1-8 魂を救う手
「服部
その声は、まるで鼓膜を介さずに頭の中へと
「目を覚ませ!」
はっとして目を開けると、ペンダントライトの放つ夕暮れ色の光が突き刺さる。
僕は椅子の肘掛けにもたれかかって、意識を失っていたらしい。
「戻ったか、服部少年」
覗き込んできたのは
耳の奥に、あの声の余韻が残っている。
『
僕はどうにか重い身を起こす。えらく消耗した。だけど、身の内に人形の魂の存在は感じられない。
ようやく一つ息をつく。まだ心臓はばくばく言っている。
「……すいません」
「いや。人形の記憶を共有していたカイコさんに、『契約』の切れるタイミングを教えてもらった。それで呼び戻すことができた」
カイコさんの腕には、あの人形がある。魂は元の器に戻っているようだ。証拠に、小さな身体が凄まじく濃い『念』を纏っている。
「ごめん服部くん、だいぶ無理させたわ。ちょっと計算外だった……今この子の魂が暴走しかけとって……あっ」
人形がゆらりと浮き上がる。突如、膨れた『念』が一斉に僕へと向かってきた。
「うわっ……」
視界を覆う黒いモヤ。防護結界を張ろうにも間に合わない。
身を固くした、その瞬間。
「捕縛」
先生の低い声が、波紋のごとく
迫り来る『念』は僕に触れる寸前でぴたりと動きを止める。その向こうに、空中で拘束された人形の姿があった。
「なるほど、確かに性能は上がったな」
先生の手には、懐中時計型スマートウォッチが握られている。
蓋にあるのは特殊な紋様。
人や霊に対してのみ有効だった異能は、改造された時計の効力でモノの魂にも届くようになったらしい。
先生が淡々と言った。
「カイコさん、どうしますか。このままじゃ彼の身に危険が及ぶ。『念』を逆流させて魂ごと破壊することも可能ですが」
「怖いこと言うねぇ、樹神くん」
カイコさんが薄く笑う。
「私が『念』に囚われたモノの魂に干渉する時、取る方法が二つある。一つは『初期化』。記憶をまるごと消して、まっさらな魂にする。そしてもう一つは『上書き』。『念』を生み出す記憶の部分を弄って、魂が平穏を保てる状態にまで整える。今回は服部くんが詳細に記憶を読んでくれたもんで、かなり精度の高い上書きができそうだわ」
きりきりと、心臓が軋む。それって……
「あぁ、でも樹神くんがおれば、魂そのものを消滅させるって選択肢が増えるんだな。本人は終わりを望んどるわけだし。まぁ、よっぽど手に負えんくなった時は頼むわ」
「分かりました。その場合は報酬に上乗せして計算させていただきます」
僕は思わず立ち上がった。
「ま、待ってください!」
胸の奥が驚くほど冷えている。ついさっきまで、あの人形の魂のあったところが。
「そ……その子は、昔の持ち主のことが忘れられんだけなんです。僕たちだって、そういうことって、あるでしょう」
情けないくらい声が震えていた。
あの人形の喜びや寂しさや絶望を、我が事のように思い出せる。
「それを、いくらモノだからって……人間や霊じゃないからって、記憶を弄ったり、魂ごと壊したりなんて……」
記憶を弄れば、辛いことを思い出さずに済むようになるかもしれない。
魂を壊せば、人形はただのモノに戻るだろう。
ひいては怪奇現象の終息を意味するし、事案としても一件落着だ。
だけど。
感じたことのないほどの憤りが、腹の底からふつふつと湧き出していた。
先生もカイコさんも身勝手だ。
深い哀しみを抱えた存在を前にして。あの子がどんな想いで長い時を過ごしてきたのか、見ようともせずに。
これまでの僕は、先生の指示通りに動くだけの助手だった。
でも今は、誰の指示も受けるわけにはいかない。
「僕が、あの子と話をしてみます」
二人とも不都合はないはずだ。僕ごときが多少の足掻きをするくらい。
カイコさんは目を丸くする。そして唇の両端をにぃっと上げた。
「四つ目の選択肢だ」
先生は先ほどの険しい表情から一転、まっすぐに僕を見据えた。
「思うようにやってみろ。適宜サポートする。名を縛れんでも、『念』の勢いを和らげるくらいは俺にもできるでな」
「鎮まれ」と異能の乗った言葉が紡がれて、『念』の大部分が瞬く間に消失した。
「カイコさん、状況が悪化した場合はその時に考えましょう」
「了解、樹神くん。じゃあ服部くん、よろしく頼むわ」
変に肩肘を張っていたのが、ふっと余分な力が抜けた。
まだ多少足元のふらつく感じはあるけれど、どうにか大丈夫だ。
「服部少年、まずは気の流れを作れ」
先生の助言が飛んでくる。そうだった。何にしても、気を整えることが大事なのである。
僕は掌を打ち鳴らした。パチンと音が弾けて空間に亀裂が入り、清浄な気が流れ込む。両手を握り合わせて気を結束させれば、全身を覆う防護膜となる。
そうして、宙に浮いた人形と向き合った。まだ先生の術に縛られたままの状態だ。
「えぇと……まず君をそこから下ろしたいんだけど、いいかな」
