箱入り娘

冷田かるぼ

微笑



蒼斗あおとくん! 待った〜?」


 少し遠くから駆け寄ってくるのは僕のクラスメイト、ユカだ。名字は知らない。名前の漢字も知らない。その程度の関わりなのだが、何故か今日勉強を教えろとせがまれてしまい今に至る。


「大丈夫、待ってない」


「よかったぁ、じゃあ行こっか」


 こんな風に付き合いたてのカップルのような会話をしているが、学校ではほとんど会話をしたことがない。数回隣の席になって話をしたくらいだ。しかもこの後向かうのは彼女の家……だと思う。勉強を教えろと言うのだから、まあせめて喫茶店くらいなものか。


「それでね、今日は勉強の前に手伝ってほしいことがあるの」


 彼女は手を重ね合わせ、祈るようなポーズで話し始める。歩みは止めないままだ。いかにも良いところのお嬢様、といった雰囲気のワンピースの裾が揺れる。


「手伝い?」


 手伝いとはなんだろう、残念ながら僕の想像力ではとてもじゃないが分からない。お金持ちの家の娘が頼んでくる手伝いとは。なんだか嫌味を言っているみたいで申し訳なくなってきた。心の声なので届いていないだろうが。


「あのね、部屋の片付けを……」


「部屋?」


 いやいや、ないだろう。高校生の女子が。僕に。いや、僕も男子高校生だが。同い年の男子に部屋の片付けを手伝ってもらう女子高校生がいるだろうか? いてたまるか。どんな女子高校生だよ。……まあ、目の前にいるんだが……。


「えっと……お手伝いさんとかは」


 淡い希望を胸にそう聞いてみる。彼女ほどのお金持ちの家ならばお手伝いさんくらいいるだろう。というか、せめて親、いや女子に頼むべきだと思う。


「別荘にはいないかなあ……」


 希望は砕かれてしまった。しかも、別荘があるということと家ならお手伝いさんがいることも分かってしまった。やっぱりとんでもないお金持ちだな、ユカ。侮れない。


「……もしかして、別荘に行くってことじゃ」


「うん、勉強で使うなら別荘の部屋の掃除しなきゃなって」


 勉強をしに、別荘に行く。もう僕のような庶民と考えが違いすぎて考えるのも面倒だ。そこに僕が行くのか……?


「だめかな」


 子犬のようなきらきらとした目でそう尋ねられると、嫌と言えるわけがない。そもそも顔が良い。美人というより、可愛い系の顔。こんな子の頼みを断れる奴がいるなら連れてきてほしいくらいだ。


「……いや、いいよ」


「ありがとう〜!」


 ぱあっと顔を輝かせ、彼女は笑顔を振りまく。周囲の目線が痛くなってきた、すみませんねぇ隣にいるのが地味男で。僕だってなぜ彼女が僕を選んだのか全く検討がつかないんだ。都合が良かったとかそのへんだろう。


 あーあ、気まずくならないといいなあ。なんて思いながら、早歩きする彼女の後を追った。




「ここだよ!」


 彼女の指さした建物は別荘と聞いて思いつく建物よりはもっと庶民的で、いわゆるログハウスのようなものだった。いや、ログハウスにしてはどう考えても大きいのだが。


 山奥とまではいかないが、木に囲まれているので空気もわりと美味しい。


「おお……」


 思わずそんな声を漏らしてしまうくらいには広い。そして綺麗だ。これは掃除とか言いながらそこまでないんだろう。なんだ、安心した。それでも、僕はこの建物の中で勉強をするのか……と思うと少し緊張する。


「じゃあ鍵開けるね」


 ガチャガチャと鍵をいじり、彼女は家の中に入っていく。あ、そうだ、僕も入らなきゃいけないんだ……うわ、緊張で手汗が。


 靴を脱いで中に入ると、予想通り綺麗な内装だった。お金持ちは怖いもんだな。だが、どこからかつんとした刺激臭がする。生ゴミが腐っていたりするんだろうか。割とここに来る頻度は多いようだけど……片付けを頼むくらいだから。


「ここが私の部屋なんだけど」


 女子の部屋に入るのなんて、初めてだ……。緊張でなんだか胃が痛くなってきた。それと同時に、なんだか嫌な予感がする。この部屋に近づいてから、嫌な臭いはより強くなってるんだ。まさかと思ったが、心の準備をする間もなく扉は開かれた。




 息が、できなくなりそうだった。可愛らしい作りのベッドには、不似合いなグロテスクさ。


 それは醜く変色した肉塊であった。鼻の奥をひどく刺激する腐敗臭が部屋に充満している。臭いの元は生ゴミなどではなく……いや、生ゴミとも言えるが、これだったのだ。じっとりと染み出した液体は赤黒く、もはやそれが元は人間であったと言われても信じられないほどにおぞましい物体と化していた。


