第5話 天国の君から
暑い季節になった。エアコンの効いた高館家のリビングで、難解な物理の問題と睨み合う。
「『ホイップ事件』を思い出すね」
キッチンで泡立て器を握り、凛は生クリームを作っていた。来週は両親の結婚記念日とのことで、そのサプライズの練習と俺が以前奢ったクレープの礼を兼ねて、ケーキを焼いてくれている。
「……俺そんなの知らない」
あの日の一件を、凛は『ホイップ事件』と勝手に命名した。出来れば思い出したくない記憶なので、俺は冷たく聞き流す。
小球の怪奇現象とも言える運動のグラフを書く問題が出てきたが、生憎昨日から定規は紛失していた。
「なあ、定規ある?」
「リビングにはないな……私の部屋にならあるよ。勉強机の左の引き出し」
……つまり、取りに行って来いと? 幼馴染とはいえ両親のいない間に男を家に入れている時点で良くないことだ。さらに部屋に入れるだなんてもってのほか。
でもここで退けば変に意識してると思われそうで、やむなく俺は二階へと上がった。
「失礼しまーす……」
特に意味はないがノックをし、恐る恐る扉を開けた。久しぶりに入ったその部屋は、俺の記憶とは少し違った。以前ベッドはもっと小さかったし、俺と同じくらい背の高いこのカラーボックスはなかった。退院に合わせて家具を新しくしたのだろう。
その中でも勉強机は変わってなくて、デスクマットは小さい子向けのキャラもののまま。引き出し……右だっけ。
あやふやな記憶を信じて開けた右の引き出しには、大量のクリップやカラフルな付箋、小さいサイズのノートなどが入っていたが、定規は見当たらない。
今になって、左と言っていたような気がしてくる。右の引き出しを閉めようとして、俺はあるものが目に止まった。机に隠れて見切れているが、整理整頓された文房具の上に雑に入れられたピンク色の封筒が三枚。つい気になって手に取ってみれば、宛名が露わになった。
『お母さんへ』『お父さんへ』『優くんへ』
一番下の一枚は俺宛だった。背筋に冷たいものが走って、封筒を裏返す。
『天国の凛より』
食べきれなかった分のケーキは、証拠隠滅のために持って帰って来た。夕食後のデザートにでもしよう。自室に戻るなり、教科書に挟んでおいた一枚の封筒を手に取る。
凛から俺への手紙。決して褒められたことじゃないのはわかってる。バレたら出禁になるかもしれない。けれど存在を知ってしまったこれを、知らん顔で戻すことは出来なかった。
緊張で手が湿る。夏なのに、どれだけ呼吸を繰り返しても冷たい空気しか入ってこない。うるさい心臓を無視して、慎重に封を開けた。
『優くんへ
この手紙を読んでいるということは、私はもう君のそばにいないのでしょう。
↑これ、一回言ってみたかったの笑 良くない夢が一つ、叶ってしまいました。
封筒には「天国の凛」と書きましたが、今この手紙を書いているのは余命半年を切ったばかりの、生きている凛です。まだ半年もあるけど、読める字が書けなくなる前に直筆で書きたかったの。君には伝えたいことがたくさんあるから。でもその全てを書くのに、手元にある便箋では全然足りません。だから頑張って手短にまとめるね。
まずは、ごめんなさい。入院したばかりの頃、漫画の聖地が隣町だから一緒に行こうって誘ってくれましたよね。残念ながら、退院できる日は来ませんでした。絶対良くなるって励ましてくれたのに応えられなくて、本当にごめんね。
そして、ありがとう。私が入院してから何度も会いに来てくれて、本当に嬉しかった。小学生の頃、仲の良かった友達はだいたい一回か二回来て、それっきりだった。こんな生活じゃ新しい友達なんてできるはずなくて、同級生で私のそばに居てくれたのは君だけでした。そばにいてくれて、本当にありがとう。何回言っても足りません。ありがとう。ありがとう。ありがとう。
それと、もう一つ伝えたいことがあります。これを伝えるのは、この手紙が最初で最後です。
優くん、私は君が好きでした。友達としてとかじゃないよ。一人の男の子として。ほんとはね、生きてるうちに自分の口から伝えたかった。でも、もう先の長くない私がそんなことを言ったら君を困らせちゃうだろうから。せめてこの手紙に、私の気持ちを全部詰め込みます。
入院する前、私たちは男女の幼馴染で仲が良かったから、よく周りから揶揄われてたよね。特に小学校高学年になれば「付き合ってるのか」とか言われて、君は嫌だったと思います。それでも私を避けたりしなかった。笑って話しかけてくれた。今思えば、そのときすでに恋は始まっていたのかもしれません。小学校を卒業して、私の病気がわかって、余命宣告までされて。さっきの繰り返しだけど、そばにいてくれた友達は君だけでした。その変わらない優しさが嬉しくて、安心した。君が来てくれるのを楽しみに生きてた。気づいてなかったと思うけど、君が来る日はいつも髪を気にして、櫛で梳かしたりしてたんだよ。叶わなくても、恋って素敵な気持ちだね。人生最初で最後の、短い恋でした。
君は、私の気持ちを知ってどう思うんだろう。気になるけど、ちょっと怖い。もし嫌だったなら、病気で気を病んでしまった子の戯言だと思って忘れてください。もし万が一、少しでも同じ気持ちでいてくれたなら、私のことを忘れないでほしいな。
結局、君への気持ちを手短にまとめることなんて出来ませんでした。文章もごちゃごちゃで、読みにくかったらごめんね。最後に、君が天国に来て私と会ったとき、シワシワのおじいさんじゃなかったら怒るから。君の幸せを心から願ってます。さようなら、大好きだったよ。
凛より』
———奇跡が起きなかったら、あったかも知れない未来。それを見た気がした。
もし、ドナーが現れなければ。もし、手術が失敗に終わっていたら。きっとこの手紙の通りに凛は死に、俺は……どうしていただろう。想像できなかった。運命を越えて奇跡を起こし、今を笑顔で生きる凛を知ってしまったから。
途端に寒気がした。凛はずっと隣にいてくれて、俺を一人置いて行ったりはしないと思っていた。でもそれは違う。いつ凛を失ってもおかしくないんだ。過去の話ではない、今もこの先も。病気が回復したからって、凛は不死身になったわけじゃない。
俺はズボンのポケットからスマホを取り出し、電話を鳴らした。
『もしもし?』
今、その声を聞ける喜び。声が震えそうで、必死に抑えた。
「……八月の頭に、毎年でっかい花火大会があるんだ。去年写真見せたやつ。今年は、一緒に行こう」
この夏、凛が楽しみにしていた花火。幼少期から人混みを避けていた凛は、生の花火を見たことがないかもしれない。
『花火大会⁉︎ 行く行く、絶対行く!』
凛は二つ返事で承諾した。電話の向こうで飛ぶように喜んでいるのが伝わってくる。
『ところで、なんで電話なの?』
「……声が聞きたかったから」
踏み出すことが出来なかった。俺は凛が好き。ずっとずっと前から。本当は、この気持ちを伝えたいと思っていた。でも、病気を抱えた凛をそんな風に見ていたのが知られたら嫌われるんじゃないかって、怖かった。
凛の気持ちを知ってしまった今では、卑怯なことかもしれない。それでも、凛がまだ俺を見てくれているのなら。その気があるのなら。
———もう、迷わない。
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