02 酒井抱一(さかいほういつ)の雨華庵(うかあん)。

「――で」


 根岸。

 雨華庵うかあん

 庵主である「根岸のご隠居」こと、酒井抱一さかいほういつ煙管きせるを吹かした。

 酒井抱一。

 江戸幕府名門・酒井家に生まれながら、世継ぎとはなれず、出家して「隠居」した貴公子である。

 芸術に邁進し、やがて江戸中期のの大家・尾形光琳おがたこうりんに私淑し、その光琳に代表される画の一派――琳派りんぱの流れを汲んで、江戸琳派を創始した巨匠である。

 芸事が好きで、梨園りえん(歌舞伎界)にも縁があった。

 抱一は煙管の灰を火鉢ひばちと落とした。


「わざわざこの茅屋雨華庵に来てくれたというワケかい」


「わざわざって言わなくとも。いっつも来てるじゃねェですかい」


 三代目・坂東三津五郎ばんどうみつごろうは頭をいて、「お土産みやげです」と影勝団子かげかつだんごを抱一に差し出した。

 抱一は「ほう」と言って、近くにあった乾山けんざんの皿に盛った。


「最近流行はやりの――中々手に入らないという影勝とは、気が利いているじゃないか」


 そんなに乾山――尾形光琳の弟・尾形乾山の手による陶器――を無造作に使うとは、やはり貴顕という者はちがうな、と三津五郎は思った。


「それで、玉兎たまうさぎだっけ」


 団子を頬張ほおばりながら、抱一は両手を頭の上に持って行き、兎の物真似をする。


「その玉兎の……が、兎、狸、爺さまに婆さま……演じ分けかい?」


「へぇ。そいつを二代目に聞いたら、黒き鏡ってェ答えが」


「ふむ……」


 抱一は近くにあった反故ほごをめくって、その裏に、黒々と丸を描いた。


「……一寸ちょっと描いてみたが、ほどわからん」


 はんじ物(謎解き)は好きな方なんだがね、と抱一は呟く。


「かといって実際に黒き鏡を用意しろなんて言われても――」


「いやいや」


 三津五郎は手を振って、それには及ばないと示した。

 それに、今の抱一の呟きに光明が見えた。


「黒き鏡――それは判じ物のように考えてみればってェ寸法でさァ」


 二代目・坂東三津五郎は一筋縄ではいかない難物なんぶつである。

 今さらながら、三代目・坂東三津五郎はそれを思い知った。


「禅問答というわけだね。となると」


 抱一は本物の鏡を持って来た。

 画を描く時に使うものらしく、かなり大きい。


これは黒くないが……映るのはやはり覗き込む己の影、だね」


 これが黒くなると、サテどうなるかと抱一は首をかしげる。

 その間に、三津五郎も鏡を覗き込んでみた。

 歌舞伎役者だ、鏡はよく見る。

 演ずる役になり切っているかどうか、それをあらためるために。


「うーん……やっぱり自分てめえしか映っていねェ」


 今まで――いろんな役の自分を鏡に映してきた。

 「伽羅先代萩めいぼくせんだいはぎ」の足利頼兼あしかがよりかね

 「一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき」の熊谷直実くまがいなおざね

 「源平布引滝」の斎藤実盛さいとうさねもり

 それぞれが当たり役であり、どれにも思い入れがある。


「黒き鏡、黒き鏡、人はに何を見るのか――」


 抱一がそんなことをうそぶいている。

 さすがに藩主の子に生まれた方は、いちいち言い方が詩的だ。


「……もしかして、新月のことを言っているのかなぁ」


 いつの間にか縁側に出ていた抱一は、夜空を見上げていた。

 月は、新月。

 全く見えない月。

 だがそんなことには頓着せず、抱一は懐から扇を取り出す。

 その扇の面は、抱一が描いた月夜の武蔵野があった。


「こう新月だと、この扇でも見て――月夜のことを思うしかないか」


 そのとき、ふと三津五郎の頭に降ってくるものがあった。


「……あ」


如何どうした、三代目」


「……いや、なかなか含蓄がんちくのあるお言葉だなぁ、と」


「そうかい」


「ええ」


 三津五郎はわが意を得たりという笑みを浮かべた。


「見に来てくだせェ、芝居を」


 三津五郎は、実は大坂に行くことになっており、その暇乞いとして、「玉兎」を演ずることになっていた。

 大坂に行けば、しばらくこうして抱一に会えない。語らえない。

 こういう――洒脱なやり取りができない。

 なら――その前に。


「見に来てくだせェ、オイラの芝居――黒き鏡の玉兎。それを、お見せしましょう」


「……楽しみにしているよ」


 抱一は扇をひらひらとさせながら答えた。

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