第1章・いくつもの奇妙な出会い(1)

 

 羽を焼くような厳しい暑さも、数日前にようやく落ち着きを見せ始めた。セミたちの大合唱は勢いを失い、代わってスズムシやコオロギなんかが力強く音楽を奏でている。眼下に見える木々の葉はもうすぐ鮮やかな赤や黄に色付くことだろう。


 また、同時にそれは僕の住む鳩舎の中が忙しなくなる時期を迎えるということも意味する。


 なぜなら今年の春に生まれた新入りたちが、本格的に仕事へデビューするから。


 僕たち『レース鳩』は桜の咲く頃に生まれ、一か月ほどで巣立ちをして空を飛ぶようになる。去年の春、僕もそうだった。


 どこまでも広がる青空と心地良い風、初めて空を飛んだ時の感動は今でも忘れられない。


 そしてその後は『飼い主』という人間から指導を受け、遠く離れた場所からこの鳩舎へ一秒でも早く戻るよう訓練される。



 空を飛ぶこと――。



 それが僕たち『レース鳩』の仕事だ。その対価として美味しい食事と快適な住み処が得られている。


 ただ、何十年も昔は体に『フィルム』というものや文字が書かれた紙切れなどをくくり付け、それを運ぶのがメインの仕事だったらしい。また、その頃の『レース鳩』は『伝書鳩』と呼ばれていたとか。


 ――そうしたことを、僕の飼い主の吾妻あずまヤマオが鳩舎の外で誰かに話しているのを聞いたことがある。


 ちなみに今の時代は『ファックス』とか『インターネット』とかいうヤツが代わりにその仕事をしているようで、僕たちは単純に飛ぶことだけが仕事になっている。


 何かを運ぶわけでもないのに単に飛ぶだけが仕事だなんて、何の意味があるのかは分からない。理由に興味もない。だけどそれをすると食べ物に困ることはないし、ネコやタカなどに襲われる心配がほとんどない安全な家が手に入る。だから僕は黙々と『適度な力』で仕事をこなしている。


 もちろん、本気を出して早く飛べば飼い主からの待遇は良くなる。だけどそんなの微々たるもので、苦労に見合うほどじゃない。そもそも鳩舎の仲間たちに合わせたスピードで飛んでいれば飼い主の機嫌を損ねることはないし、集団行動をしていればタカなどに襲われても生き残れる可能性は高まる。


 経験でそのことが分かった以上、僕はもう本気で飛ぶことはない。


 現在の待遇で満足だから、目立たないようにのんびりと暮らしていければそれでいい。


「――爺ちゃん、ハトがいっぱいいるんだね!」


 不意に鳩舎の外から、人間の子どもの興奮に満ちた声がした。初めて聞く声だ。近所に住んでいる連中のいずれとも違う。だから僕は不審に感じ、出入口の隙間から様子を窺ってみることにする。


 そこにいたのはヤマオ爺さんと見知らぬ子ども。ヤマオ爺さんは真っ白な白髪に顔全体の深いシワ、恰幅のいい老人で、いつも無愛想な顔をしている。でも僕たちに対しては優しくて、しっかりと世話もしてくれる。人は見かけによらないとはよく言ったものだ。


 一方、子どもは瞳をキラキラさせ、興味深げに鳩舎の中を覗きこんでいる。


 丸い瞳と人懐っこそうな雰囲気。体型は細すぎず太すぎず、平均的な感じ。無邪気な表情の中に端正で凜とした空気が混じっているから、子どもだけど大人へなりかけの段階なのかもしれない。要するにもうすぐ仕事にデビューする新入りのレース鳩たちみたいなものだろう。


 ただ、子どもであることに変わりはない。そして人間の子どもは何を考えているのか、全く掴めないから恐ろしい。相手が大人なら雰囲気などで感情を察することが出来る場合もあるけど、子どもは笑顔で暴力を振るったり、時には大人よりも残酷なことをしたりする。


 僕が目撃したことがあるのは、石を投げてくるとか踏みつぶそうとするとか。当然、鳩舎の中にいる仲間たちもそういうことを知っているから、みんな警戒して奥の方へ避難し始めている。


 でも今はヤマオ爺さんが一緒だから、僕はそこまで過度に警戒する必要はないと思うんだけどな……。


 なお、鳩舎はヤマオ爺さんが住んでいる家の二階、ベランダの一角を改造して作られている。しかも遠くまで景色を見通すことが出来る位置にあるから、空から鳩舎を見つけやすくてありがたい。


 もちろん、帰還の際には視覚だけを頼りにしているわけじゃないけど。


「あっ! このハトと目が合った! こいつだけ逃げない!」


 直後、出入口の近くにいた僕は子どもにじっと見つめられてしまった。しかもこちらを指差しながらケタケタと笑ってご機嫌な様子だ。



 …………。


 ……な、なんだろう、嫌な予感がする。さすがに無警戒すぎたか。僕もみんなと一緒に奥の方へ引っ込めば良かったか。


 でももはや遅い。僕はしっかりと子どもにロックオンされ、鳩舎の中で右に移動すればそれに合わせて彼も鳩舎の外で右に移動する。左でもそれは同じ。奥だと鳩舎に顔を近付けてくる。逃げ出そうにも鳩舎の中にいる以上は行き場なんてない。


「カケル、あいつでいいのか?」


「うんっ! あのハトにする! 体が瑠璃色で、斑模様がない綺麗なヤツ!」


 ふたりの会話から察すると、どうやら子どもはカケルという名前らしい。そして内容は分からないけど、僕は何かの候補として選ばれたようだ。



 ――っ!? ま、まさか捕まって食べられてしまうのかッ? そうに違いない! ちょっとした油断が命取りになったぁああああぁーっ!!



 狼狽えている間にもヤマオ爺さんはドアを開け、鳩舎の中に入ってくる。当然、真っ直ぐ僕に向かって歩み寄ってくる。


 鳩舎を見回すと、仲間たちは一様に僕のことを哀れむような瞳で見ている。誰も助けに入ってくれない。むしろ自分は助かってホッとしたといったような表情をしている感じもする。


 でもそれは弱肉強食という自然の摂理の中では、ごく普通の反応。僕はどれだけ胸が張り裂けそうになっても、責める気持ちにはなれない。


 ……そ、そうか、今まで天敵に襲われたヤツはきっと今の僕と同じような気分で、逃げ延びた仲間を見ていたんだろうな。


 つまり今回は僕が生け贄に選ばれたというだけのこと。助けが来なくて悲しいけど、自分が犠牲となることでみんなが助かるのなら僕は本望だ。


 うぅ、仕方なくこの運命を受け入れよう……。



(つづく……)

 

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