私は川になる

雨宮吾子

私は川になる

 第一声としての波紋が水面に広がると、その波紋を否定するように次の波紋が起こり、さらにその次の波紋へと続いていく運動が起こった。それは、雨の始まりだった。水音が独唱から合唱へと推移していくのを眺めているうちにたちまち勢いは強まってきて、私の座る東屋の背後にある広場では、小学生たちが蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去っていった。

 そうして世界は雨音に支配された。私は屋根のある場所に座っていたから幸運といえば幸運なのだけれど、傘がないためにこの場所を離れることもできない。あえて大げさな身振りで深呼吸をしてみせ、全身の力を抜いた。手ぶらだから雨に濡れて困るものがあるわけではないし、歩いて帰ろうと思えば無理ではない距離だから、困り果てたという気持ちでもない。とりあえずは雨が止むまでのしばらくの間、ここに留まろうと思った。

 街中に公園として整備されているだだっ広い空間に私は何とはなしに吸い込まれ、つい東屋の椅子に腰掛けたのだった。私がそこで何をしていたのかというと、ただただ川の流れを眺めていたのだ。昼と夕方の間の、未確定な時間の中でぼんやりと川を眺めていられるのは、仕事を辞めたばかりの人間の特権といえる。雨の中に取り残されても案外平然としていられるのは開き直りのおかげなのかもしれなかった。それでも万人に等しく課せられている時間の洗礼からは逃れられない。冷静に考えればいつまでもこのままというわけにはいかないだろう。三十代を迎えたばかりの私は、それでもこの雨が降っている間はいつまでもこのままでいられそうな気がした。

 こんな私でも恋をする。現代ともなると当然のことながら恋をするのに貴賤は関係なくて、この年代の恋愛ともなると結婚という言葉が嫌でもまとわりついてくる。だから私はいつも実るはずのない恋をしてみせる。どこか遠くへ引っ越していく隣人、官庁街で働く人々、街中ですれ違う人。恋の妄想をしてみるのも案外つまらないものではない。友人や知人にはいつも始まってもいない恋の顛末を語る。そうすると語っているうちに熱が冷めてしまって、すぐに新しい恋を探し求めて街へと繰り出すのだ。

 いつもその繰り返しなのだけれど、考えてみれば人生は何事も繰り返しだ。炊事も洗濯も掃除も、どうして飽きないのだろうというくらいに繰り返す。人生に飽き始めたならいよいよ危ないとは思うけれど、しかしどこか停滞した気分を打破するだけの熱量は、歳を重ねるごとに薄れていくのだった。

 雨は止むどころかいよいよ勢いを強めてきている。少し触れるくらいの強さで川面に現れていた波紋は、いつの間にか大きく、また深くなっている。ここで待ち続けて本当に雨は止むのだろうか。それとも……。

「あの、すみません」

 突然の呼びかけに私は驚いた。今での考えを口に出して呟いてしまっていなかっただろうかと振り返る。

 私の背後に立っていたのは、おそらくは私と同年代の男性で、スーツのジャケットを脱いでワイシャツ姿になっていた。視線をぶつけるのが妙に憚られて、視線を落とすと二本の傘を持っていることに気付いた。

「もしかしてお困りなんじゃないかと思って」

「……あの、傘を持っていなくて」

「ああ、やっぱり。この雨の中を一人でぼんやりとしていたようでちょっと心配になったんです。もし良ければ、この傘を使いませんか」

 そう言うと男性は鮮やかな色の傘ではなく、透明で当たり障りのない、言ってみれば平凡なビニール傘を差し出してきた。それでも今の私には有り難い。

「貸して下さるんですか」

「貸す、というよりも差し上げることになるでしょうね。本当は知人を駅まで迎えに行くつもりだったんですけど、どうしても気になってしまって」

 するとこれは、知人のための傘なのだろうか。私は何だかひどく気怠い気分になってしまった。

 それでも断る理由はなく、私は立ち上がると、賞状を受け取るときのような厳かさで傘を受け取った。

「でも、傘が一本だけだと困りませんか」

「いえ、相合い傘に誘う良い口実と思えば、却って助かるかもしれません」

「……そう、ですか」

 私はお礼を言うと、男性はもう一本の鮮やかな色をした傘を広げた。オランダの画家、モンドリアンの作品を模した絵柄が視界いっぱいに広がった。

「じゃあ、さようなら」

 それだけ言うと、男性は去っていった。残された私は背後に流れる川を振り返ったけれど、もうここに留まる理由を見出すことはできなかった。


 この街でたった一人だけ濡れずにいられる特権を捨て去る決意ができると、私は透明な傘を広げて世界に飛び出した。横断歩道を渡るとき、普段は急かされるように青信号の点滅を見るのだけれど、今日はそれも雨のリズムと調和しているように感じられて心地が良かった。その先はたくさんの傘が行き交っていて、私はこの傘の川の中を流れていくのだなと思った。雨の止むことがなければ素敵なのに。そんな気分になったのは生まれてから初めてのことだった。私は傘の川の中に身を浸すようにして、群衆の中へあえて飛び込んでいく。すると、私は私であると同時に私ではなくなっていく。それが何故かしら快いことのように感じられた。

 傘の模様は人それぞれだけれど、透明な傘を広げている人と出会うことは意外にもなかった。そして、あのモンドリアンを模した鮮やかな傘に出くわすこともなかった。それが嬉しいことなのか悲しいことなのか、私には最後まで分からないのだった。

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私は川になる 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

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