百六 出会い頭
ちくちくちくちく。
集中して針仕事に精を出す娘フクラを、ツォウは板間の反対側からジトッと睨んでいた。もう昼を過ぎている。休憩を終えて妻の屋台を手伝いに出る頃合いだった。だがツォウは娘のことが気になって落ち着かない。
通りで見かけた、あの商会の男との親しげな様子。ただ一人手元に残った末娘もそろそろ、そういう時期か。
あれから三日経つ。逢い引きしている風もないが、自分が仕事に出ている早朝から昼までのことはわからなかった。ツォウはその後、妻の所へも行っている。フクラは親の目がない隙に愛を育んでいたりするのだろうか。
そう考えて、ツォウはギリギリと歯噛みした。筋肉の置き物のような男がそうしていると慣れているフクラもさすがに気になった。
「どうしたの、父さん」
「――何でも! ない!」
ふごごご、と鼻息荒くツォウは立ち上がった。どう見ても何でもなくない。
しかしこの様子を見るに、突っついてもやぶ蛇だ。面倒くさい事になるのはわかっているので、何かしら言われるまでは放っておこうとフクラは思った。どうせもう父は出掛ける時間なのだし。
知らんぷりする娘から目を逸らし、ツォウはノシノシと出ていった。
思い悩みつつ歩いていくツォウだったが、端から見ると誰かを威嚇しているようにしか思えない。人々がそっと道を空けた。とにかく顔が恐いのだ。
ぐるぐる巡る思考は上の子ども達の事にも及んだ。生き方にうるさく口出ししたために飛び出していった息子。好いた男を気に入らないと言ったら駆け落ちしていった娘。
そんなに俺がいけなかったのか。だがあの時は、子らと争ったその内容よりもツォウの発する圧が駄目だったのかもしれない。
しかし周囲を威圧しながら行くと、少し先の道端に当の男がしゃがみこんでいるのを見つけてしまった。何かを食べているようだ。シンは商会の前だけでなく、どこの路上でもそうするのだった。フクラが見たら背中をひっぱたくに違いない。
ツォウもその様子に不機嫌になった。姿勢が悪いとかそんなことではなく、単純に娘と親しい男だというだけでシンのことが気に入らない。振る舞いなど実はどうでもよく、そこにいたから腹が立つ、それだけだ。
「おい」
気がつけばツォウは、しゃがむシンの前にズイと仁王立ちしていた。
見下ろす顔と身体から季節外れの陽炎が見えた、と居合わせた者が後に語っている。今は
「あん?」
だがシンは何でもない顔でツォウを見上げた。こちらも常に愛想が悪いし態度も良くない。こんな二人が目を合わせただけで周囲から人が波のように引いた。
「ああ……フクラの父さんじゃねえか」
さすがにツォウの顔ぐらいは認識していたようだ。見下ろすんじゃねえ、と喧嘩を売ることをせずに立ち上がったのは偉かった。しかし娘を呼び捨てにされたツォウは、それだけで喧嘩を売られたように感じていた。
「フクラ、だと!」
「はん? あいつはフクラだろ?」
名前を間違って覚えていたのかとシンはさすがに首をひねった。他の誰かならば偽名で
「おまえ! ウチの娘とどういう関係だ!」
「なんだとコラァ!」
怒鳴りつけられてシンは意味もなく怒鳴り返した。これはもう、反射だ。どうしようもない。
会話にもなっていないのだが、お互い荒くれた世界で生きてきたので雰囲気が喧嘩腰なら乗っかるしかないのだ。行動原理は似ている二人だった。
「なんだじゃ、ねえ!」
問答無用。
飛びかかるツォウがシンの襟首を掴んで締め上げようとする。軽く一歩、シンは退いた。
シンの目が凶悪にすがめられる。
体格ではシンが負けそうに見えた。
ゆらりと力を抜いて相手を見、感じる。
初撃を避けられたツォウが殴りかかった。またそれをいなし、シンが腕を取る。同時に脚を払った。
ズン、とツォウの背が地面についた。
「――船乗りの足腰なめんじゃねえぞ」
すぐにツォウを放して再び戦闘態勢をとりながら、シンは煽った。
身体はよほど細いが、しなやかさと素早さならこちらに分がある。拳を食らわなければいい。
「おまえ、商会のモンだろうが」
身体を起こしたツォウが低く言った。背中に土がつくなど、いつ以来だろう。商人達もそれなりに荒っぽいものだが、船乗りを名乗るこの男は侮れない。
「おれは船と通訳と荒事を受け持ってんだ」
「なに」
ツォウはユラリと立ち上がる。そこに先手を仕掛けていかないシンの自制心は、カフランが見たらしみじみ成長を祝ったことだろう。フクラの親ということでかなり遠慮しているのだった。
「船と通訳だと?」
立ったツォウに隙はないが、こちらも仕掛けずに話し始める。互いに警戒しつつも会話になったことで、このまま終われと遠巻きにしている周囲は祈った。
「俺は元は海の民だ」
「……ふん」
どうりで、やるな。ツォウはそう思ったが口にはしなかった。褒めてなどやるものか。
「おまえ、ウチの娘に何をした」
「はん?」
シンは考えながら、ピリ、と相手の出方をうかがう。話しかけながら隙を探られているだろうから。
「あー、瘧の時には迷惑かけて、悪かった」
「ふん、あれはおまえか」
「知らねえのかよ」
ジリジリと窺い合いながらの世間話。やめろ、と囲む誰もが心に叫んだ。
「おまえなど、知らん!」
ダン、とツォウが踏み込む。
脇をしめた姿勢。左右に叩き込む鋭い拳。
そんなものシンはヒョヒョイと避けたが、ツォウの動きは囮だ。流れるように脚を取りにいく。
巨体に似合わぬ素早さ。だがシンは避けた足取りのままに跳んだ。ツォウの肩を踏んで後ろを取る。
そこで自然に帯に呑んだ小刀に手がいく。だが相手が誰なのかを思い出し、止めた。
振り向いてそれを確認したツォウは、ぐぬ、とうなった。こいつ。
「……おまえ、名前は」
「はん? シンだけど」
ツォウは凶悪な顔のままうなずいた。
「そうか、わかった……娘を頼む」
「お? おう」
不審な顔で応えたシンだったが、たぶん意味はわかっていない。だが、固唾を飲んでいた観客からは、どよめきが起こったのだった。
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