 込み上げる吐き気を抑え、平静を保とうとする。だが、そんな抵抗も虚しく僕は嘔吐した。こんなものを見て平気でいられる人間は異常だ。つまり目の前にいる彼女は。……異常だ。


 前々からおかしいとは思っていた。頭のネジが数本外れている、という表現が正しいかもしれない。彼女は遠慮も配慮もしなかった。その上世間知らずの箱入り娘だ。


 何をしでかすか分からない。そんな印象。だからといってここまでとは思わなかった。思えるわけがない。想像できるだろうか。年端も行かない高校生の少女が死体を愛でているという現状を。できないだろう。受け入れることさえも。


「蒼斗くん」


 悪魔はにっこりと僕に微笑みかける。それがあまりにも場違いで気持ち悪い。どうしてこんなに普通でいられるんだ。僕はもう、足が震えて立つのもやっとだというのに。


「手伝って」


「な……何をですか」


 声が震える。思わず敬語になってしまう。だがそんなことは全く気にしていないかのように彼女は笑っていた。


「かわいいこの子を隣の部屋に運びたいの」


 ぐちゃぐちゃの肉塊を愛おしそうに見つめ、そっと撫でて。手が汚れるのも気にせずに触れ続けている。嗅覚はだんだんと麻痺して、もはや何も感じなくなっていた。


「ねえ、手伝ってくれるよね?」


 笑っているはずなのに、背筋が凍るような冷たさが含まれた視線。その手元にはいつの間にアイスピックが握られていた。脅しだ、こんなの。断ったらどうなるかは目の前の物体が示していた。


「……はい」


 僕にはそう言う他なくて、頷いた。恐怖のあまり自然と敬語になってしまう。まともに彼女の顔が見られなくて、ただ床を見つめていた。それでも彼女の纏う雰囲気が変わったのはすぐ分かって、息を吐く。


 こんな状況で安心できる方がおかしい、それはそうだ。でも、ほんの数分、数十分でも延命できたならどうにかなるかもしれない。ポジティブに考えてみようとした。だが、どうにかって言ったってどうするつもりなんだ?


 僕はどうしたいんだ?




「じゃあ……えっと、どう運んだらいいのかな」


 いつも通りの声色で彼女は呟く。こんなに普通でいられるとなんだか僕のほうがおかしいみたいだ。なんとか身体を動かし、ベッドに近付く。より鮮明に視界に映るそれを見て、僕はまたうずくまり嘔吐した。


「女の子の身体をじっと見たら失礼だよ」


 そんな声が頭上から降ってくる。そうだ、これも元は生きた人間なんだ。そう実感すると余計に恐怖心は増してきた。人間を生ゴミに変えたのもきっと、目の前の彼女。


「とりあえず布団ごと運ぼっか」


「は……い」


 その言葉の通り、僕たちは赤黒く染まった布を持ち上げ、廊下まで運び出した。もう正気じゃなくなった方が楽なんだと思う。運び出したそれを見ても、もう胃には吐くものなんて残っていなかった。


 足に力が入らない。まだこの空間にいなきゃいけないのか。まだ、僕は。


「蒼斗くん」


 また、にっこりと微笑む。ああ、逆らえない。そう思った。それは一種の条件反射だった。彼女の微笑みは僕に拒否権を与えない。


「隣の部屋に箱があるからそれに入れて」


 その言葉に答えるように僕の身体は自然と動いていた。彼女は僕を満足そうに見つめている。もう僕を脅したりしないだろう。脅されなくても動いてしまうのだから。


「よくできました」


 彼女はただ見ているだけでもう何もしなかった。僕の体格であれば無理をすれば持てるほどの重さだったと知ったからだろう。大きなダンボール箱に入った腐敗物。そして、目の前にあるのは……多分巨大な冷凍庫。


「うん、それじゃあ勉強しよう!」


「……え?」


 急に思考は現実に引き戻されて、思わず間抜けな声が出てしまった。勉強、そうだ、そんな約束だった気がする。


「どうしたの?」


 あっけにとられていると、まるで意味がわからないみたいに言い放たれた。


「ほら、片付けも終わったから」


 僕は何も言えずにいる。ただ立ちすくんでいると、彼女はにっこりと笑って言った。


「それとも、まだ怖い気持ちのままがいいのかな?」


 ひゅ、と息が詰まった。


「ごめんなさい」


 気付けばそう口走っていた。もうだめだ。僕は完全に恐怖心に屈してしまった。そんな僕に彼女は優しく微笑んだ。この状況じゃなければ間違いなく女神や天使の様なその顔で。


「これからもよろしくね、蒼斗くん」




 これは僕が彼女の、ユカの共犯になる話だった。そして僕はまともな人生に別れを告げることとなった。続きなんてない。ここで終わりだ。


 僕の人生は、ある意味ここで終わったのだった。

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