百十八 対峙


 名も知らぬ小さな村の御杜。その隅にむしろを敷き、カナシャは倒れていた。傍らにはナルカだけがおり、他の男達は遠巻きに、それぞれ休んでいる。


「あまり時はやれん。少ししたら行くぞ」

「……どこに行くんですか」


 まだクラクラしながらカナシャは尋ねた。

 こうして止まっている間にも、オウリが近づいているはずだ。まだ追いつくほどの所にはいないようだが、正しくついて来ているのか気がかりだった。


「海に出る」

「え……!」


 事もなげに言われてカナシャは息を飲んだ。馬なのだからずっと陸路だと思っていた。戸惑う様子にナルカがニヤと笑う。


「海沿いにな。もっと南だが、船が用意してある」

「船――」


 ますますカナシャは青ざめた。連れ去られる不安、のようにナルカには見えただろうが、これは実は船酔いの恐怖だった。今でもこんなにフラフラなのに、さらに船になど乗せられたら死んでしまうのではないか。


「私、船は、無理」


 いちおう言ってみる。考えただけで吐き気がしそうだった。


「何が無理だ。海が怖いのか」

「前に酔ったから。今だってもう気持ち悪いのに」


 小さな声で訴えるカナシャをまじまじと見て、ナルカは可笑しそうにした。


「馬だけじゃなく船も駄目なのか。何とも幼いのだな」

「おさな――それ関係ありますか」

「おお、子どもの方が酔うものだ。身体が未熟ということだろうよ」


 憐れむように眺められて腹が立つが、実際倒れているのだから言い返せない。だが酔いを別にしても、船に乗るわけにはいかなかった。それではオウリが追って来られない。

 ――その方が、闘いにならずに済むからいいのだろうか。でもそうするとカナシャが帰れるのはいつになるだろう。このままナルカのものにされてしまったら。

 考えると涙が出そうで、カナシャは手で顔をおおった。悔しい。悔しい。どうして私はこんなに役立たずなの。


「辛ければ眠ってしまえ。おまえぐらいなら俺が運んで行ける」


 その言葉で以前オウリに言われたのを思い出した。「おまえなんか小脇に抱えて拐われるぞ」と。まさか本当にそうなるだなんて。

 カナシャはナルカの言葉にピクリともせず、オウリの気配を探した。ここは御杜だ。お願いみんな、あの人のことを教えて。

 カナシャの心は風に飛ぶ。土を這う。島を駆け抜ける。オウリを求めて。




 オウリは一心に歩いていた。話もせず、休むこともなく、早足で。

 何か思い詰めているように見えるのはカナシャの気配を捉えようとしているからだった。隣でエンラ達も邪魔をしないように黙々とついていく。

 そのオウリがいきなりクン、と頭を上げた。


「どうした」


 エンラは低く尋ねた。オウリの表情が歪んでいる。


「カナシャが呼んだ」

「……聞こえなかったぞ」

「声じゃない」


 じゃあ何だ、とエンラは少しげんなりした。オウリまで妙な力を使うのか。


「いや、俺はあいつの事しかわからん」


 オウリは足を止めずに呟いた。


「……で、どうだ」

「辛そうだ。動けなくなってる」

「怪我か」

「……いや。何だろう」


 馬に酔い、ナルカの情念にあてられたとまではオウリにはわからなかった。

 まさかナルカ本人が来ているとも思っていないのだ。配下の誰かが命じられてやったことならば、カナシャは丁重に扱われていると期待していた。なのに動けないとはどうしたことだろうか。

 オウリは腹の帯に手をやった。カナシャが心配でならなかった。




 そのオウリの心はカナシャに真っ直ぐに伝わった。気づかいが流れ込んできてホッとし、少し気分が持ち直す。

 一人で座れるようにしゃんとしないと。ナルカに抱えられたらどんどん具合が悪くなりそうな気がした。

 オウリの隣にエンラがいるのもわかった。他の人達も。そして、馬を連れている。ああ、あの馬で駆けてきてくれたら追いつくだろうか。船に乗せられる前に。


「……おい、本当に眠ったか」


 小声で問いながら肩に手を置かれ、カナシャはビクッと跳ね起きた。でも心が急に戻らない。


「……起き……てる」

「寝ぼけているな」


 ナルカは面白そうだ。いや、実は心底楽しい。久しぶりに素直に笑った気がした。

 カナシャの不思議な力は認めざるを得ないのだが、そうでない時の小娘ぶりはおちょくり甲斐があるのだった。落差がひどすぎて。

 起き上がったカナシャは手をついて身体を支えた。そして再びオウリに

 ――海へ。

 この気持ちは届いてほしい。カナシャは御杜に祈った。


「起きられるなら行くぞ」

「――私を連れて行って、どうするの?」


 ナルカが腕を掴み引き起こそうとする。だがカナシャは立ち上がらずに言ってみた。少しでも時を稼ぎたい。


「あなたはもう、勝とうとしていないのに」


 静かに口にした言葉にナルカの動きが止まった。じっとカナシャを見つめる。掴まれた腕に力がこもって痛かったがカナシャは耐えた。掴む手から、何かを求める心が流れてくる気がした。


「俺が負けたと言うのか」

「負けたのかどうかは知らない。勝たなくていいんでしょ?」

「俺はまだ終わっていない。ここから勝つために、おまえの力がほしいのだ。おまえのように先見さきみや遠見を使う者を民は崇める」


 そうだろうか。カダルの民のことはカナシャにはわからなかった。ありがとう、と言われたことならパジでもあるが、崇め奉られる力かというとそれは違うとカナシャは思う。

 それにナルカが本当に求めているのはそんなことではなかった。もっとナルカ一人の奥底に眠る何かを、そう、救ってほしがっていると感じるのだった。

 このナルカの想いをすくい上げることができれば。何かしらを思い切ってもらえれば、闘うことなくカナシャを解放してくれるのでは。そう期待しながらカナシャは男と対峙した。


「あなたが勝ちたい相手は、お兄さんね」

「……そうだ」

「勝って、殺すの」

「……そう、だ。でなければ俺が殺される」

「殺したいの」


 ナルカは凶悪な顔でカナシャを睨んだ。腕にも力が入る。さすがにうめいたカナシャをポイと放し、ナルカはカナシャの前にしゃがんだ。


「そうだ。マカトは俺が殺す」

「どうして。大好きなのに」


 震えを抑えてカナシャは言いつのる。ナルカの視線に殺意が満ちた。配下の目がなければ首に手を掛けていたかもしれない。

 俺がマカトを好きだと。くだらぬことを、この小娘は。


「マカトは邪魔だ。目ざわりなんだ。いつも俺の上にいて前にいて、俺を――」


 庇ってくる。他所者の血を引くと蔑む者らから守ろうとする。自分の弟である、と引き立てる。なんたる傲慢。

 そんなに俺は、か弱いか。兄の後ろに隠れなければならないほどに。

 そんなことはない、マカトこそ俺の前にひざまずけばいいのだ。あの男は俺に頼らなければならない。進退窮まり助けてくれと乞い願え。そうしたら、俺は。


 ナルカは手をやってカナシャの後ろ髪をグイと引いた。カナシャのあごが上がる。

 凶暴な色を浮かべる男の瞳を見据えながら、カナシャの表情は人形のように動かなかった。


「そう、あなたは強い。人から頭を下げられるのがふさわしい。だけど、あなたは弱い」


 探る心に淀む、おりに呑まれないようカナシャは必死だった。




 

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