百二十一 夢のあとで


 聞いたことのない悲鳴が耳に刺さってオウリは我に返った。瞳に色が戻る。


「カナシャ!」


 背に矢を生やしたナルカがゆっくりと傾いで海に落ちていく。引きずられてカナシャも。

 カナシャの左手は、ナルカの胸に矢で縫いとめられていた。オウリが射た矢だ。ナルカの胸を拒んでいた手が、背からの矢に射通されたのだった。

 同時にオウリも馬からよろめき落ちた。手綱を離し弓を持ったのだから仕方ない。騎射など初めてなのだ。海に受けとめられ大した衝撃にはならなかったが、立ち上がると腰ほどにかぶる波に押された。


「カナシャ!」


 波間に沈んだ人の名を呼んだが、オウリより早くスサの馬が潮を蹴立てていった。

 近くに飛び降りたスサは小刀を抜くと海中でカナシャの腕を探りあて、ナルカとの間の矢軸を叩き斬った。少女の身体を引き揚げ、首を探る。脈はある。

 波をわけて来たオウリにグッショリと重いカナシャを渡すと、スサはやはり淡々と言った。


「まだ。真水で洗ってからだ」


 カナシャの手のひらを貫く自分の矢に、オウリは蒼白になった。





 海はまだ冬の波に満ちている。ずぶ濡れになったオウリとスサは、カナシャを抱え近くの村に駆け込んだ。頑健な男二人もさすがに唇が青い。あと一人の波に沈んだ男ナルカは、引き揚げたがすでに事切れていた。

 カナシャはオウリに抱かれ運ばれているうちに一時意識を取り戻したが、オウリの腕に安心したように微笑みすぐに眠ってしまった。まだ手に矢が刺さったままだというのに――いや、だからなのか。痛みのせいなのか疲労なのかわからないが、目を開けないカナシャにオウリは自分を責めずにいられなかった。

 矢軸を引き抜いて手当する時にも眠ったままで苦し気にうめいたカナシャの声が、耳から離れない。



 我を忘れた。ただあの男を憎んだ。カナシャの唇を奪った男。

 だから後先考えず力任せに射貫いた。カナシャを巻き込むとまで考えなかった。少しずれていたらカナシャをも殺していたかもしれない。



 生き残り捕らえられたカダルの者の話では、あれはナルカ本人なのだという。何故かクチサキを手に入れることにこだわり、カナシャとずっと何か話していたそうだ。そこで何があったのか、ナルカが死んだ今、カナシャが話すのを待つしかないが――話してくれるだろうか。

 村の女性にカナシャの着替えを頼み自分も暖かくして人心地ついたはずなのに、オウリの顔色は白いままだった。




 その日はもう暮れてしまい身動きがとれない。報告だの後始末だのは明日回しにして全員とにかく休むことにした。突然大勢を迎えることになった村の家々は大わらわだったが、その中でオウリは眠り続けるカナシャのそばにいることを選び、一室を貸してもらっていた。


 カナシャは夜中に暗闇で目を覚ました。自分がどうしているのかわからずに身じろぎして、走った痛みに吐息を震えさせた。体中あちこちが軋む。特に左手がズキズキした。


「カナシャ?」


 すぐ脇でオウリの声がした。身を起こすのが薄っすらと見え、カナシャの心はゆるんだ。ああ。私は、戻れたんだ。


「オウリ……」


 かすれ声で呼ばれてオウリは安心したが苦しくもなった。こんなに辛い目にあわせてしまって。なるべく安心させるよう、小声で柔らかくささやいた。


「日が暮れたんで近くの村にお世話になってる。明日は家に帰ろう、テイネさんに傷を診てもらわなきゃ――ごめんな。おまえを守れなかったうえに、傷つけた」

「な……に、が?」


 絞り出すように謝られたが、カナシャには何の事かわからなかった。手が痛いとは思うが、射られたなどとは知らないのだった。

 痛みは覚えている。重い衝撃も。手の甲に何かが刺さっていたような気もするが――それよりもその直前にナルカにされたことを思い出してカナシャの呼吸がとまった。

 どうしよう。私。


「おまえの手を射たのは、俺だ」


 暗闇にオウリは頭を下げた。カナシャには見えないとわかっていても身体が動く。

 情けなかった。嫉妬に狂ったあげく射貫いたなど、ナルカとの間に何があったとしてもそれで苦しんだのはカナシャの方だろうに。

 だがカナシャも会わせる顔がない。暗闇でよかったと思った。自分の勝手な判断でナルカの手に落ちたのだ。そしてオウリにしか許してはならないことを、された。カナシャは泣きそうになるのを必死に堪えた。


「オウリは、悪くない。私がいけないの」

「おまえは拐われただけだろう?」

「で、も……」


 カナシャは迷うようだった。そして尋ねる。


「――あの人は?」


 カナシャがナルカを気にしただけでオウリはピリ、となった。

 あの男は何故カナシャを連れて死のうとしたのか。見せつけるようにカナシャに不埒な真似を働いたのか。

 だがそれでもオウリよりマシか。矢傷を負わせたりはしていないのだから。オウリは自嘲を抑え込んで静かに告げた。


「――死んだ。あいつを射た時に、おまえの手まで矢が通ったんだ」

「……そう」


 その報せに安堵してしまい、カナシャは自己嫌悪に陥った。人の死でホッとするなんて。

 だけど怖かったのだ、とても。ナルカの心は暗くて濃くて、悲しくて。思い出してカナシャは身震いする。

 そのカナシャの揺らぎはオウリにも伝わった。たぶんとても辛いことがあったのだろう。

 オウリは手探りでカナシャに触れた。もう大丈夫だと労いたかった。肩を見つけ、頭を撫で、髪が潮にきしんでいて可哀想になる。拭いてやるだけで精一杯だったから。


「朝まで眠れ。隣にいるから」


 頬をそっとなぞるオウリに吐息が和らいだカナシャだったが、親指を唇に置かれてビクリと身を硬くした。もちろんそれはオウリにもわかった。


「――もういいんだ。もう平気だから、まずは休んでくれ」


 には触れずに、オウリは手のひらでカナシャのまぶたを閉じさせた。





 朝が来てもカナシャはぼうっと怠そうにしていた。だがもう少し休ませてもらうかと訊くオウリに首を振り、うつむいたまま服の裾を掴む。幼子のような様子に困惑したが、そう望むならと馬に二人乗りで帰ることにする。

 出立の時カナシャが当たり前に横座りし、オウリはチクリと胸に痛みをおぼえた。ナルカにこうして運ばれていたのだろう。

 いったい何があったのか、何を話したのか、何をされたのか。

 時を置いてからでもいい、カナシャが教えてくれるといいのだが。



 スサは南にいるイハヤの元に取って返した。カダルの人々――生きている者も死んだ者も連れて、だ。

 エンラは馬でオウリとカナシャに付き添った。その後はツキハヤへの報告に向かうという。ナルカの死によってもう、カナシャが狙われることはなくなった。今後はカダルも落ち着いていくだろう。あとは族長同士、きっちり落とし前をつけてもらいたいものだ。



 だが上でどんな話がなされようとも、オウリとしては納得しようがない事態になった。

 カナシャがオウリを拒んだのだ。


 

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