百四 人生


「あんたの父親も綺麗な顔をしてた」


 唐突にほとんど聞いた覚えのない父親のことを呟かれてズミは眉をひそめた。どうしたんだろう、この女。


「とにかく綺麗で素敵だった。子どもでもできればあたしのものになるかと思ったけど、逃げやがったわ」

「当たり前でしょ。売女の産む子の父親なんか、誰とも知れないんだからさ」

「親に向かって売女だなんて、よく言えたもんね」


 キッとするが視線はろくにズミを捉えていない。やや朦朧としているのかもしれなかった。

 だとすれば、これは死にゆく女の繰り言なのか。腹に溜め込んでいた恨み言なのか。そんな泥のような言葉、どうして聞かなきゃならないんだ。


「だってあんたの顔を見ればわかるでしょうよ。あたしとあの人にそっくりだもの。だからあたしはあんたが好きなの。あたしを捨てた人だけどあんたが好きなの」


 言いながら片手を伸ばしてグイと腕を掴まれた。ズミを見ているようでその向こうの別人を睨む視線は、痛々しい執着に満ちている。若く元気だった頃には隠していたのだろうその毒に呪われそうな気分になって、ズミは母の手を強く握った。


「母さん。僕はその男じゃない」


 記憶にある限り初めて、ズミはこの女を母と呼んだ。それに気づいたか、それとも我に返っただけか、女の目が見開かれた。

 その手を腕からはがし、掛け布の中に戻す。この人に触れるのもこれが最後かもしれないけれど。ズミは扉まで後退った。

 この女が死ぬ時には傍らにいたりしない、とズミは決めた。死なれたらホッとしてしまいそうだから。それが人としてどうこうというのではなく、そんな風に何かの感慨を刻みつけられたくないのだ。

 だからもう今、別れを告げておくことにする。


「じゃあね、母さん」


 血縁などどうでもいいというのなら、この女を母として死なせてやってもいいのだ。母だろうと、それを否定しようと、この女がこういう人なのは変わらない。そしてズミとどう関わろうと、間もなく死ぬ。

 母と呼ばれた女はフワリと凄絶な笑みを浮かべて言った。


「さよなら、可愛いあたしの坊や」


 ズミはひどく突き放した目でそれを眺めると、静かに部屋を出た。

 最後の最後まで、くそ腹の立つ女だった。



 日暮れる町をズミは意識して静かに歩いた。振る舞いに苛立ちを乗せるなど、みっともない。

 やるせなさは、それこそ女にぶつけることもできる。でも乱暴になどしない。優しく優しく可愛がってやる。そんなやり方だって教え込まれた。女を従わせるのなら力ではなく技で支配すればいい。だが、それもしなかった。空虚だった。


