十九 波を飛ぶ船
舳先からナモイがちょいちょいとオウリを呼んだ。帆をくぐって、フワフワする甲板を移動する。
「どうだい?」
「本当に速いですね」
ナモイに首を振られた。
「こんなもんじゃない。たぶんこの先にもっと速い風が吹いてる。あいつはそこに乗るつもりだ」
シンは風を読むのが上手い。細かく揺れる風を一番いい向きで帆に受けるために舵を微調整して、常に風をつかむ。ただ、その分乗員は振り回されることになる。
今ならまだ少し話せるからな、と言いながらナモイはそれでもチラチラと海から目を離さなかった。
「オウリにも操帆を覚えてもらわにゃならんのだが、十二支ってわかるかい」
「じゅうにし」
ナモイに問われてオウリは首をかしげた。
「そっからかーい!」
後ろからシンの声が飛ぶ。気にするな、ハリラムにはない考え方だ、とナモイが苦笑した。
十二支というのは西の大陸の文化だそうだが、ここらの海を我が物顔にする海の民が取り入れているので船乗りには必須なのだ。
「さっきの
十二の生き物を北から東、南、西へと十二等分に割り振る。
子が真北、午が真南、巽は辰と巳の間で南東を示す。
船の場合は方位ではなく舳先を北と考えて当てはめる。巽は舳先に向いて右斜め後ろだ。巽の帆では
進む方位と帆桁の向きとを別に表さなければならない船において微妙な角度を伝えるためのものなのだが、まず十二の生き物の名と順番を覚えるだけで大変だ。
オウリは言われた生き物を復唱した。
「……トラって何ですか?」
腑に落ちない顔のオウリに、ナモイはああぁ、と天を仰いだ。シンがゲタゲタ笑い出す。
「ハリラムにはいないからなあ」
トラ、タツ、ヒツジはまったくわからない。ウマは聞いたことがあるが見たことはない。
トラは牛のように大きな猫、ヒツジは白っぽく毛が長い鹿みたいなもの、と説明されても何だその化け物は、としかならなかった。タツに至ってはそもそも空想の生き物だという。
もう考えても無駄だと割りきって、呪文としてとにかく頭に叩き込むことにしたオウリだった。
「のらくらして見えてオウリは生真面目だな。俺も知らん生き物だが、そういうのがいるんだなとしか思わなかった」
ラハウが面白そうにする。のらくら云々は心外だし確かに細かいところはあるかもしれないが、ラハウは大雑把にすぎるのだ。
「えー、タツっていないの? ソーンに行くとあちこちに彫ってあるじゃん。嘘っぱちなのかあ」
ズミのように存在を信じていた奴までいる。これくらい鷹揚な方が生きていて楽しいかもしれない。
それにしてもカフランは妙な奴ばかり集めたものだ。
と、その妙な奴の一角であるシンが鋭い声をあげた。
「オウリ、戻れ!」
オウリは反射的に、揺れる甲板を身を低くして駆けた。途中で船がぐらりと右舷に傾く。突風だ。
「卯!」
指示に応じてオウリに構わず動く帆をかいくぐると、さらにシンが叫んだ。
「オウリ左舷体重かけろ!」
は?
一瞬どうするのかと思ったが、何のために身体に縄を結んでいるのか理解してオウリは左舷に足を掛けた。縄を支えに海上に身体を投げ出して帆柱を引く。
俺は傾きを直すための重りだったのか。そういうことは先に言え。
ゆっくり船が戻った。オウリも身体を起こして様子を窺った。
少しずつ舵を切ると共に帆もずらしていく。帆は風に沿わせ力を失ったままだ。
「よーし、未!」
帆が風をはらむ。再び船はふわりと走り出した。一気に速度が上がる。先ほどより強い風を捉えたらしい。
低い姿勢でないと持っていかれそうな加速だった。
「あーあ、酔いそうなの始まった」
うんざり呟いたズミを振り返って、オウリはぎょっとした。風に乱れた髪からのぞいた素顔が、とんでもなく美しかったのだ。
「なに?」
視線に気づいたズミがブスッとした顔になった。
いつものことで嫌気がさしているのだろうが、傾国の美姫とはかくやという顔なので不機嫌にされても美しい。
ズミは蔑むようにオウリを睨めつけた。
「僕、男に興味ないからね。なんかしたら殴るよ」
なんか、とは。オウリは苦笑いした。
別に男同士だろうが好きにすればいいが、殴り返されるような襲い方はしない方がいい。こちとらカナシャの同意を得るために年単位かける気でいるのだ。
「ごめん、あんまり整った顔で驚いただけだ。俺にはホダシがいるから、そういうトチ狂い方はしないぞ」
「ホダシ?」
ズミがああ、と表情を和らげた。
「そっか、ホダシを追いかけてパジに来たって聞いたのオウリだ。じゃあ安全じゃん」
商会内でそういう風に言われているのか、俺は。その通りだけども。
というかズミにこれまで何があったのかが気になる。安全、という言い方からして、さぞかし生き辛かったのだと推測された。
本当にカフランが集めた人材は妙ちくりんだ。
俺なんか、めちゃくちゃまともな方だな、とオウリは思った。
「
前方のナモイから注意が飛んだ。
ハリラム西岸は全体的に浅く、浅瀬や暗礁に座礁する船があとをたたないので見張りは気が休まらない。
「了解、
ふわぁん、と船が曲がる。うん、頭と内臓が軽く不調を訴えている気がする。
舵を取りながら、シンは世間話を続けた。
「
「うんまあ、子どもだな。もうすぐ十四だ」
「なんだ見た目よりいってるな、チビなだけか。おれ、あの子のツレにどつかれたんだが」
「ツレ?」
カナシャが商会の前まで来た時に一緒にいたのは。
「フクラか。おまえ何したんだよ、あの子はしっかり者だぞ」
「フクラっつーのか。いくつだよ」
「十五だったかな」
「……背中丸めんな、てどやされたぞ」
ムスッとするシンにラハウが爆笑した。
「そりゃいつものおまえを見りゃ言いたくもなるさ。だがその子もオカンが過ぎるな」
「……
船の上のシンは別人のようにしゃんとしている。他の面々がそろそろ青ざめ始めているのとは真逆だ。普段のしょぼくれ具合が信じられないぐらいだった。
「船では人が変わるんだな。どこで操船を覚えたんだ?」
「歩くより先に舵を取り帆を操るのが、海の民ってもんだろうがよ」
「へ?」
シンはニヤリと笑って舵を当てた。
うえっ。これは、かなりくる。
ただでさえ飛ぶように進む船が波を越えるたび、ふわんふわん身体の中が揺さぶられているのだ。たまに横揺れが混じるとまた、如何ともしがたい苦しさが襲ってくる。
「吐きたくなったら海に、な」
前方からナモイがそっと教えてくれた。彼自身の経験からなのだろうか、ナモイも遠い目をしていた。
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