第1章・いくつもの奇妙な出会い(4)

 

 ――さて、ここはどこだろうか? 景色になんとなく見覚えがあるから、もしかしたら以前にも出張でこの場所へ来たことがあるかもしれない。


 周りに広がる森、遠くに見える山、小川のせせらぎ、空気の匂い、湿度と気温――。


 そして遠くではヒヨドリたちがさえずっている。大自然が間近にあって、その雄大さと厳しさを肌で感じる。こういう場所でのんびりと構えていたら、いつ死に至っても不思議はない。だから否応なしに緊張感が高まってくる。


 特にレースの時と違って、出張の時は単独か数羽で飛ぶことになるのがほとんど。つまりそれだけ天敵の標的になりやすいわけで、いつも以上に周囲へ注意を向けないといけない。


 もちろん、レースであっても鳩舎へ向かって飛んでいるうちにスピードやスタミナ、ペース配分、コース取り、周囲の天候などによって結果的に単独になることはよくある。


 ただ、少なくともスタート地点からしばらくは数羽から数百羽単位での集団行動となるので、その間においては標的になるリスクは圧倒的に低い。だから平均的な飛行能力があって臆病なヤツほど生き残りやすい。


「よし、あと五分でちょうど午前九時になるから、そのタイミングで放鳩することにしよう」


 腕時計に目を落としながらヤマオ爺さんが呟いた。


 するとその直後、僕のいる箱の中をカケルが心配そうに覗きこんでくる。瞳はなぜか潤んでいて、表情も不安に満ちているような感じ。しかもいつも以上にソワソワしていて落ち着きがない。


「爺ちゃん、ツバサは家に帰ってくるよね? 逃げちゃって、どこかへ行ったままにならないよね?」


「ははは、大丈夫。確証は出来ないが、何もなければ帰ってくるさ。もしかしたら爺ちゃんたちが家に帰るよりも早く、ツバサは鳩舎へ戻ってるかもしれない。レース鳩ってのはそれだけ速く飛べるんだ」


 それを聞いてカケルは少しだけ安堵の息を漏らした。


 そういうのを見ると『本気で鳩舎から逃げてやろうかな?』と意地悪なことをしてやりたくもなるけど、まぁ、やめておこう。カケルは号泣して落ち込んで、立ち直れなくなってしまいそうだから。一応、カケルには多少の恩もあるし。


 そもそも食事が用意されていて、しかも安全な住み処を捨てるなんてあり得ない。


 一方、ヤマオ爺さんはドライというか、万が一のことが起きうることを理解しているような雰囲気がある。やっぱりその根底にあるのは、僕たちの仕事には色々な危険が潜んでいるということを知っているからなんだろうな。


 事実、僕も参加した過去のレースでは……。


 そういう点からもヤマオ爺さんは僕たちレース鳩を扱い慣れているなと感じる。付き合いの浅いカケルがその境地に至っていないのは仕方のないことだ。



 …………。


 ……もし僕にその万が一が起きて帰れなかったら、カケルはその事態をきちんと受け止めて乗り越えられるだろうか? 僕には関係のないことだけど。



 でもカケルはそんなことなど想像だにしていない感じで、依然として無邪気に瞳を輝かせている。


「ねぇ、爺ちゃん。レース鳩ってどれくらい速く飛ぶの?」


「レースの時には分速――つまり一分間にどれだけの距離を飛んだかで順位を競うんだが、平均的な能力のレース鳩でも分速一キロメートルくらい。一時間だと六十キロメートル以上は飛ぶ。自動車と同じくらい速いぞ」


「なんで分速で競うの?」


「スタート地点は同じでも、帰る鳩舎の位置がバラバラだからだ。距離では比べる条件が異なってしまう。だから距離をかかった時間で割り算して、分速を出す」


「そっか、ハトが帰る家はみんな違うもんね。同じ家に住んでるハトだけじゃないもんね」


「そういうことだ。ただ、ルートの途中で天候が悪化すれば帰ってくるのが遅くなることが多いし、天敵に襲われたら戻ってこないこともある」


「えぇッ!? レース鳩って何かに襲われちゃうのっ?」


 カケルは顔色が真っ青になり、体を小刻みに震わせた。その表情の急変振りは異様なくらいで、まるで山の天気のような感じだ。おそらく天敵の存在なんて考えたこともなかったのだろう。


 ただ、人間は自然界の弱肉強食おきてから外れたところにいるから、それも仕方のないこと。常に命の危機を感じながら生きている僕たちとは違う。


「レース鳩の天敵はワシやタカ、ハヤブサ、フクロウといった猛禽類だな。地上に降りればイタチやキツネ、ネコ、ほかにもたくさんの動物がいる。建物や車、列車と衝突することもある。途中でスタミナが尽きて死んでしまう者も少なくない」


「そんなぁっ! じゃ、ツバサを放すのをやめようよ! 帰ってこなかったら嫌だよ!」


「でも飛ぶのがツバサたちレース鳩の仕事なんだ。それにツバサは賢いのか強運なのかは分からないが、帰還率の低かったレースでも帰ってきている実績がある。分速は大したことないんだがな。その能力を信じてやろうじゃないか」


「う、うん……」


 カケルはまだ完全に納得したような顔ではなかったけど、とりあえず頷いていた。


 ――っていうか、ヤマオ爺さん。分速が大したことがないというのは余計な一言だと思う。何も知らないヤマオ爺さんにはそう見えているのかもしれないけど、見くびられているみたいでちょっと不満だ。


「ツバサ、絶対に帰ってきてね。美味しいご飯をたくさん食べさせてあげるからさ。ボク、ツバサが帰ってくるまで小屋の前でずっと待ってるから」


 箱の中を覗きこむカケルから強くて熱い気持ちを感じる。だから僕は思わず感動して、ちょっとだけ泣きそうになってしまう。



 …………。


 ……おかしい。我ながら柄でもない。



 僕は適当に淡々と仕事をこなすだけ。全力を出す必要なんてない。単なるレース鳩の僕じゃ抗えない事態だっていくらでも起きうる。


 それなのに鳩舎へ帰りたいという気持ちをこんなにも強く感じるのは、なぜだろう?


 ヤマオ爺さんと比べれば、圧倒的に付き合いの浅いカケルに何かあるわけでもない。確かに僕を気遣って一生懸命に世話をしてくれているけど、それは今までヤマオ爺さんだってやってくれていたことだ。何か違う点でもあるというのだろうか?




 ――バタンッ!




 その時、不意に大きな衝撃音がして、目の前には眩い光と広大な空が広がった。きっと箱のドアが開いたんだ。僕は反射的に翼を羽ばたかせ、外へと飛び上がる。風を切る音が静かな空に響き、一気に高度が上昇していく。

 

 

(つづく……)

 

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