第3話 夢、また一つ

 奇跡というものは案外簡単に起きるものだ。玄関でクラス分け一覧を見たときは心底驚いた。凛とは同じクラス、しかも教室に入ってみれば隣の席なのだ。もはや凛の病気に理解のある俺を近くに置いておきたいという学校側の意図なのではないかとさえ思える。

「緊張したね。退場のときお母さん号泣してて笑っちゃった」

 入学式を終えて静まり返る教室。ほとんどが初対面の人ばかりで誰も自ら話しかけようとはしない。しかしそんな中、俺の幼馴染は一人平気で口を開く。

「ちょっと前まで死にそうだった娘の入学式で泣かない方が無理だろ」

 周りの空気に合わせて小声で答えた。凛も喋っているのは自分たちだけだという事実に気づいたらしく、慌てて口を抑える。

「今って、静かにしなきゃいけない時間なの?」

 身体をグッとこちらに寄せて囁いた。都合良く一番後ろの席だったため、その体勢でもあまり目立たない。

「いや、俺らみんなほぼ初対面だし」

「あ、そーゆー感じ……」

 ようやく完全に状況を理解したようだ。凛の中で、学校といえば小学校のあのペチャクチャした感じの認識で止まっているのか、それとも知らない人たちの集団に飛び込み一から関係を築くのは自分だけだと思っていたのか———

「ねえねえ」

 凛は前の席に座る女子の肩を叩いた。その子は驚いたような表情で振り向く。

「初めまして。私、高館凛っていいます。ごめんね急に、早く友達作りたくてさ。これからよろしくね」

 我が幼馴染ながら、すごい度胸だと思った。

「うん、よろしく! わたしは奈央」

「奈央ちゃんかー、いい名前だね」

 ものの数秒で打ち解けてみせた。三年間病院に籠りきりだったとは到底思えないコミュニケーション能力……いや何より、その真っ直ぐな性格が人を惹きつけるのだろう。凛の影響を受けてか、周りでも少しずつ会話が生まれ出す。長い闘いの末に日常を取り戻した凛の、新しい生き方を見た気がした。


「———連絡は以上です。今日はゆっくり休んで、また明日から頑張りましょうね」

 解散して、席の近い男子と言葉を交わしながら帰り支度をした。幸い周りは気のいい奴しかいなくて、俺も友達には困らなそう。「優くん、帰ろ」

「ちょっと待って、まだ準備が———」

「おーい優真!」

 後方の出入り口から呼ばれ、突然のことで一瞬誰かわからなかった。

「ごめん、ちょっと行ってくる」

 一言断れば、凛は片手を上げて応えた。

「どうした智樹、わざわざ教室まで」

 中学では三年間同じクラスだった智樹だが、高校では一つ隣のクラスになった。

「どうしたって、お前がオレの連絡無視してるからわざわざ来てやったんだろ」

「え、まじ?」

 急いでスマホを確認すると智樹からの通知が五件もあり、朝早いものは一緒に登校しようと誘う旨の文章だった。思い返せば、今朝は色々と浮かれていてスマホなど全く見ていなかったと気付く。

「ごめん、朝ちょっと忙しくて……」

「まあそれはいいけどさ。それより、あの子どうしたんだよ」

 あの子、と智樹が指差した凛は、女子数人と仲良さげに交流していた。病気のことは先程担任がクラス全員に向けて話していたから、その心配でもされているのだろう。

「どうしたって?」

「今喋ってたろ、朝も一緒に来てたし」

「見てたのか……」

「そりゃ、同じ電車だからな。んでお前、いつからあんな可愛い子と仲良くしてんだよ」

 可愛い、その言葉がなんとなく引っかかった。確かに凛は黙れば美人だし、話せば愛々しい表情を見せてくれる。優しくて、それでいて強さも持ち合わせており、花も実もあるとはまさに凛のことだ。それが人の目に止まるのは、なぜか気に入らない。

「……智樹も知ってる。高館凛、クラス一緒だったから覚えてるよな?」

 いつの間にか芽生えてしまった独占欲を押し殺し、凛を紹介した。中学校には一度も来なかったが、凛も三年間クラスは一緒だった。

「高館凛って……えぇっ⁉︎ お前の幼馴染の⁉︎ 噂じゃ余命わずかって聞いてたけど……」

 そういえば、智樹が凛のことを聞いてきたことはなかった。俺に気を遣ってくれていたのかもしれない。

「そうだったんだけど、色々あって助かった」

「なんだよそれ、詳しく教えろ!」

「あの!」

 会話に割って入ったのは凛だった。智樹は驚きを隠せない様子で、視線で俺に助けを求めてくる。

「さっき私の名前が聞こえたんですけど……私に何か用ですか?」

 事情を知りたがる凛は、俺と智樹を交互に見つめた。

「あー、えっとぉ」

 突然のことにわかりやすくキョドる智樹がおかしくて、思わず口元が緩んだ。

「ちょうど良かった。コイツが智樹」

「あぁ! 初めまして、お噂は予々聞いてます」

「え、俺のこと知ってんの?」

 病室で学校のことを話すとき、智樹の名前をしばしば出していた。ただ俺が印象的だった場面のみ切り抜いて話していたので、凛からしたら智樹は「面白い人」という認識しかないかもしれない。

