【短編】幼馴染だった彼女と彼の終わり

夏目くちびる

第1話

「カーテン開けるぞ」



 夕方、仕事を終えて部屋に帰ってきた彼は合鍵で彼女が眠る部屋へ現れた。食べた物のゴミも捨てられていないこの部屋は、高級な香水とアロマと、腐った油の臭いが籠もって鼻をつく。



 気持ちが悪い。そう思いながらと、彼は彼女の傍らに置いてある弁当箱を45リットルのポリ袋へ放り込んでいった。



「……頭痛い」


「飲みすぎだ」


「お薬取ってくれない?」



 ブリーチで毛先がパサつくまで色を抜いた長い髪は、昔の黒髪など面影もない銀色だ。彼は、そんな彼女へ水のペットボトルと頭痛薬を渡すと、一週間前に来たときに干してそのままになっていた洗濯物をベランダから回収して畳んだ。



「なんでいんの?」


「生きてるかどうかの確認、おばさんも心配してたぞ」


「ねぇ、親の話はしないでよ」



 すると、彼女はスマホを取り出して画面をタップし、幾つかの連絡を確認してから電話をかけた。昨日遊びに行ったホストクラブのキャストが、気を使って掛けてくれたのにリダイアルしたらしい。



 彼は、さっきまでとは別人のように甘くなった彼女の声を聞いて、ため息をつくと洗濯機を回した。空気は入れ替わって、秋口の少し涼しい空気が部屋に充満している。



「今度ねぇ、カイトさんと犬カフェに行くんだよ。このマンション、ペット禁止って言ったら一緒に行ってくれることになったの」


「へぇ、よかったな」


「そっちはさぁ、会社とかどうなん?」


「どうって、別になんてことない。いつも通り」


「ふぅん。なんか、つまんなさそう」


「つまらんよ」



 女は、キャバクラで働いている。貴重な若さを莫大な金に代え、その命の結晶をホストクラブへ貢いでいる。高校を中退し、普通の生活を知る友達とは縁を切ってしまったことで、彼女の中にある常識は夜遊と散財のみとなっているのだ。



 それに、あまりにも大きな金額を使い過ぎで脳みそが麻痺してしまっている。遊ぶために金を使うのか、金を使いたいから酒を飲むのか。もう、彼女にはその答えも分からなかった。



「風呂、洗ったぞ。湯が沸いたら入れよ」


「入れてよ」


「……俺、あんまりお前の体見たくないんだけどな」


「なんでよ」



 泣きたくなるから。



 言葉を飲み込んで、男はチルドのハンバーグをフライパンで温め付け合せの野菜を切る。湯が沸いたのを聞いて、先にそっちを済まそうと火を止めグッタリとする女の下着を外すと、体を支えて湯船に入れる前に髪と体を洗った。



 あの頃は、健康的だった。こんなに痛々しい、太ももの付け根の傷も無かった。それを見るたびに、男はなぜ彼女を止めてやれなかったのか自責の念に駆られるが。しかし、もう互いに大人だと信じて。やりたいことをやる事こそが幸せだと信じて、至極自然に彼女の頭を撫でると立ち上がった。



「タオル、置いとくからな」


「やだ」



 落ちた髪の毛と食べカスを掃除機で吸い込み、もう空になったコンドームや血のついた生理用品、果ては妊娠検査薬の箱をも無感情に捨てていく。やけに重たく感じるのは、一体なぜだろう。彼は、袋の封を閉じるとき瞬きの隙間だけ考えるが、もちろん答えは分からない。



 いや。本当は気付きかけたいつかに、彼自身が分かろうとするのをやめたのだろう。嘗て、本気で恋い焦がれた女が朽ちていく現実から目を逸らし、綺麗な思い出のままでいさせようと思ったのだろう。



「ほら、米と味噌汁も茶碗に移したぞ。食べろよ」


「うん」



 すっかり綺麗になった部屋の中、女は下着姿のまま食事を摂った。やたらと様になる正座と橋の持ち方が、今と昔の境遇のギャップを生み出している。そんな作法を覚える必要も無ければ、彼女は今でも普通でいられたのだろうか。



「……なぁ、ミナミ」



 男は、女の名前を呟く。テーブルに頬杖をついて、柔らかい笑顔で呟く。



「なに?」


「お前、幸せか?」


「うん、今日は仕事の後にコウキさんと約束あるし。お寿司食べたいって言うから連れてってあげるの」


「そうか」



 茶碗から米粒を掴み、少しずつ口に入れる。



「体、痛くねぇか?」


「いつも頭痛いけど、もう慣れたよ」


「具合、やっぱりずっと悪いのか?」


「お酒飲めば治るよ」


「今日も、たくさん飲むんだろうな」


「うん。私の誕生イベントだし」



 男の目から、涙が溢れた。エアコンの風でシャンプーの香りが流れて、懐かしい気持ちになったからだ。



「おめでとう、ミナミ」


「ありがと」



 女は、男が泣いている事に気が付いていない。



 こんな関係を続けているのに、もう何年もの間、女は男の目を見たことがないのだから当然だ。彼女は、男の献身と愛情から目を逸らしている。直視すれば辛くなると、心のどこかで分かっているのかもしれない。



