十三 少女達の事情
「ッ……!」
痛そうに顔を歪めたカナシャをフクラは呆れた目で見た。
「また刺したの?」
「……突ついただけ」
強がるが、針と布を置いて指を咥える。
やっぱり刺してるじゃない、と笑われてカナシャはふくれっ面になった。
「今のは血が出なかったから刺さってない」
強弁するカナシャを無視して、その置いた練習用の布をフクラは手に取った。
「……十字縫いは一つずつの大きさをもう少し揃えないと。柄がどんどんゆがむわ」
このところ連日フクラの家で刺繍の特訓を受けているカナシャである。あまり上達の兆しはないが、以前に比べやる気だけは出たのでそのうちモノになるかもしれない。
嫁入りできる日を「待ってる」と言われたので、オウリが旅立ってから毎日、カナシャは洗濯や縫い物などを頑張っているのだ。
フクラに習っているのは上衣の袖口や裾に施す紋の刺繍だった。
家族・氏族ごとに決まった柄を身に纏うのだが、オウリが着ていたのは亀甲紋だった。だからせめて亀甲だけは上手に刺せるようになっておかないと妻としての面目が立たない。カナシャはもう一度果敢にチクチクと針を動かした。
「亀甲なんて直線だし、楽な方でよかった」
「できるようになってから言おうね、カナシャ? 直線だから、ゆがみが目立つのよ」
にっこりと笑うフクラは少し怖い。それでも今日のカナシャはへっちゃらだった。なんとなれば、今日オウリが帰ってくるかもしれないのだ。
もちろん連絡があったわけではなく、そんな感じがしているだけだ。でも初めて会った日に朝から不思議な感覚があったことを思えば、信じてもいいのではないだろうか。
三日前にも妙にオウリを感じた時があった。それはほんの一時だったが、胸が締めつけられるように会いたくなって
結局オウリは帰って来なかった。まだ往復するだけで精一杯の頃でしょ、とその時フクラに言われたので、今日はまだこの感じは内緒にしている。
今日はフクラと二人だった。サヤは弟妹の子守りで忙しいらしい。
フクラの母は昼前から屋台を出して魚料理を売っているし、フクラの父は魚の運送業を終えて奥で昼寝していた。
つまり漁港に揚がる魚を荷車に積み、市場まで爆走して鮮度を落とさずに運ぶのである。早朝から昼までの肉体労働なのでもう帰ってきているが、一休みしたら妻の屋台を手伝いに行くのが日課だ。
「ねえ、フクラはお嫁に行かないの?」
二人だけなのでこそっと訊いてみた。フクラはもう十五歳だし、家事もこなせるし、刺繍の仕事もできる。どこにでも嫁に行けそうだった。
「誰のところに行くのよ」
「誰かいないのってこと」
「……うちの姉さんの騒動、知らない?」
「えーと、急に引っ越しちゃったよね」
「引っ越しじゃないの、ほぼ駆け落ちよ」
「ええ?」
それは一年半ほど前だった。カナシャも可愛がってもらっていたフクラの姉が突然いなくなった。近くの村に行ってしまったという。
人の恋模様に興味がなかったカナシャは知らなかったが、その村から野菜を売りに来ていた男と恋をしたのだそうだ。真面目で優しい男だった。だがそれがまずかった。
「父さんは頭も筋肉でできてるような人だから、気が合わなくてね」
相手が尻込みしてしまったのに気づいた姉は、結婚の儀式や祝いをすっ飛ばして押しかけ女房になったそうだ。
「いつの間にか結婚したって聞いたけど、そういうことだったのか」
それより以前にフクラの兄も、父と大喧嘩の末に出奔しているらしい。カナシャはまだ小さくてあまり覚えてもいない頃だ。
いろいろと父さんが悪いのはわかってるんだけど、とフクラは肩をすくめた。
「だから父さんと闘えるぐらいの男が相手でなきゃ、わたしはお嫁になんて行けないの」
「でなきゃまた駆け落ちだ」
「それはさすがに母さんがかわいそう」
そういう夫を選んだのは母自身だが、気が強く行動力のある子ども達を得たのは天の采配だ。せめて娘一人ぐらいは身近にいてあげたいとフクラは密かに思っていた。
