1-7 人形の記憶

 かくして、僕は背もたれと肘掛けのある椅子に座らされた。

 すぐ隣には、スマートウォッチを手にした樹神こだま先生が立つ。


「じゃあ、始めるわ」


 人形を抱いたカイコさんが、窄めた唇から細く長く息を吐いた。

 吐息は極細の糸状となり、しゅるしゅると人形に巻き付いて——そして見えなくなった。


 白い指先が、人形の腹の辺りで糸を手繰るように動く。

 掌の上に鶏卵のようなものが現れる。

 それは表面がもこもこしていて、綿菓子を小さく丸めたものにも見える。

 あれは、まるで……


「人形の魂を取り出したよ。この中にあるうちは完全に私の管理下だわ」


 大きな黒い瞳が僕へと向く。


「ところで、君のフルネームって何だった?」

「えっ? 服部 はじめですけど」


 視界の端で先生が身じろぎした。どうしたのかと問うより先に、カイコさんが言葉を紡ぐ。


、服部 朔くん。この魂を君に預ける。期限は、君がそこに宿る記憶を読み終えるまで」


 一瞬、ひゅっと気を吸い取られるような感覚があった。

 差し出された白い塊が浮き上がり、僕の胸元、心臓のある辺りへと沈み込む。


「あっ……」


 途端、自分の内部で自分以外の存在が膨れ上がった。

 圧迫感がすごい。呼吸の仕方も忘れるくらいに。

 さっきカイコさんが入った時とは比べ物にならない。油断すると内側から身体が破裂してしまいそうにも思えるほど。


「う……」


 咄嗟に口を覆う。臓腑をねぶられるような不快感だ。

 胃の中にあるみたらし団子がり上がってくるのを、どうにか堪える。

 頭の芯がひどく痺れていた。きっと酸素が足りない。


「人形の魂はきっちりくるんだるもんで、『念』が服部くんの魂に触れることはないよ。ほんだで、まずは自分の魂の形を意識して」

「服部少年、落ち着いて呼吸しろ。気を整えるんだ」


 額に脂汗が浮くのを感じつつ、どうにか一つ息をつく。


「あ、あの……こっからどうしやいいですか?」

「人形の魂の感覚を受け取れるかや? 自意識の内部でね」


 言われた通り、相手の魂に意識を向ける。

 自分自身の気の流れとは全く違う素性の気配。その中核にあるのは、鶏卵ほどの大きさの塊。

 イメージをなぞる。さっき自分の目で見た時の、あのイメージ。


 まるで、カイコの繭玉みたいな。


 見つけた。自我の手を伸ばす。指先が触れる。

 魂が、共鳴する。

 きぃん、と耳をつんざく音。背筋を怖気おぞけが這い上がる。


「大丈夫か、はっと——……」


 僕の名前を呼ぶ先生の声。それがにわかに遠くなる。

 そして僕の意識は、あまりに呆気なく暗転した。




 ——僕は、誰。


 僕は……わたし。


 わたしは——




 ——わたしの身に刻まれた記憶のはじまりを、いまもはっきり思いだせます。


 わたしは名古屋大須の一画の、とある小さな演芸場の裏手にありました工房で、人形師のひとの手によって作りだされました。

 珍しくも何ともない、とりわけ出来がいいとも言いがたい、ただの着せかえ人形。それがわたしでございました。


 わたしを作ったご主人さまは、ある日わたしを連れだしました。

 むかう先は一軒の妓楼。ご主人さまの意中のかたへの贈りもののひとつが、わたしだったのです。


 二番目のご主人さまは、とってもきれいなお姐さんでした。

 でも、わたしがこのご主人さまの手に抱かれたのは、ほんのいちどきり。わたしはすぐに、別のひとの手に渡ったのです。

 それは、小さなひとの手でした。

 お店には大きなお姐さんたちのお世話をする見習いのひとたちがおりました。わたしの次のご主人さまは、そのひとりだったのです。


 新しいご主人さまは、わたしをたくさん抱いてくれました。髪を梳いて、きれいな着物をあれやこれやと着せてくれました。


「あたしの可愛い子。すきよ。大すきよ。姐さん、あたしだけ特別にって、この子をくれたんだわ」


 あたたかくて、あまい声。

 こんなに幸せなことがあるでしょうか。


 でも時どき、ご主人さまは涙をこぼします。

 声をころして、涙をこぼします。

 そんな時も、わたしはご主人さまのそばにおりました。

 わたしは、わたしだけは、いつでもご主人さまのそばにおりました。


 ある時、ご主人さまではない別の小さなひとがやってきて、わたしの髪をじょきんじょきんと切り落としてしまいました。

 それを見たご主人さまは、また大つぶの涙をこぼしました。


「ひどいことを」


 短くなったわたしの髪を、ご主人さまは梳いてくれなくなりました。


「こんなの、姐さんに見られたら……」


 ご主人さまはわたしを暗いところに隠して、あんまり抱いてもくれなくなりました。

 さみしい。さみしい。

 またいつか、前のようにわたしを可愛がってくれるでしょうか。

 やさしく髪を撫でて、「すきよ」と言ってくれるでしょうか。

 その時が来るのを、わたしはいまかいまかと心まちにしておりました。


 だけど待てど暮らせど、わたしはひとりぼっちのまま。

 やがて、ご主人さまは大きなお姐さんになりました。