 ならば、拒絶出来ないのはどうしてだろう。他の誰にも触らせない髪を任せるのはなぜだろう。



 こんなにも飾らないでいられるのは、なぜだろう。それが心地よいと気が付かないのは、なぜだろう。



「ねぇ、なんで来んの?」


「昔は、お前のこと好きだったからさ」



 これまで、いつも教えてくれなかった理由。聞いて、女は俯くと僅かに自分の髪を撫でた。



「ふぅん、そうなんだ」



 お前はどうだったのか。言いかけたが、男は口を閉ざした。もしもそう思っているのなら、きっとここで言ってくれるだろうと思っていたから。



 ならば、伝えなければならない。これ以上、裏切ってはいけない人がいる。自分に、二つは得られない。理解しているからこそ、彼は今日もここに来れたのだ。



「でも、だから何?」


「別に、何ってワケじゃない。ただ、もうここには来られないから」 



 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、女の箸が止まる。



「なんで?」


「彼女と結婚するんだ。もちろん、お前のことはずっと黙ってる。複雑だし、説明するのも面倒でさ」



 彼女。中学の頃、女とも仲の良かった彼女。ずっと一途に、男を好きでい続けた彼女だ。



「そっか」


「……ごめんな、助けてやれなくて」


「助けるって、何が?」


「頭痛、治してやりたかった。それだけが、俺の心残り」



 そして、男は幾つかの箱が入った袋をテーブの上に置いて立ち上がった。



「頭痛薬と痛み止め、そこに入ってんだ。結婚式はやらねぇし、もうお前と会うことはないと思う。まぁ、そいつは俺からの選別だと思ってくれ」



 ジャケットを取り、ポケットに手を突っ込んで輪にかける。



「ねぇ」



 今度は、女が呟く。



「うん?」


「あの子のこと、好き」


「……あぁ」



 そして、男は手を上げて部屋の外へ出た。女は、何を言われたのかもよく分からなくて、テーブルの上に置かれた袋も開かず、食べ終わった皿を放置して化粧を始めた。



 ……。



 明け方。



 家へ戻ってきた記憶は、ない。いつも通り、酒で狂った頭を抑えて薬を飲む。畳まれた洗濯物の中から、適当にタオルと下着を持って風呂場へ向かう。身軽な格好に着替え、今日も職場へ。



 繰り返し、繰り返し。そして、男が去ってから二週間後。女は、ふと男が現れていないことに気が付いた。てっきり、自分を更生させる為のデマカセだと思っていたが、夜がすっかりふけた頃になっても、男は扉を開かない。



「なによ、意味分かんない」



 久しぶりの非番。例のホストからの連絡もなく、ただ部屋でボーッとテレビドラマを眺めていると、ふとテーブルの下にビニール袋が落ちている事に気が付いた。



 はて、こいつは何だったか。そう思って、袋の中を覗く。周囲に転がっているゴミ袋と大した違いのないそれが気になったのは、本当にただの偶然だったのだろう。



「……なにこれ」



 そこには、幾つかの薬と、小さい頃に女が男へ送った手紙と指輪が入っていた。あの頃、彼女がまだ純粋に人を信じられた頃に書き連ねた思いは、今の彼女にとって眩い光を放っている。



「くっだらな」



 吐き捨てて、灰皿の上に置くとライターで火をつけた。一枚ずつ燃やして、そして最後の一枚を焼こうと思い手を伸ばす。それは、ピンク色の細長い上に、黒のサインペンで願い事が書かれた短冊だった。



「ミナミが、幸せになれますように」



 幼い文字で書かれたそれを読んだとき、女の手が震えてライターがテーブルに落ちた。瞬間、思い出す。家を出てから毎週、必ずここへ来て自分の為に尽くしてくれた昔の男の顔を。



 そう、彼女の中の彼は今もまだ若いのだ。ずっと、現実から目を逸らし続けて、ずっとここにあったハズなのに。大人になったハズの男の顔は思い浮かばず、目に浮かぶのはただ楽しく笑っていたあの頃だけ。



 彼女の時は、そこで止まっていたのだ。



「あ……っ」



 気が付くと、涙が止まらなかった。部屋の扉を開けて、靴も履かずに駅へ向かって走り出していた。しかし、男が一体どこから来てくれているのか、それすらも知らなかったことを知って、女は閉ざされた改札の前で泣くことしかできなかった。



 泣いて、泣いて。人々が彼女を素通りする中、何度もごめんなさいと呟いて。それでも、何もかも取り返しが付かない。



 好きだという言葉を肯定してほしくて、拒絶される事を心が拒んで、『あなた』を『あの子』とすり替えてしまった別れの挨拶。もしも、素直に伝えていたのなら、男は立ち止まってくれたのだろうか。



 一生から目を背け、男の顔を直視出来なかった。後悔は、永遠に続くのだろう。この涙は、きっとそんな罰の苦しみが分からないから流れるのだ。



「お願いだから、もう一回だけ……」



 額を地面に擦りつけても、彼は戻らない。心から優しい彼だから、きっとあの言葉に嘘はないのだろう。



 頭痛は、すっかり引いている。時間が動き始めた事で、彼女の頭は今を認識したのだ。自らが受けるべき苦痛をせき止めず、五感に感じさせて全身に悲しみを負わせた事で、彼女の脳みそはようやく眠りから解放されたのだろう。



 しかし、心には穴が開いた。この穴は、金と男で埋められるだろうか。それとも、また新たな愛の形を見つけられるのだろうか。その答えは誰にも分からなかったが。



 一つ言えることは、これより先の未来に語るモノはないという事だけだ。

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