百十九 海へ


 ナルカの中に暗く渦を巻く思念に抗ってカナシャは花石を握った。これは自分を清明な世界につないでくれるよすがだ。


「俺が弱いだと」


 少女の髪を掴み頭を上げさせたままナルカは嗤った。噛みつきそうに顔を寄せる。しかし目の前にあるカナシャの見開かれた瞳が何も映していないことにナルカは震えそうになった。気色悪い。カナシャは抑揚も平板に応えた。


「そうよ」


 カナシャは夜の海のようなナルカの心にもぐっていく。容赦なく。ナルカがおそらく自分にすらひた隠している淵の底の底へと。


「あなたは言えない。ほしいものをほしいと。好きなものを好きだと。伝えて拒絶されるのが怖いから」

「黙れ」

「――どうして自分は弟なのか。対等じゃないのか。自分のどこが劣るのか。自分にもできるのに。だが口に出したらきっと困ったように肩を叩かれる。これは俺がするべきことだ、おまえは気にするなと」


 まるで男のような口調でカナシャはボソボソと告げる。ナルカの肚の内が奇妙にざわめいた。何かの蟲が這いまわるかのようだ。


「――何故俺を守る。俺が弱いからか下に見ているのか。俺はもう強い俺はおまえの隣に並んで歩けるおまえと共に行くこともできる俺はおまえが――」

「黙れ!」


 ナルカは低く叫んでカナシャを地面に突き飛ばした。叩きつけられて、カナシャは昏倒した。




「ぐ……えっ」


 唐突にひどい吐き気をもよおしオウリは身を折り曲げた。何と強い憎しみ――と執着。


「おい!」


 並ぶエンラが気遣わし気にするのを片手をあげて制する。これはオウリ自身の不調ではないのだ。カナシャと、カナシャが触れた誰かの心。オウリは握っていた帯から手を離して深呼吸した。それですぐ回復する。


「カナシャが、まずい」

「何だと」


 離れてつながっていただけのオウリがこのざまなのだ。本人はいったいどうなっているのか。


「オウリ、馬で先に行け」

「――いや」


 一人で近づいたとしても、おそらく相手は複数だ。多勢に無勢でカナシャを取り戻せるのか。エンラ達がいた方がいいのは確実だった。


「そりゃそうだろうが……こんな時でも冷静だな」


 オウリは黙って首を振った。冷静なわけがない。ぶっちゃければ一人で走っていきたい。だが何かがオウリを押し留めたのだ。大丈夫だと。たぶんそれは、いつもカナシャを取り巻いているというなのだろう。


「だが、急いでもいいか? ――さすがに怖い」


 珍しくもらした泣き言に、エンラは目を丸くした。これは危急の事態なのだろうと、その表情を見てわかった。

 うなずくと、彼らはやや速度を上げて歩き出す。歩くというより、もうほとんど小走りだった。海の方へ、とオウリは示した。そちらでカナシャが呼んでいるような気がした。




 カナシャを失神させてしまい、ナルカは呆然とした。

 ついカッとなった。この小娘が心を暴くような真似をするから。いや、暴かれたのだろうか。俺は真実そう思っていたか。あれが俺の本心か。


「動かしてはいけません!」


 乱暴にカナシャの襟首を掴み上げかけたナルカを、サミルが止めた。頭を打ったかもしれない少女を揺さぶるなどして、死なせてしまったらどうするのだ。わざわざ本物のクチサキを手に入れるために危険をおかしたというのに、骨折り損になってしまう。サミルはバイヤの町の大商人、落人の身となっても損は嫌いだ。

 そっと仰向けに寝かせたカナシャの様子を窺う。実際カナシャの意識がないのは精神的な負担によるものが半分なのであり、ナルカの暴力だけが原因ではない。

 少女の呼吸は正常のように思えた。サミルはひとまず安堵する。


「どうされましたナルカ様。こんな年端もいかぬ娘に……それともやはり、怪しい技でも使う者なのですか」

「――うむ。まあ、な」


 ナルカもなんとか自分を取り戻していた。本当に気味が悪い、身体の内を無理やりゴソゴソと掻きまわされるような感触だったのだ。静かに深く呼吸をして、やっと人心地がついた。

 それにしてもしくじった。これでは馬に乗せるのは危険だろうか。気を失っていようとナルカが抱えて支えるぐらいできそうだが、殺してしまっては困る。


「荷車に寝かせましょう。少し進みが遅れますが……もうすぐ海に出るはずですな。それともこの村に泊まれるよう交渉いたしますか」

「まだ日が高い。少しでも進んでおかねば――この娘もそのうち目覚めるだろう」

「ではもう少し先まで」


 荷車にカナシャを寝かせるだけの場所を空け、そこに横たえる。歩き出せばすぐに海に沿う街道に入った。

 馬は人に任せて荷車の脇を歩きながらナルカは考えていた。カナシャに言われたことを、だ。

 自分は弱いのだろうか。いや、こんな小娘に知ったような口をきかれて揺らいではならない。だが。


 兄、マカト。幼い頃はくっついて歩いていたように思う。そうだ、でないと誰かしらに意地悪をされるのだった。兄のそばにいればそんなことはなく立場が強いというのは大事なことなのだと思い知らされた。力も必要だ何かをされてもやり返すことができれば人はこちらに従う。長じるにつれ膂力をつけ武芸にも励み歯向かう者はなくなりそれでも上にいるのは長となった兄だけだった兄だけは俺のことを可愛い困った弟として扱おうとするのは何故だ俺をいつまでそんな目で見る揶揄やゆするようにあしらうように母の土地に近い場所に置いておけば不満はないだろうと言わんばかりに北に押し込み兄の中で俺はいつまでひがんだ小童こわっぱなのだ。

 俺は、そんなに頼りないか、兄よ。


 気がつけば、目を開けたカナシャがナルカの袖をクイと掴んでいた。いとけない、穏やかな瞳。カナシャはただの少女に戻っていた。

 もう海が近い。林を越えてかすかに潮が香った。

 遠く近く、揺れるように響くのは波。

 カナシャはまだかすれるような声で、ささやいた。ゆっくりと。


「あなたが知りたいのは、カダルの民や島の実りのこと、なんかじゃ、ない。自分の、いのちの行くすえ。自分が、このいのちにあたいする者だという、あかし」

「おまえ――」


 言葉をなくしたナルカの前で、ザッと男達が動いた。行く先から馬の駆ける音がする――先? 追手ではなく?

 ナルカはハッと顔を上げ道の向こうを見透かそうとした。カナシャの言葉が心をとらえ頭が鈍るが、そんな場合ではない。


「スサさん――」


 何とか身を起こしたカナシャが息だけで呟いた。ナルカにさえ聞き取れない。

 まだ姿は見えていないのだが、カナシャにはわかった。エダに行っていたスサが馬を駆って戻ってきている。まさか、こんな所で行き合うなんて。


「一人では、だめ――」


 カナシャの息が震えた。ここにはナルカ以下、七人の男がいた。スサが強いのは知っているけれど、さすがに敵わないと思う。青ざめたカナシャは慌ててオウリを探り――呼吸が止まりそうになった。

 思ったよりも近くに、オウリの気配が追いついていた。



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