おずおずと問う。疑似的なものとはいえ人格があるならば、尊重すべきだ。
返答は当然ないけれど、ついさっきまで繋がっていたから何となく通じるものはある。抵抗の気配がわずかも感じられないことから、了承を得たこととする。
「ごめん。嫌かもしれんけど、少し触るよ」
人形の両脇を掬い上げるような形で抱えて、ショーケースの上に座らせた。防護膜が結界となり、『念』は僕という容れ物に侵入できない。
僕は彼女と目線の高さを合わせた。
「君は呪いの人形なんかじゃない。君の魂を縛るものが呪いだなんて、僕は思わない」
この声がどこまで届いているのか分からない。
何をどうしたら『念』を浄化できるかなんて、もっと分からない。
そもそも、かつての持ち主への恨みつらみを晴らすことは不可能だ。過去はどうにもできないのだから。
できるとしたら、これからのことだろう。もうこれ以上、彼女が怨念で髪を伸ばし続けたりしないように。
髪。ふと、思い付いたことがあった。
「その髪、さ。とりあえず綺麗に整えた方がいいんじゃないかと思うんだけど……」
僕の脳裏には、ある人物の姿が
「いっそのこと短くしてみたら?」
いつの間にか人形への拘束を解いた先生が、心得たように頷く。
「なるほど。謂わば失恋みたいなもんだもんな。魂に籠った『念』を清算するのに、ありかもしれん」
「先生、発想がおっさんのそれです」
「おっさ……」
「僕が言いたいのは、そういうことじゃなくて。短いのも可愛いかもしれんってことですよ。また伸びるんなら、いろいろ試しゃあいいですし」
誰かのために伸ばすのではなく。
嫌がらせで切られるのでもなく。
自分の好きにしたらいい。
「服も、綺麗なのに替えよう。気分転換になるはず」
「この子、特に異論ないみたい。というか、『どうでもいい』って……どうしよ、着替えとかないわ。この子が着れそうな着物、都合よく売ってるとこあるかやぁ」
「昔の着せ替え人形ですしね」
三人揃って唸る。
辺りにはただただ、僕の呼び込んだ
唐突に閃きを得る。
先生の話では、確かあの寺の境内には昔——
「あの、近くに花屋さんてあります?」
「ん? 花屋なら、大通りをもうちょっと北へ行ったとこにあったと思うけど」
「ちょっと行ってきます!」
「えっ?」
言うが早いか、僕は『懐古堂』を飛び出した。『狭間の世界』から現世へ、息をするように階層を渡る。
教えられた通りの場所に花屋はあった。僕はたっぷり一抱えほどの花を買った。結構な高額で驚いたけれど、必要経費なので先生に何とかしてもらおう。
店に戻ると、二人は人形のヘアカットをしているところだった。
櫛で丁寧に髪を梳き、ハサミを器用に動かすカイコさんは、どことなくカリスマスタイリストっぽい雰囲気がある。
「服部くん、おかえりー。その花どうするの?」
「あの、この花で服を飾ったらいいんじゃないかと思って」
先生がぽんと手を打った。
「菊人形か」
「そうです。髪の伸びる呪いの『お菊人形』じゃなくて、綺麗な花で飾った『菊人形』です」
さっそく三人で取りかかる。
「花はどうやって付けたらいいかやぁ。縫い付けられる?」
「生地に穴空いとるとこありますよ。ここなら挿せます」
「細い茎のは編んで繋げよう」
「いろんな種類の花があるね」
「髪にも付けましょうか」
「おぉ、華やかだな」
そうして完成した人形は。
丸っこいシルエットのショートボブ。それを飾る、愛らしい花冠。纏った着物は、隙間なく春の花々に彩られている。
「可愛い」
「いいね」
「
彼女は、もう『呪いの人形』などには見えなかった。
「せっかくだし、写真撮っとこう」
僕はスマホのカメラを起動し、レンズを人形へと向ける。
先生が人差し指を立てた。
「写真と言えば。昔の遊廓であった
「へぇ、じゃあこの子の持ち主だった人も、もしかしたら写真を撮っとったかもしれないですね」
僕は晴れやかに着飾った人形を撮影し、画面を見せる。
「ほら、綺麗だ。お姐さんたちみたいになったかな。本当はもっといろんな服があったら良かったんだけど」
女の子の服なんて、何を選んだらいいのか分からない。
でも、せっかく彼女の意思を感じられるのだから。
「また探してくるよ。教えて、君はどんな色が好き?」
ガラス玉のような瞳が、じっと僕を見つめる。
次の瞬間、脳裏へと流れ込むように伝わってきたのは。
——あたしの可愛い子。
柔らかな声と。
優しく髪を梳く手と。
その持ち主の纏う、鮮やかな朱色と。
——すきよ。大すきよ。
そして——小さな痛みを伴った、甘くて温かな感情だった。
清らかな気が、人形から溢れ出す。
それはたちまち大きな流れとなって、陰の気を払っていく。
人形の魂を取り巻いていた『念』は、きらきらと瞬きながら立ち昇り、やがて跡形もなく消え去った。
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