組がやってきた。楽しそうに、お喋りに花を咲かせながら。

 狭い歩道で行き合う一瞬。

 茜ちゃんの横顔が、ほんのわずかに強張った。

 それが意味することは、共感応エンパスの力に頼らなくとも分かった。

 自分が持てなかった居場所を、当たり前に手にしている人たちがいる。

 割り切っているつもりでも、不意打ちで自分の欠けた部分を意識してしまうことはある。


 同じ痛みを、知っていると思う。


「茜ちゃん」

「ん?」


 僕は茜ちゃんに手を差し出した。

 見上げてくる瞳の中に、僕が映っている。


「ここ、少し登り坂だでさ」

「あっ……うん」


 ふわふわと、甘く胸をくすぐる感情に包まれる。彼女の、あるいは僕の。


 きゅっと控えめに握られた手が、あまりに小さくて。

 見知らぬ誰かがどうであれ、よく似たペースで歩ける人が僕の隣にいて。

 だけど、次に彼女と会うのは一週間後で。

 バス停へ続く登り坂をひどく短く感じた、ある春の午後だった。



—僕の居場所、君の居場所・了—

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