第12話 追憶

 女将さんに時間をとらせてしまった事を詫び、店舗を後にした二人は、車のある場所に向かって歩き出した。


 狭い谷あいに広がる小さな農村風景は、過ぎた月日も感じさせないほどに真一の記憶と大差ないが、そこには真一と繋がる一切が失われていた。


 しかし真一にとって、それは感傷を伴うような事実ではなく、ただ過ぎ去った日々がそこにあったと言うだけのことだった。


 ただ、誰とも共有することのなかったその過去の日々を、一部ではあるが紗織と夫婦で共有することが出来たのは、真一にとっては幼い日々の自分への餞のように感じられた。


 いつの間にか太陽は頭上から少し西側に傾きつつあり、少し空腹も感じてきた。

 この後二人で昼食をどこで食べようかと考えていると吹き付けてきた、濃い稲の匂いのする風に目を閉じた時、紗織が真一の手を握って同じように目を細めながら明るい声で話しかけた。


「お腹空いてきたね、お昼どうしようか」

「このあたりは太刀魚も美味いんだ。太刀魚の天丼を出す店があるから、行こうか」

「食べる!」


 二人を待つフィアット500と同じ色の空に少し目を向けると、30年前にこの場所で桑の木を見上げた時も、空は今日と同じ色をしていたような気がした。


 真一はフィアット500に乗り込むと、すっかり熱くなった室内の空気を追い出すために、ドアを開けたままエンジンをかけ、急いでクーラーを最大にする。


 広くも無い室内なので、短時間でクーラーの風が行き渡り快適になった。

 そして、もう大丈夫と合図して助手席に紗織を招き入れ、車をゆっくりと走らせ始めた。


 フィアット500で父親が暮らした家の前を通る時、改めて車庫に停まる軽トラックや、雑然とした釣道具たち、白いレースのカーテンが見える縁側の掃き出し窓、閉じられた玄関のガラスの引き戸、手入れする者が居なくなった玄関先の植木鉢といったものに、真一は視線を走らせる。


 家の中には、父親の写真の一枚もあるのかも知れないし、自分に繋がる何かもあるのかも知れない。


 しかし、そのまま何も言わず、特に心の中で掛ける言葉もなく、真一は幼い日々を過ごしたこの谷あいの集落を去って行く。


 後には幼い真一の追憶だけが、夏の風に揺蕩うばかりだった。

 

 そうして夏の休暇の数日を真一の故郷で過ごした二人は、和歌山を後にして涼を求め北上。

 あちこち寄り道もしながら、山好きな二人で長野県を見て周り、最終日を過ごした白馬村を涼しさに後ろ髪引かれながら、中央道で東京へと戻ってきた。


 そして早々にペットホテルからビリーを引き取り、二人で撫で回して再会を喜ぶ。

 ビリーもアビシニアン特有の人懐っこさを発揮して、この時ばかりは二人に思う存分甘えてくれた。

 その日の夜には再び通常のヒエラルキーに転落の憂き目を見る真一だったが、旅から帰った人間の定番のセリフである、


「やっぱり我が家が一番だ」


 を発して、帰宅のリラックス感を心から満喫した。


「ずっと運転おつかれさま。コーヒー淹れるね」

「ありがとう、運転は良いんだけど、取り敢えず何もする気が起きない」


 紗織に労われ、明日まではゴロゴロして過ごすことを改めて心に決めた真一は、紗織の淹れてくれたコーヒーをゆっくりと飲みながら、各地で手に入れたお土産の菓子を食べる。


 真一としては、お土産物のお菓子で一番好きなのは、富山県の「おもかげ」と和歌山県の「柚子もなか」なのだが、手軽さと美味しさでいえば、何気に長野県の「雷鳥の里」が強いと思っている。


 長い旅先から無事自宅に帰ってきた日ほど安らぐものはない。

 どうせすぐに日常が戻ってきて、そんな気分も忘れてしまうのだが、今日ぐらいはそんな平和な事を考えて、だらけていても構わないだろう。


 真一は取り留めもなくそんな事を考えながら、久しぶりに長距離を運転した余韻や、旅先での風景を特に脈絡もなく様々に思い出す。

 いつも旅行に行った後は、その旅の反芻をするのが真一の常だった。


 故郷の土を踏むのも10年以上振りだったし、何より父親の家のあった場所へは30年振りに訪れたしで、これまでの旅とはその味わいは全く異なる。

 そもそもこの旅のきっかけもイレギュラーで、始まりから波瀾が大き過ぎたような気がする。


 真一は、当時暮らしていた建物が無くなっていたことに思いを巡らし、その場所へ道なき道を分け入って行こうとも考えていた事を、やはりら狼狽えていたのだろうか?と思い返す。