 そうしてわたしは、ふたたび別の小さなひとの手に渡されたのです。


「姐さん、これ、もらっていいの?」

「いいよ、ひっどい頭だけどねぇ。いらんかったら捨てていいよ」


 とたん、目の前がまっくらになりました。


 どうしてご主人さまは、わたしのことがいらなくなったのでしょうか。

 髪がざん切りに短くて、まるでおとこの子みたいだからでしょうか。


 でも、もし、新しいひとがわたしを可愛がってくれたなら。

 ご主人さまも、またわたしを気にしてくれるかもしれません。

 ほかのひとにあげるのは惜しいと、やっぱり手元に置きたいと、もういちど思い直してくれるかもしれません。


 新しいご主人さまは、初めのほうこそわたしを抱いてくれましたが、すぐに触れもしなくなりました。

 わたしはひどくがっかりしました。とうぜん、あのひとがわたしに見向きすることもありません。

 でも、それも仕様のないことでしょう。わたしはこんなにもみっともない人形なのですから。

 せめて、せめて、もう少し髪が長かったら、違ったのかもしれませんけど。


 その後も、わたしは何人かのひとに触れられました。

 だけど誰ひとりとして可愛がってくれるひとはいませんでした。

 髪が長ければよかったのに。

 髪が長ければ……


 ある日、誰かが云いました。


「あれ? この人形、前見た時より髪の毛伸びとることない?」

「本当だ。肩につくくらいになっとるわ」


 きっと、わたしの願いが届いたのだと思いました。

 しかし。


「やだ、気味悪いわねぇ。見えんとこ仕舞っといて」


 そうしてわたしは、せまい場所へと押しこまれたのです。

 そこはまっくらでした。ご主人さまに捨てられた時の、わたしの心もようみたいに。

 ひとすじのひかりも届かない、とざされた闇の中。さみしさと哀しみが渦をまいて、どんどんふくらんでいきました。


 どうしてこんなことになってしまったのでしょう。

 にくい。にくい。

 何もかも、ご主人さまのせいにちがいありません。あれだけ「すきよ」と言っておきながら、わたしをあっさり捨てるなんて。

 ご主人さまのうそつき。

 にくい。にくい。大きらいよ。

 最後にいちどだけでも、別れを惜しんで抱いてくれたらよかったのに。

 そうしたら、すこしは許せたかもしれないのに。


 それからどれほどの時がすぎたのかも分からない、ある晩のことでございました。


「火事だ!」


 ばたばたと走りまわるたくさんの足音がします。叫び声や泣き声もきこえました。

 誰かがわたしのいる押入れをのぞいて、荷物を取っていきました。


 戸のすき間から見えたもの。

 開けはなされた部屋の窓の外。

 煌煌とゆらめく赤いひかりが、夜空を明るく染めておりました。

 ただ、きれいだと。

 何もかもを焼きつくすその炎を、ただ、きれいだと。


 ぜんぶ終わるのだと思いました。

 あのひとの手も、声も、けっして戻ってはこない。


 にくい。にくい。大きらい。

 だけど。


『すきよ。大すきよ』


 わたしの想いも、もろともに。

 ようやく終われるのだと、そう思いました。



 気づけば、わたしはひとり取り残されておりました。

 あの大きな炎は、わたしのいるところへ届く前に消されてしまったようでした。


 終われなかった。


 見知らぬ誰かがわたしを連れだしました。

 ひととおりの身なりをととのえられたわたしは、どこかの店先にならべられたのです。


『遊女の魂が宿った珍しい人形として売りに出そう。物好きの金持ちが欲しがるかもしれんでな』


 そこから、何人の目に晒されたでしょう。何人に触れられたでしょう。それはそれは、不しつけに、無遠慮に。

 誰もあのひとのようには、わたしを愛してはくれない。

 誰もあのひとほど、この髪をやさしく梳いてはくれない。

 この髪を。この髪を。


『髪が伸びる不気味な人形だ』

『この人形のせいでひどい目に遭った』

『呪いの人形だ。下手な捨て方をしたら祟られるって話だよ』


 誰も、誰も、わたしに終わりをくれない。

 あのひとは、もうどこにもいない。

 やめて。やめて。それならば。


 わたしはもう、誰にも抱かれたくない。



 触れないで。

 後生だから、ここから出して。

 ねぇ、に云っているのです。


 あぁ、でも。

 を手に入れれば……わたしはもうこれ以上、誰からも好きにされずに済むのでしょうね。


 だから、お願い。ねぇ、お願いよ——



 ち ょ う だ い、 あ な た の か ら だ ——




 入り込まれている。侵食されている。混じり合っている。

 どれが自分で、どれがそうでないのか。

 輪郭も、境界も、ひどく曖昧だ。まるで初めからそんなものなかったかのように。

 そもそも自分は誰だったのか。考える端から疑問は形を失くしていく。


 僕は、わたし。

 わたしは、僕。

 僕は——



 その時。

 混濁する意識を切り裂いて、聞き慣れた低い声が届いた。


「服部 朔、!」

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