第3話


 ぼくの部屋は整っていたはずだ。まず床にものを置くのは論外。ゴミだって、蓋付きのスタイリッシュなゴミ箱を選んでいるので部屋の景観を邪魔しない。こまめにゴミ出しをするので、ゴミ箱からはみ出すなどということはない。それが今はどうだ。

 床には水のペットボトルが、十本以上転がっている。全てに少しずつ水が残っていて、どれが最新のものか分からないけれど毎日新しいのを開けるから問題ない。いや問題ないはずはない。だって床のペットボトルを目視して避けながら歩くなんて不便で仕方がないからだ。

 水出しの麦茶は冷蔵庫の中でおそらく腐っている。でも捨てるのは面倒だ。

 ぼくの頭のなかでは11桁の番号と猫の毛色と短い脚が踊ってる。といっても短い脚は写真にははっきりと写っていなかったので、ぼくの想像のなかでの脚だ。そのせいで寝付きが悪いし、料理も片付けも、生活全般のやる気が起きない。インスタの部屋アカウントの巡回だって、息するようにしていたのに、全く出来ていない。スマホを持てば例の写真を開いてしまう。見たはずの猫の記憶を探し続けている。

 ニャンニャンネコチャン、ぜろきゅうぜろ。

 蒸し暑い部屋のなかで踊っていると、ペットボトルを踏んだらしくぼくは地味に転んだ。足をひねって、おっとっと、なんて声を出して、受け身を取った先にもペットボトルがあってそれで腹が横にすべって、スローに転んだ。

 仰向けになったぼくの目の前に観葉植物の葉があって、それが生き生きとした緑ではなくなってた。枯れかけているようにも見える。原因を調べるためにスマホを取り出して、例の写真を三十分ほど眺めてから、思い直して検索したところ、葉ダニがついたようだった。殺虫剤を買いに行かねばならない。

 ホームセンターは遠い。自転車に乗ったって片道二十分だ。それを徒歩だとどれだけかかるのだろう。自転車はある。だがブレーキを直さないと乗れないのだ。こんなことなら早く直しておけばよかったと、自転車置き場を横目にとぼとぼと炎天下を歩き出した。

 百メートルも歩くと、照り返しで全身が焼かれる心地がある。暑いというよりも熱い。そして痛い。呼吸が浅くなるのが分かった。体の内側からも蒸されるからだ。

 あの葉の状態を見るに、とぼくは考える。

 わりと手遅れなのではないか。あれは無理だろう。明々白々だ。枯れるのを待つばかりの植物だ。とにかく部屋に葉ダニにつかれた植物があるのは嫌だ。それにもう死んだも同じようなものだ。そんなものに与える薬剤を買いにのこのこ出かけて、自分が死んだら馬鹿らしい。

 ぼくは部屋に引き返して、ベランダに観葉植物を出した。見えないところで静かに朽ちてもらいたい。ただでさえ瀕死のこれが、南向きのベランダに出されては生きていけないだろう。ついでに葉ダニも滅びてくれ。見えない虫の存在は不気味すぎて、ぼくは観葉植物のあった辺りだけめちゃくちゃにファブリーズした。

 狭いベランダは観葉植物を置いたらいっぱいだ。それに一度外に出した観葉植物に再度出会いたくないのもあって、布団を干さない理由が出来てしまった。というか見たくもないのでカーテンすら開けなくなった。

 電話番号はずっとなり続けている。ニャンニャンネコチャン、ぜろきゅうぜろ。それに加えてピポパポポと自分が電話をかける際のプッシュ音が、伴奏として重なるようになった。それを聴いているときにスマホを触っていると、うっかり11桁の例の番号を押しそうになる。電話がかかったとして、ぼくは何を言えばいいのか。猫をどこかで見たのは確かですが思い出せませんとでも言えばいいのか。

 恐ろしいので、ぼくはスマホに触れなくなった。

 スマホは電源が無くなるに任せて、放置されるようになった。夏休みだ。なにかする予定だった気がするが、スマホがなければ誰も連絡を取りようがない。だからなにもしなかった。

 カーテンを締め切って、部屋のなかでただ蒸され続けている。一日一度はコンビニに行くので、引きこもりではない。ちゃんと水分も、塩分も取っている。それでも朦朧として、ときおり眠っているのか気絶しているのか分からない時がある。

 もしかすると超自然的な力でクーラーが直っているかもしれないと思い、作動させると相変わらずかび臭いにおいとともに作動音だけが必死に鳴る。ぬるい風が部屋の埃をかき混ぜる。停めてもお掃除ランプが光っていて、ちかちかと目障りだ。ちかちかに合わせてまたニャンニャンネコチャンピポパポポが鳴り始めるので、ランプをガムテープで隠した。

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