「優くんと同じバスケ部で、クラスは私とも一緒だったんですよね」

「よく覚えてるな」

 話したこともなければ顔すら知らない奴の情報を、よくもしっかり記憶していられるものだ。

「だって学校のことたくさん聞かせてくれたじゃん」

 自慢気に凛は言った。なんでもない退屈な話をちゃんと聞いてくれていたのが嬉しい。

「しっかし、二人ともほんとに仲良いなー」

 ニヤニヤというかニマニマというか、完全に嫌なスイッチの入った顔をしている。

「そうですか?」

「そうそう。優真もこんな可愛い幼馴染がいたら、あの告白ラッシュに揺らがなくても不思議じゃないよなぁ」

 この性格の悪い顔面をどうしてくれようか。非常に良くない考えが脳裏を過ぎる。

「告白ラッシュ?」

 何も知らない凛はきょとんとしていて、言葉に詰まった。

「聞いてない? コイツ、スポーツ万能で勉強もできるし、顔も身長もそこそこでまあまあモテてさ、受験終わってから学年の可愛い女子三人から告られたんだぜ」

 こっちの心境を知ってか知らずか、人のプライベートな情報をベラベラと喋る。こうなったらもう止まらないのは承知だから、あえて制止には入らない。

「へぇー。さすが優くん、モテモテだね」

 少しでも顔を歪ませてくれたら、と期待していたけど、凛は嬉しそうにしていた。

「無駄話しに来たなら帰れ」

「酷っ、せっかく人が———」

「か、え、れ!」

 念を推して言えば、ブツブツ文句を言いながらも大人しく自分のクラスへ入っていった。

「……なんか怒ってる?」

「別に。俺たちも行こ」

 嫉妬して欲しかった、なんて言えるはずがない。机の中のプリントたちを雑にリュックに突っ込んで、教室を後にした。


「優くんは高校でもバスケ続けるの?」

 電車を降り、お互いの家へと向かう帰り道。今日仲良くなった子のことを楽しそうに語っていた凛だが、一転して質問が飛んで来た。

「まだ悩んでる。せっかく中学で頑張ったし続けるべきなんだろうけど、放課後は凛に勉強教わりたいし。それがどうかした?」

 事実、俺が今の学校に通えるのは、凛が勉強を見てくれたおかげだ。本人曰く、病院の生活はやはり退屈で、勉強は暇潰しにちょうど良かったらしい。中学内容を一人で学び、三年の春に試しに受けた模試ではぶっちぎりの学年一位になったほど、凛は勉強ができる。その凛に病室でわからないところを教えてもらっているうちに俺のテストの成績はみるみる成長し、進学校と呼ばれる今の学校に合格できた。

「もう一つやりたいことできちゃったの」

「部活入りたい?」

「それもあるけど」

 躊躇うように視線を泳がせ、凛はそっぽを向いた。

「……優くんのバスケの試合、応援しに行きたい」

 迷っていると言ったバスケだが、実は足を洗うと決めていた。凛に勉強を見てもらう時間が好きで、失いたくないから。

 でもやっぱり、多少の未練は残っていた。それに凛が望むなら、続けてもいいかもしれない。

「……まあ、後々考えるよ」

 駅と自宅は目と鼻の先で、一軒隣りの凛の家もまた等しい。電車を降りて五分と少しで互いの家が見えた。

「じゃ、また明日な」

「待って!」

 玄関のドアに手をかけたところで引き止められた。凛にしては声を張っていたので、何事かと少し心が騒めく。

「あの……付き合ってないの?」

 意味がわからなくて、反応に困った。付き合う……誰の何に?

「えっと、何の話?」

「ほ、ほらさっきの、告白ラッシュ?みたいな……可愛い女の子たちに告白されたんでしょ? もしかして、誰かとお付き合いしてるのかなって……」

 歯切れの悪い口調が凛らしくない。右手人差し指でクルクルと髪を弄ぶ仕草は、昔からの癖。他意はない。わかってるのに、その姿が恥ずかしがっているように見えてしまう。勘違いも甚だしい。

「ちゃんと断ったよ。そもそも数回しか話したことない人ばっかだったし」

「……そっか。じゃあ私、まだ隣にいてもいいんだね」

 安心したように顔を綻ばせて微笑む。凛はよく笑う子だ。

 もしその笑顔が、俺だけのものだったら。

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