五十五 その日の朝


 ある早朝、樟樹くすのき亭の二階のカーラの部屋で、ラハウはくったりと眠るカーラを眺めてぼんやりしていた。


 蚊帳に包まれた小さな寝台。とうに油が切れて灯りは消えたが、粗末な窓や板壁の隙間からほのかに夜明けが忍びこんでくる。

 掛け布にうっすら浮かぶカーラの身体が次第に細っているようで、ラハウは焦燥感に駆られていた。


 それはラハウの気のせいではない。実のところカーラはあまり食べていない。病ではないのだが、食べたいと思えないのだ。


 もう消えてなくなってしまいたい。


 心の底でそう思っているせいで、身体は緩慢な自殺を図ろうとしていた。

 本人もそれに気づいていない。だからラハウにも言わない。いや、気づいていてもラハウにだけは言わないだろう。

 だってラハウのせいなのだから。


 ラハウがカーラを愛したのがいけないのだ。

 優しくしたり慈しんだり、そんなものを知らなければ野垂れ死ぬまで生きていられたのに。


 バタバタと親を亡くした少女の生きる術としては身体を売るのが当たり前の選択肢の一つだ。

 教えられるまま、ただ男を悦ばせて金をもらう。それでだんだん手練手管を覚えるのが普通だが、カーラは心をどこかに置き忘れてきたようだ。こうしたい、ああなりたいという欲が湧かない。ただ、生きるだけだ。


 乾いた風が体内に吹いているような女になったカーラは、娼婦と客としてラハウに出会った。

 ラハウは学はないが、鋭い男だ。

 娼婦のくせに媚びも偽りもなくラハウを迎えたカーラを珍しい女だと思った。

 興味を持って数回通えばもう、愛するしかなかった。ラハウもまた偽らない男だから。


 初めて男に愛されたことで、身の内に真水が満ちるように感じたカーラは、むしろ自分が壊れていたのを知った。


 何も考えず、何も知らず、何も感じない乾ききった木偶でく

 干からびた木片は水に浸されても人にはなれない。


 愛されたからといってすぐさまラハウに応えられるほど、カーラは図々しくなかった。

 こんな風に生きてきた自分がラハウに愛されていいわけはない。ラハウの時間も金も、自分などに費やしてほしくない。身受けされ妻におさまり家族を得るなどと、そんなこと考えるだに恐ろしいだけだった。


 ラハウは忙しく働いているらしい。樟樹亭に通いつめられるわけはない。だがカーラはもう、他の客をとる気にもなれなくなった。

 ぱったりと売り上げが落ち、客引きに行かされても声をかけるふりであっさり引き下がる。

 売れないから稼げないが、食べたくも生きたくもないのでかまわない。それをそのまま死なすわけにもいかず仲間や亭主が最低限面倒をみていたのだが、たまに行くと徐々に弱るばかりのカーラがいてラハウは焦るのだった。


 ラハウの前でカーラは、透き通るように脆く強い、美しい女だった。そしてもう、ラハウの本気の劣情をぶつけてしまったらそれだけで殺してしまえそうだった。

 愛する女をどうしたら救えるのかラハウにはわからない。


「……ラハウ?」


 身仕度していたのを感じたのかカーラが目を覚ました。服を拾って渡してやると、だるそうに羽織る。


「朝だ。俺は行くから、休め」


 ラハウがいくら手加減しても、カーラの身体には辛いだろう。わかっているが、それが客と娼婦だ。

 それに他にどうやって愛を伝えればいいのかラハウは知らない。


 見送ろうとするカーラを寝台に押し留め掛け布でくるむと、ラハウはその上から大事に抱きしめた。


「おやすみ」

「……ありがとう、ラハウ」


 カーラはぽつりと礼を言って横たわった。

 フイと壁の方を向いてしまうのを見届けて、ラハウは樟樹亭をあとにしたのだった。




 その日は朝から晴れていた。

 涼しい時間にだけカナナナと美しく鳴く蝉の声を聞きながらラハウは商会に帰り、不機嫌に座り込んだ。

 商会の面々は、もう荷を積んで発つ者、今日町の人々に卸す品を揃える者、倉庫を調べに行く者、それぞれに動き始める。


 地震が間もないと知らされて三日、事情を知る者達は軽い緊張感の中で過ごしていた。

 イハヤとシラはすでにタオに戻っている。カフランは町長に掛け合って、町中の倒れそうなものをあらかじめ横にしておくよう指示を出してもらった。もちろんイハヤの口添えもあってできる措置なのだが。


 カナシャは朝夕に御杜で祈っていた。どうにもならないのはわかっているが、そうせずにはいられない。

 御杜にいる分には危険はないので両親もオウリも、カナシャの気の済むようにさせていた。



 気温が上がり、蝉の声がシャシャシャシャと鳴き替わる時間になって、オウリは御杜までカナシャを探しに来た。

 傷薬の材料や包帯用の布をテイネに届けに行ったら、カナシャが帰っていなかったのだ。


「まだここにいたのか」

「うちにいても、なんにも手につかないんだもん」

「わかるけどな」


 唇をとがらせてカナシャは小石を蹴った。オウリはカナシャの肩を抱いて、御杜から連れ出す。

 オウリからすると、気持ちが沈みがちなことの方が地震よりもよくない。カナシャさえ笑っていてくれればそれでいいと割りきっているオウリは、この数日のカナシャの落ちこみように困っていた。


 自分のせいでもないことで悩む、とても優しい子だと思う。だがオウリは、起こった事柄に実際に対処していく方が得意だ。先を心配していても仕方ない。

 まったく違う二人がホダシとして組み合わされたのは、やはり欠けた部分を補い合うためなのだろうか。



 職人町とその大通りの屋台はいつものように活気づいていた。並んで歩いていると遠くにライリの姿がちらりと見えたが、向こうがフイと避けてくれる。まあその方がありがたい。

 また果物でも買ってやろうかと屋台に目を向けた時、目の端でカナシャの姿がカクリと崩れ落ちた。


「カナッ……!」


 咄嗟に腕を出して地面すれすれで受けとめる。

 カナシャは意識がなかった。オウリが蒼白になったその瞬間、うるさかった蝉が一斉に黙った。


 ……あ、来るな。


 何故か冷静にオウリは判断し、カナシャを守るように抱きかかえた。






 * 次回より、三話にわたり

   大きな地震被害の描写があります。

   辛い方はお読みにならないで下さい。











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