七十五 上に立つ者


 躊躇なく幹に近づくカナシャをオウリは慌てて追った。


「ふふーん、今日はこの格好でよかった。これなら木登りしてもいいし」

「おまえ、久しぶりに登りたいだけだろ」


 そんなことないよお、と楽しそうに言われても説得力がない。カナシャは有無を言わせず幹に取り付いた。

 オウリは急いで弓をクリョウに押しつけて、カナシャの下側に入る。何かあっても受けとめる気だ。

 ツキハヤがニヤニヤし皆が呆気にとられる中、カナシャはするすると枝の先の方に進んでいった。


「猿かな」


 楽しげなツキハヤが失礼なことを言ったが、オウリも同意せざるを得なかった。するとあと少しの所でカナシャが止まった。


「ごめん、そろそろ枝が駄目そう。揺らして落とすよ」

「揺らすなら戻ってからやれ!」


 オウリが叫んだがカナシャは平然とその場で枝先をゆさゆさとし、ヤマムスメは地面に落ちた。それを確認して、カナシャは小さく独りごちた。


「わたし、重くなったかな……?」

「もっと育っていいから、おりてこい」


 オウリが怒った声を出すと、カナシャは舌をペロリとして後ろに下がった。何も懲りていないらしい。


「……なんかちょっとだけ、オウリの表情が変わったの見えた」

「確かに、カナシャが関わると違うな」


 クリョウとエンラがささやき合っているのが耳に入ったが、オウリはカナシャから目を離さなかった。

 木登りに関しては経験豊富なのでわかってやっているとは思うが、枝が折れたらどうする、と胆が冷える。まったくこの子猿娘め。

 枝上を後ずさり幹までたどり着いたカナシャを、オウリはヒョイと剥がして抱きおろした。ツキハヤが呵々として笑う。


「なかなかに奔放な小猿だな。まあこんな小娘が凄腕の御クチサキとは、誰も思うまいよ。パジに戻ったら鳴りをひそめておれ」


 オウリとカナシャは顔を見合わせた。イハヤが言っていたことを思い出す。誰かがカナシャを狙っているかもしれない、と。


「ですが、いいのですか」


 オウリは一応言質を取りにかかった。カナシャの予言は、政に役立つものではあるのだ。事あるごとに利用したくなるのが為政者の立場だろう。

 だがツキハヤは首を振った。


「カナシャが便利な道具なのは知っている。だが我々のやるべきことを、御クチサキだけに頼ってはならん」


 情報は人の手でも集められる。イハヤが島中を巡り誼を結ぶのも、ツキハヤがカフランを使い大陸と貿易に励むのもそのためだ。

 天災に関してはどうしようもないのだが、いつ何があろうとも対応できるように備えればいいだけのこと。人材を使いこなすのは為政者の役目だが、使い潰してはならないし、誰か一人に頼り過ぎてはいけないのだ。


 ごく真っ当にカナシャを労うツキハヤの姿勢に、オウリは頭を垂れた。

 この人はただの我が儘オヤジではなく、その奔放さにも関わらず周囲を率いていくことのできる長なのだった。

 ツキハヤは射られたヤマムスメを拾い上げ、美しい尾羽を愛でた。


「オウリは十分いい腕だな。この尾羽は、明日センカに発つ、あのジンタンの人の餞別にしよう」


 ジャン夫妻は翌日が旅立ちだった。そんなことまでしっかり把握しているツキハヤの意外な細やかさに、オウリは驚いていた。




 次の日、館に挨拶に来たジンタンの一行には、言った通り美しい尾羽と金銀花茶の壺が贈られた。

 余命いくばくもないとカナシャが断じたシャオイェンとはもうこれで会うこともないだろうが、オウリもカナシャも笑顔で別れを告げた。そうする他どうしようもない。

 世話になったことに深々と礼をして、ジャン夫妻は船に乗るためにセンカへと発った。



 見送ったカナシャはあまり元気がない。死にゆく人との訣別ということもあるが、単純に体調が悪いのだ。昨夕、月のものが来たのだった。


「旅に出ると身体が変調するから、よくあることよ」


 シラが対応して慰めてくれてオウリは心底助かった。さすがにオウリにはどうしようもないし、旅先でカナシャも心細いだろう。

 どうやら服を汚したらしく、これを着てみてと貸してもらった茜染めの服は刺繍が多くて可愛らしかったのでオウリはこっそりご満悦である。

 花石の首飾りとも似合うし、具合が悪いせいでカナシャがいつもより大人しく可憐で、こういうのもいいと思ってしまう。辛い時に申し訳ないが、男の性だ。


「俺はクリョウと弓を引いてくる。カナシャはのんびりしてろよ」


 部屋に引っ込むカナシャにそう声を掛けたが、カナシャは立ち止まって少し考えた。


「見てちゃだめ?」

「かまわないけど、キツくないのか」

「そんなには。慣れてきたかな」


 お腹が重い感じはあるが痛くはないのだそうだ。無理になったら黙って戻るけど気にしないでと言われた。


「ならいいが。見てて面白いか?」

「うーん」


 昨日もカナシャは見ていたのだが、初めてのことにはなんでも興味津々だ。それにいつも優しく笑っているオウリが冷静な顔で遠くを睨んでいるのにも、カナシャはどきどきするのだった。


「オウリがかっこいいから、見ていたいの」


 カナシャが試しに言ってみると、オウリは唇を噛んで渋い顔をした。


「そんなこと言われると、力みそうだ」


 あはは、と笑うカナシャは、オウリの先に立って牧へ向かった。



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