第10話 墓所

 今夜宿泊するホテルが見えてきた。

 白良浜の間近で、小高い丘の上に位置することもあり、部屋からは白い砂浜がよく見える事だろうと、フィアット500を駐車場へ入れながら真一は考えた。


 荷物を持って、二人でチェックインのためにフロントへ向かおうとすると、係の人が素早くドアの外側までやって来て荷物をカートに載せてくれる。


 真一が礼を述べ、名前とチェックインしたい旨を伝えると、ホテルの係員はちゃんと真一の予約を把握してくれていて、全てお任せをといった表情でフロントへと二人を導き、手続きを済ませてくれた。


 11階の部屋に案内された二人は、入ってすぐ目に飛び込んできた外の景色に思わず声を上げた。

 部屋は12畳程度で調度品も落ち着いた雰囲気だが、窓側がガラス張りの浴室になっており、浴室の窓の向こう側はそのまま水平線まで一面海が広がっていた。

 浴室まで行ってみると、眼下には真っ白な砂浜が広がっており、ロケーションの良さに改めて感激する。


 客室係の説明を失礼ながら半ば上の空で聞き、何かあればフロントまでと言い残して部屋を去る客室係を笑顔で見送った二人は、さっそく長距離移動で強張った体をほぐすべく、ひと風呂浴びたのだった。


「あー」

「うー」


 もはやどちらがどちらを出したのか分からないが、温泉に浸かると出てしまう謎の呻き声をそれぞれに上げ、二人は水平線で溶け合う海と空を眺めながら、しばらく時間を忘れて湯の中でゆらゆらと体を脱力させ、あやうくのぼせてしまいそうになった。


 部屋の温泉は、残念ながら掛け流しではなく加温循環だが、それでも十分に疲れた体を癒してくれた。

 湯から上がってさっぱりした二人は、お茶を飲みながらこの後の予定を確認する。

 夕食をホテルのレストランでとれば、ホテルのランク的にもきっと美味しいのは間違いないと思うが、せっかく遠くまで来たのだから地元のお店に行きたい。

 二人は車を出して、田辺の市街地まで行き、真一の知っている店で食事をする事にした。


 フィアット500で二十分ほど走り、塔の内という地区に店を構える、地元ではよく知られる日本料理店にやって来た二人は、海の幸を食べ尽くす意気込みでメニュー隅々まで眺めてあれこれ注文し、鰹やガシラ(カサゴ)、それにウツボなどの地魚の驚くほどの美味さに、やはり繰り出して正解だったと大満足で膨れたお腹を抱えて宿に帰ったのだった。


「あ〜おいしかった!」


 部屋に戻ってからも、紗織は料理を思い出してはそう繰り返し、にやける顔を止められない。


「あんな美味しいものいっぱいあるのに、なんで今まで連れてきてくれなかったの!」

「地元の人間には珍しく無いからねえ」

「もったいなすぎるよ〜」

「まあ確かに久しぶりに食べたら、めちゃくちゃ美味しかったな」


 実際、長く東京で暮らしていて、色々な飲食店で食事はしてきたが、今夜の料理はそのどれよりも美味しかったのは事実だ。


 これが故郷の味という事だろうか。

 真一自身は望郷の気持ちなど感じた事もなかったつもりだが、どこか無意識下で生まれ故郷というものは、やはり特別なものがあるのだろう。

 とは言え、紗織は真一以上に喜んでいたので、これはどういう補正と言えば良いのか?

 真一は部屋のソファにゆったり腰掛けながら紗織が淹れてくれたお茶を飲み、そんな事を考えていた。


「さてと、明日の午前中は萬福寺に行かないとね」

「そうだね、真一さんのお父さんのお供えも持っていきたい」

「お供えかあ、ぜんぜん頭になかったな」

「お花だけでもね」


 二人はざっくりとした予定を確認すると、ようやく落ち着いてきた満腹感に幸せな余韻を感じつつ、本日二度目の温泉を満喫したのだった。


 外が見えるように、浴室の灯りは消してある。

 湯船から見える海は昼間の青く広い海とは違い、どこまでも続く液体化した闇だ。

 その黒い液体に、遠く漁火がチラチラと輝いている。

 黒さが際立ったのは月が雲間に隠れていたからのようで、月が雲間から現れると途端に柔らかい光に薄く覆われて、ゆらめく銀色に姿を変えた。

 