 パソコンの360度写真の地図サイトで最初に見た時は記憶違いも疑ったが、事情を調べてみれば自分の記憶は正しかったわけで、やはり山を少し登って跡地を見てみたい気持ちは少なからずあった。


「やっぱりさ、山登って見てみたかったかも。一応」

「もう、だめだよ。絶対危ないからね」

「何か、ありありと記憶に残っているから、跡がどうなってるのか、どうしてもね」


 そう話している時、真一はふと思い出した。

 地図サイトの写真は、撮影年ごとに残っていたのではなかったか?

 それに国土地理院の航空写真も、あの家から空が見えた頃に撮影されたものが、残っているかも知れない。

 

 真一はコーヒーを片手にPCの所まで行き、先に国土地理院の航空写真を調べる。

 真一の生まれた頃の写真はあるにはあるが、サイトに書かれている年代よりも少し古い気がする。

 家のあったあたりは段々畑のような造成跡が見え、地形的には記憶に近いが、家らしき建物が無い。

 近隣も建物が少なく、女将さんから話を聞いた酒屋兼雑貨店も無かったので、明らかに真一がいた時期より昔だ。


「こりゃダメだな」

「どうしたの?」


 真一は紗織に事情を説明しながら、地図サイトにアクセス先を変更する。

 そしてつい先日自分達がいた風景の中に、画面を切り替えた。

 思った場所より少し離れた場所が表示されたので、ちょうど良い場所まで移動させながら、撮影年を確認する。

 今表示されているのは2年前の写真で、さらにそこから3年前の写真があるようだ。

 恐らく、5年程度遡ったところで、家が取り壊されたのはかなり前という話だったため、見ることは出来ないだろう。


 真一は表示される写真の年代を変えてみるが、思った通り山の樹々が多少高さを変えた程度で、残念ながら何も確認出来なかった。


「うーん、まあそうか」


 紗織が持ってきてくれたコーヒーのお代わりを飲みながら、数年程度では変わり映えしない風景をぐるっと眺める。


 そこで真一の手が止まった。

 理由は紗織にもすぐに分かった。

 画面の中に、現在建っている真一の父の家が映っている。


 そこには自分達が訪れた際には車庫の中にあった白い軽トラックが、玄関先の道路脇に駐車されているのが見えた。


 その意味を、紗織はすぐに理解する事ができたが、声を出す事が出来なかった。


 真一は画面を少し、父親の家の方へと進めていく。

 少しずつ画角が変わり、家に近づいて行く画面の中で、車の陰になっていた玄関が見えてくる。


 玄関の引き戸は開いていた。

 陽光の角度から見て、時間は正午前後だと思われる。

 恐らく真一の父が、軽トラックで近場の仕事先から、昼食のために帰宅したか何かで、車庫に車を入れる前か、出して直ぐに玄関を開けて出入りしている所なのだろう。


 角度を変えても写ってはいないが、明らかにそこに真一の父が居るであろう事が分かる。

 今この瞬間こそ、過去30年において真一が実父の存在に最も接近した時であろう。


 真一本人は何も言わないが、紗織は涙を堪えられず、流れるそれを指で拭った。

 真一の斜め後ろに居る紗織に、真一の表情は見えない。

 きっと真一は泣いてはいないし、これについて感傷的なことなどは今後も言わないだろうと思う。


 だから、いつか自然に話が出来るまで、紗織は何も聞かないことにして、そっと真一の背中から手を回し、真一と手を繋いだ。


 誰にでも過去があり、過去を紐解けば物語になるであろう。

 その過去、物語との向き合い方も人それぞれであろう。

 

 それでも紗織は自分が真一の過去とも、物語とも、ずっと真一と寄り添って向き合って居られるよう願ってやまなかった。



                 了

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昨日の地図で歩く場所 キタノタカヲ @billythecat0712

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