 宿に向かいながら、屋台が並ぶ雑踏の中にオウリの姿をみとめた。若い夫婦者と楽しげに話し込んでいる。

 あれも大概妙な男だと思う。だがパジに来た頃と比べるとずいぶん普通になった。

 女を愛したからなのか、人の心を知ったからなのか。ならばズミも、ファイという生き物を人に育て上げれば、人になるのだろうか。


「お、ズミ」


 オウリが気づいて片手を上げてくる。平静を装ってズミが近づくと、ヒョイと肉の串を渡された。


「何?」

「鹿だ」


 そうじゃなくて。


「いただいて、いいの?」

「ああ。知り合いの店なんだ。連れの分も持っていけって渡されたから、ちょうどよかった」

「ああ……僕ら、連れだったね」


 タオに来た用事に関連がなさすぎて、今の気分にも差がありすぎるような気がして、連れと思えなくなっていた。


「まあ一応、な。食って元気出せよ」


 オウリは素知らぬ顔で言った。前髪で隠しているのに元気なく見えたのか。ズミはスイと髪を払い、いつものように皮肉に笑ってみせた。


「オウリなんかに気をつかわれるなんて、不本意だよ」

「やだちょっと!」


 食いついたのは屋台の夫婦の女の方――アヤルから逃げてここに流れ着いた女、メイカだ。ズミの美しい微笑みに惚れ惚れと見入る。


「やだぁ……何このお兄さん、美形にもほどがある。女が尻尾まいて逃げ出すわあ」

「おぉい、メイカよぅ……」


 情けない声で抗議したのは夫たるラオだ。うっとりとしている妻に、肉を焼きながら涙目を向ける。


「顔がよくたって仕方ねえんだぞ。おまえのために金稼いでんのは俺なんだからな」

「あら、あたしだって一緒に稼いでるのよ。もっといい男がいれば乗りかえるって、いつも言ってるじゃない」

「おまえホントひでえな!」


 明け透けな夫婦の会話にズミはクスクスと笑った。ついでにメイカに向かって流し目を送ってみる。


「気っ風のいいひとだねえ。じゃあ僕に乗りかえてみる?」

「こら、てめえ!」


 ラオから怒声が飛んだが、メイカは楽しそうだ。瞳をキラキラさせて言い返す。


「うちの人、あたしを助けるために町いちばんのゴロツキの目と脚を潰すような男なんだけど、喧嘩してくれるの?」

「んー、遠慮するかなあ」


 ズミは肩を震わせて笑いこけると、オウリに身体を寄せた。


「だって僕、顔がいいだけだもん。僕にはオウリがいるしね」

「おい!」


 さすがに冗談がすぎる。オウリはものすごく迷惑顔になった。だがズミは一瞬で冷ややかに表情を消すと髪を下ろした。顔だけの男を追い求めてはいけないと、先刻会ってきた女を見ていれば心底思う。


「きみのために闘ってくれる男を大切にね。鹿肉、ありがと」


 プイとして宿へ向かうズミを、オウリは黙って見送った。母親だという人と何かがあったのだろうとわかったが、踏み込む気はなかった。




 パジに帰ったオウリだが、カナシャは出迎えてくれなかった。商会に帰着報告をしても日暮れまでまだある。

 何故か心が向いて御杜に行ってみると、なんとカナシャがいた。とうとう俺もカナシャを探しあてるようになったかな、とオウリは少し得意になった。


「――カナシャ、ただいま」


 立ったまま祈っていたカナシャは寂しい顔で振り向いた。パジに近づくオウリの気配がわからなかったはずはないのに、どうしたのか。


「寒いだろ」


 もう冬だ。暖かな海辺の町とはいえ立ち止まっていれば冷えるのではと心配になった。

 肩を抱こうとしたオウリに自分から身体を任せ、カナシャは真上のオウリを見上げる。


「あのね、シャオイェンさん、亡くなった」


 突然の話題にオウリの手が止まった。

 ソーンの港町ジンタンに帰ったはずの、病の婦人。カナシャの力を借りて夫に向ける笑顔を取り戻したあの人が亡くなったのか。

 オウリはひとつ大きな呼吸をして、カナシャをそうっと抱きしめた。


「わかるのか」

「遠いけど、みたことのある人だから。ここでなら、なんとか」

「――たまに探ってたんだな?」


 カナシャはコクンとうなずいて、小さくごめんなさいと呟いた。


「謝らなくていい。おまえの力だ、おまえがいちばん加減をわかってる」


 腕に包み込んだままに背をさする。一人でいる時に倒れたりしたらと懸念は抱くが、そんなことするなとは言えなかった。そうやって周囲に思いを掛ける、そんなカナシャがいいのだから。


「――辛いな」


 カナシャはまたうなずいて、ぎゅっとオウリの胸に顔を寄せた。でも泣き顔ではない。

 だって伝わってきたシャオイェンの心はいつも、悲しみにも苦しみにも沈んでいなかったから。夫に愛され愛し、満ち足りたものになっていたから。

 そのようにして生き、死ぬことだってできるのだ。遠い国で終わった人生から、カナシャはそれを知ったのだった。


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