「ドビュッシーのほうの月あかりだな」

「うん?」

「月の光で見える風景が優しいからさ、ヴェートーベンの方とは違うなって」

「ああ、月光かあ。確かにね」


 明日、おそらく対面するであろう真一の実父が眠る墓石も、いま同じ月の光に照らされているのだろう。

 その墓石の前に立った時、どんな感情が胸を去来するのか。

 真一は紗織と湯に浸かって話しながら、意外なほどに静かな胸の内を、他人事のように眺めていた。


 翌朝、ホテルのブュッフェで美味しい朝食を堪能した二人は、雲ひとつなく晴れた今日の空と同じ色をしたフィアット500に乗り込み、この旅の目的地の一つを目指した。


 ホテルを出て、少し遠回りになるが坂道を左手に下ると、正面に白い砂浜とターコイズのような青い海が見えてきた。

 さんざんホテルの部屋から眺めた白良浜だが、間近で見るとまた一味違う。

 すぐに丁字路を右側に折れ岬の反対側に出ると、左手に穏やかな田辺湾を見ながら海沿いの道を東へ向かう。

 すると外を眺めていた紗織が、


「何あのお城みたいなの」


 と、初めてこの辺りに来た人間が必ず気になってしまう建物を見つけ、例外なく紗織も目を奪われる。


「ホテル川久。めちゃくちゃ建物豪華だよ」

「コンセプトがよく分からないけど、すごそうだね」

「昔は経営難で何度かオーナー会社変わってたけど、今はバイキング方式のディナーが人気で繁盛してるらしい」

「でも、お高いんでしょう?」

「それが今泊まってるホテルと変わらん」

「へええ意外。行ってみたいかも」


 二人でそんな他愛もない話をしながらフィアット500を走らせ、まださほど暑く無い時間帯なので窓を開けて風を浴びながら、白浜町から田辺市へと進んで行き、当地で最も親しまれている山である高尾山に近づいていく。


 この標高700メートル弱の山は、東京の高尾山とは違って「たかおやま」と読む。

 真一はどちらの山にも登ったことがあるが、田辺の高尾山の方が海に近い分、標高差を感じられるのが大きな違いだ。


 道端の道の駅のような産直販売所で供物の花を買い、右手に高尾山を見ながら奇岩のひしめく谷あいの道路を縫うように山手に入っていくと、真一が短い期間を過ごした実父の故郷に辿り着いた。


 川の流れる狭い谷の間に僅かな開けた土地のある、山間の集落と呼ぶに相応しい風景がそこにはあった。


 真一は東京の自室でPC越しに見た、嘗て暮らした家に繋がる道のあった場所を発見し、フィアット500を停めて車内から薮と言うより山に戻った坂道跡を眺めた。

 萬福寺に向かう舗装された坂道の脇に、微かな痕跡があるように見える。


「ここがそうなんだね」

「うん、間違いない。でもここから登れそうに無いね。よし、お寺に行ってみよう」


 真一は寺に続く坂道を見上げて再びフィアット500を動かし始める。

 坂の上り口の右手にはPCのモニター越しに見た通り、かつては無かった平屋建ての家屋があり、自分が居た記憶の中の場所とは違うことを改めて認識させる。


 寺の本堂の前に車を停めた二人は、社務所も兼ねているらしい住職の住居を訪い声を掛けてみた。

 するとしばらくして、奥から年配の女性が姿を現し、二人に愛想良く用件を尋ねた。


「先日電話で湯川さんの事をお尋ねした者です」

「ああ、あの時の方。ええとお墓の場所でしたね?」

「はい、お手数お掛け致しますが」

「どうぞ、ご案内致します」


 どうやら住職の妻らしい女性は、さっそく二人を本堂の裏手にある斜面を利用した墓地へと連れて行ってくれた。

 急な坂道を紗織の手を取りながら、真一は女性について行く。

 しばらく登ると一つの墓石の前で立ち止まり、


「こちらが湯川さんのお墓です」


 と手のひらで二人に指し示した。

 あっけなく目の前に現れた実の父親の眠る墓所であったが、真一の感情を揺り動かすものはやはり無かった。


「ありがとうごさいます」


 二人は揃って礼を述べ、何かあれば本堂に居るので声を掛けて欲しいと言って去る女性に再び頭を下げ、改めて墓と向き合った。

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