ただ、父と張り合える強い男がこの町にいるのかどうかは甚だ疑問だ。
「オウリさんはどうなの。そろそろ何か感じないの」
話を変えたフクラに、カナシャは嬉しそうにした。本当は言いたくて仕方なかったのだ。
「もう帰って来るかも」
「……ほんとに感じるの?」
カナシャはこくこく頷いた。実はさっきから、とても近くなったような気がしてきて落ち着かない。探しに出て行きたいぐらいなのだった。
「じゃあ行ってみようか」
フクラは針を置いた。道具をきちんと片付けて、二人で外に出ると街道方面へ向かう。
カナシャの言うことは信じられるとフクラは思っていた。数日前には近所の老人の失せ物をピタリと探し出しているし、オウリと出会ってから「よく聴こえるようになった」というのは真実のような気がする。
ましてそのオウリに関わる感覚だ、近いと思うならそうなのかもしれない。
フクラが一緒に確かめに出たのはただの好奇心だった。
「あ、やっぱりこっち」
カナシャが道を曲がった。もう町に入っちゃった、商会に行った方がよさそう、だそうだ。面白がりながらフクラは黙ってついて行った。
カフラン商会の前では、一人の若い男がしゃがみ込んでいた。
背を丸め、なんとなく柄が悪い。
何をしているのかと思ったが、よく見ると
何故そこで食事、と思ったが仕方なく近づくと声をかけられた。
「なんか用かい、お嬢ちゃん達」
「いえ、この商会に」
「うちじゃ嬢ちゃんに売るもんはないと思うがなあ」
商会の人なのか。だったらなおさら中で食べればいいのでは、とカナシャはわからなくなった。
その時バン、と戸が開いてオウリが飛び出して来た。カナシャを見て驚いた顔をする。
「やっぱり来てたのか」
「オウリ……」
手を伸べて近づいた二人を見て、男はチッと舌打ちした。
「なんだ、おまえの客か」
「ああ」
男はしゃがんだままオウリを睨み上げた。商売人にしては喧嘩腰が板についているが、オウリは気にしていない。
「見下ろしてんじゃねえよ」
「シンがしゃがんでるからだろ」
「呼び捨てすんなし。おれの方が先輩だろ」
「気にすんなよ、年は俺が上だ」
シンと呼ばれた男はどうしてこんなにオウリに突っかかるのか、心配になってカナシャはオウリの袖を引こうとした。するとオウリがハッとなって跳びすさった。
「オウリ?」
「あの、まだ着いたばかりで仕事の報告もこれからなんだ。あと俺・・・今くさいから、ちょっと寄らないでほしい」
途中の雨に降り籠められて、帰りが一日遅れてしまった。
泥がはね、雨に湿り、汗をかき、雨上がりの今日は簑を羽織って乾かしながら歩いてきたので、更に蒸れている。あまり恋人に再会したくない状態なのを忘れていた。
慌てた様子にカナシャはふふふ、と笑った。
「じゃあ後で会える?」
「ああ。ごめんな」
「待ってるね」
オウリはうなずいて中に戻っていった。
「あんた、オウリと付き合ってんのか」
「えーと、まあ、そんな感じ?」
「ふーん。でも子どもじゃねえか。そっちの彼女ならまだわかるけどさ」
正直な感想に言葉に詰まったカナシャの代わりに、そっちの彼女と言われたフクラが前に出た。
「シンさん?」
シンの真横に同じようにしゃがみ、顔を覗き込んでふわりと笑う。
「お、おう?」
顔の近さに
「背中、伸ばしてしゃんとなさい。あと、ご飯を食べる時はお腹を潰さないの。消化に悪いでしょ」
子どもに含めるように小言を言うと、呆気にとられるシンを置いてフクラは立ち上がり、カナシャを引っ張って去っていった。
「なんだぁ、あの女?」
残されたシンは立ち上がって二人を睨みつけ見送った。
それから首と肩をコキ、と鳴らすとことさらに胸を張って、卵焼きの最後の
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