第1章・いくつもの奇妙な出会い(5)
数秒後、僕の体は空と同化した。眼下には軽トラックとヤマオ爺さんとカケルの姿が豆粒のように見えている。空気は思った以上に涼しくて澄んでいて、肺の中が瞬時にクリアになっていく。この感覚は何度経験しても心地良い。
僕はしばらくその場で旋回を続けた。本格的に鳩舎へ向けて飛ぶのは、このウォーミングアップを終えてからだ。これには準備運動という意味合いもあるけど、方角や距離、湿度、風向き、眼下の地形など様々な情報を感じ取って分析するということの方が理由としては大きい。
それにレースの場合にはこの旋回時にいくつかのグループに分かれ、そのそれぞれの集団の中で先頭を飛ぶヤツが自然と決まる。スピードだったり雰囲気だったり、理由は様々。そしてコース取りがそいつの判断に任されるというのが僕たちレース鳩の間では暗黙の了解であり、ゆえにこのグループ選びがその後の自分の運命を大きく左右する。
まぁ、距離が長くなればなるほどグループからの脱落者も増えていくので、最終的には自分自身の力が最も重要になるのは言うまでもないんだけどね。
「――さて、そろそろ鳩舎へ向かって飛びますか」
天気は良好。湿度にも大きな異常は感じられない。周囲にタカなどの気配もない。鳩舎のある方角は南西。距離は百キロメートルを少し超えるくらいか。
周囲は山々に囲まれているけどその南西方向には平地が続いているから、そこを飛んでいこう。それなら距離的にも短くて済むし、効率が良い。この穏やかな気象条件だと、東や西へ向かって山を越えるルートを選択する必要はない。
もし南西方向に雨雲の気配を感じるなら、東の山地を越えて海沿いに南下するルートも選択肢に入るけど。
「ん? 軽トラックも休憩は終わりみたいだね」
僕が南西を向かって飛び始めると、それを見届けたヤマオ爺さんたちも軽トラックに乗って移動を開始した。また無事に再会できることをお互いに祈ろう。
こうして彼らと別れを告げた僕は単独で空を飛び続ける。
僕とっては気楽で自由でのびのびと出来る瞬間。周囲には危険がいっぱいだから、油断するわけにはいかないけど。とはいえ、見通しの良い時にある程度の高さで飛んでいれば、そんなに心配はない。まだ飛び始めたばかりで体力も充分に残っているし。
――あぁ、風が優しい。そんなに羽ばたかなくても浮かんでいられて、こういう時に飛ぶのは大好きだ。僕の翼は大きくて丈夫だから勝手にスピードが出て、景色を眺める余裕も出来る。
ちなみに景色を眺めるのは楽しむためというわけじゃない。僕たちの仕事の一環だ。目印を記憶しておけば今後の仕事で役に立つし、視力に頼った感覚や経験を養うことにも繋がる。
鳩舎へ帰るための手がかりは多ければ多いほど良いのだ。匂いや方向感覚などが利かない場合もあるから。そういう時は、やっぱり目から入ってくる情報が重要になる。地形は当然として、人間が作った建物も。
例えば、東京に建っている巨大な塔とか。迷いそうな時はあれを目標にすればいい。そして近くまで行けば見覚えのある景色も増えてくる。
「……それにしても、東京に比べれば圧倒的に人間の家が少ないな」
空を飛んでいると、この地域は畑や田んぼなどの割合が高いのがよく分かる。また、だからこそ小高い丘が点在しているとはいえ、見通しは圧倒的に良くなっている。これなら少し低く飛んでも危険は少なそうだ。
そう判断した僕は翼の角度と羽ばたきを調整し、街が間近に見える位置まで高度を下げた。
なお、こんなにも見通しの善し悪しに気を遣うのは遠視――要するに遠くがよく見える反面、近くのものは見えづらいから。これは飛ぶ時などに瞳を覆い、塵や埃から保護する役割がある『瞬膜』の影響による。逆に瞬膜を使っていない時は近くの方がよく見えて、遠くは見えづらい状態となっている。
つまり障害物がゴチャゴチャしている場所を飛ぶと建物に衝突やすくなったり、死角から天敵に襲われたりする危険性が高まるということになる。
遠くも近くもよく見えたら良いんだけど、世の中はそううまく出来ていないらしい。
「この地域で目印になりそうな建物は……っと……」
僕は街の中を飛びながら視覚情報を蓄積していった。周囲にいる鳥類はスズメやカラス、ムクドリ、トンビといったところ。そいつらはいずれも機嫌が悪かったりちょっかいを出さなかったりすれば、まぁまぁ安全。特にトンビは猛禽類の一種だけど、積極的に僕たちを襲ってくることは滅多にない。
どうやらトンビという種族は面倒なことが嫌いらしく、だからこそ食べ物は死んだ動物やカエルのようなあまり労せずして得られるヤツらを好むようなのだ。もちろん、だからといって油断は出来ないけど。
「って、あれ? 何だアイツ?」
噂をすれば影がさす――ということなのか、その時、僕は田んぼのあぜ道で倒れている一羽のトンビを見つけた。羽を見た感じ、今年の初夏頃に巣立ったばかりの若いトンビのようだけど、どうしたのだろう?
まさか不用意に近付いてくる獲物を待ち伏せているというワナだろうか?
――いや、それはアイツにとってもリスクが高すぎる。いくら体の大きいトンビでも、地面に横たわっていたらイタチやキツネ、ネコなんかに襲われてしまうから。地上では機動力において不利すぎる。
そしてそんな状況で獣たちのツメやキバの威力に太刀打ち出来るトリなんて、僕は見たことがない。広い世界のどこかには、ヤツらに勝てる強いトリもいるかもしれないけど……。
(つづく……)
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