第11話 別離
実父の眠る墓石に刻まれた、湯川家代々の墓という文字を眺め、自分もこの墓に入る人間だったのかも知れない事に真一は気付いた。
それはかつて感じたことのない、奇妙な感覚であった。
その墓の下には自分という人間に繋がる血脈が眠っているが、今自分はその血脈とは繋がりのない人間として、その前に立っている。
感傷というようなものではなく、ただ不思議なものを見るような気持ちで、顔も覚えていない父親の墓前に立つ人間を、少し離れた場所から眺めているような感覚であった。
「はいこれ」
いつの間にか紗織が、バケツに水を入れてきてくれていた。
「ごめん、ありがとう」
「お花これでいいかな?」
墓跡の両脇に備えられた花筒に、持参した花を入れてくれた紗織の手をとって立ち上がらせ、二人並んで墓前に立つ。
真一は手を合わせるでもなく、ただ無言でそうしていた。
それで充分だという気がした。
あの5歳の日から遥かな月日を経て、死ぬまで自分と再び邂逅することなく、骨になって地下に眠った父親と自分とは、お互いに生きて再び会うことのない人生が前提だったとしか言えない。
今更、別れの言葉や墓に手を合わせるといった行為は、白々しいにも程があると真一は思った。
遥々東京から墓を訪れ、無言で花を供えることは、二人の最後の別離として相応しいのではないだろうか。
紗織も、真一が考えている事は何となく分かっていたが、
「いいの?」
と一言だけ真一に尋ねた。
「うん」
真一も一言だけ答えると、あっさりと墓前を離れ、紗織の手を取って元来た道を戻って行った。
本堂まで戻ってきた二人は、再び声を掛けて案内してくれた女性に出てきてもらい、案内の礼を述べる。
礼には及ばないと言ってくれた女性に、真一はもう一つ心に残った疑問があったので、思い切って尋ねてみることにした。
「湯川さんは、そこの山の中腹に家があったはずですが、もう上り口も見つからなくて、何かご存知ですか?」
「山に…ですか?」
おや?と真一は意外な反応に驚く。
この寺の女性がいつからここに居るのかは分からないが、還暦手前ぐらいであろうから、それなりの年数ここに居ると思われる。
にもかかわらず、これほど近所にあったはずのあの家を知らないという事は、自分がこの地を離れて間も無く、あの家は無くなったのであろうか?
「いやまあ随分昔の話なので…。そうですか、すると湯川さんは別のところにお住まいだったのですね」
「今の湯川さんのお住まいがどちらか、ご存知ですか?」
真一が話の展開を考えて言葉を選んでいると、紗織がやや無遠慮とも思える率直さで寺の女性に質問をした。
「はい、お葬式もこちらで致しましたので。湯川さんのお宅はすぐそこです。ここの坂を上がってくる所にある、角のお宅です」
教えられた家は、真一がPCのモニター越しに見て「こんな所に家が出来たのか」と言い、先ほど現物も目にして時が過ぎたことを実感した、その建物だった。
何よりその建物こそが、真一が相続放棄をした実父の資産という事だった訳である。
「…そうですか、あれが今の…」
「今そちらには、どなたかお住まいで?」
紗織がそう尋ねたが女性は首を振り、
「いえ、お一人でお住まいでしたので」
「そうでしたか…どなたか身寄りの方はいらっしゃらなかったのでしょうか…」
紗織は真一が昔の家のことを尋ねた際に、余りにも記憶に頼った聞き方をしたため、ともすれば肉親であることが伝わってしまうことを危惧した。
話が周り廻って今の親族から真一が嫌な思いをする事になりかねないと考え、自分が話をすることで、何も詳しいことを知らない単なる知人という立場を演じることにしたのである。
「お姉さんがお一人いらっしゃって、時々ご様子を見に来られていました」
「お姉さんですか…」
真一には実父の姉という人に会った記憶が全くなかったため少し驚いたが、この場では特にそれ以上は尋ねず、色々教えていただき感謝すると伝えて、本堂を後にした。
二人はそのまま、歩いて寺から坂を下り、真一の実父が亡くなるまで暮らしていた場所と分かった家までやってきた。
平屋建てのさほど大きくもない一軒家で、まだ人の暮らしの気配が濃厚にあった。
倉庫を兼ねたガレージに白い軽トラックが停まっており、荷台に土木作業の用具が積まれたままだ。
ガレージ内の荷棚には、様々な釣り用具が入っているのが見える。
決して裕福な暮らしぶりとは見えないが、趣味を楽しみながらの生活が伺える。
実父が不幸とは言えなさそうな生活をしていたらしいことは、奇妙な感情ながら真一を悪い気持ちにはさせなかった。
真一は振り返り、少し周囲を見渡した。
驚くほどに、幼い頃の記憶がありありと重なり、自分が歩いた場所などが思い出される。
「ここに昔は桑の木があってね、ここに居た頃に実をとって食べたんだよ。小さいぶどうって言ってさ。すごく甘くて美味しかった記憶があるなあ」
「桑の実って食べたことないなぁ」
「八王子とか山梨の方で、いっぱいあるみたいだから、今度行ってみようか」
二人はそんな話をしながら川沿いの道を川上へと歩いて行く。
歩いているその道は、真一が幼い頃に歩いた同じ道である。
こうして歩いていると、二人の目の前を幼い真一が歩いて見えるような気がしてくる。
しばらく歩くと十字路があり、角に商店が建っているのが見えた。
酒店が日用品や菓子も販売している、コンビニの無い時代に田舎でよくあった店舗だ。
「ここだよ、貯金箱のお金でお菓子買ったところ」
「わあ、まだあったんだねえ」
どうやらこの集落では、店舗はここきりのようだ。
スーパーマーケットやコンビニは、車で10分以上離れた場所まで行かなければならず、ちょっとした買い物なら、近所の人たちには重宝されている事だろう。
「お父さんとも交流があったかもね。ちょっと聞いてみる」
紗織は真一が返事するよりも早く、店に入って行き、奥に向かって声を掛けた。
返事がして、店の女将さんと思われる年配の女性が出てくる。
幸いにも、真一の父親とは面識があったとのことだった。
遠方から訪ねてきた知人だが、急な事で詳しい事情も分からず、何かご存知かと聞いてみると、
「ほんまに急な事で、ご病気でね。癌やていうことでしたけど」
「癌ですか…」
「ええ、病気にならはって入院しはったんですけど、あっという間で」
「私たちも亡くなったと聞いてびっくりして、せめてお線香でもと思って萬福寺さんをお訪ねしたところなんです」
「そうでしたか、ええ人でしたけどねえ。釣りが好きで、たまに釣れた魚なんか持ってきてくれたりしましたんやけど」
どうやら実父は、それなりに近所付き合いもして、死んだ後に良い人だったと言われる様な生き方はしていたらしい。
それが真一には不思議な感覚だった。
別れ際の母と諍う姿が最後の記憶だったためだろうか、ひょっとしたらろくでなしなのではないかと言う不安もあったのだ。
自分のルーツとなる人間が思ったよりもまともな人間だった事に、多少の安心感を覚えながら、最後に記憶を確かめる様に、
「昔はあの山の所にお宅があったと思いますけど、もう無くなったみたいですね」
と指差しながら聞くと女将さんは、
「そうそう、あの山の上にね。もうずいぶん昔、30年ぐらい前かな、壊して下へ移りはったんです。萬福寺の坂の入り口のとこに」
と、やはり元の家は記憶の通りの場所にあったことを教えてくれたのだった。
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