十 長兄の生き方
表に出ると、村は少しずつ強くなる春の陽光に満ちていた。
暖まった風が山の方に吹き上げて、ハリラムの背骨であるヤロア連山の
村の周囲の森の木々がザアザアと鳴り、風の響きが心地よかった。
「いたいた、ちょっとオウリ、あんた!」
新芽の様子を見に茶畑に行こうとしたら、脇の野菜畑の方から母トゥーイが飛んできた。
商品の茶以外にも、自分達が食べる物はなるべく作らないと生活できない。
「結婚するんだって? そういうことは来てすぐ言いなさいよ」
タイガから聞いたのだろう。手が汚れていなければオウリの背をバシバシ叩きたいのだができず、肘で小突いてきた。けっこう痛い。
「ああ、うん。ごめん」
「シージャの人なのね、それなら言葉も通じるし、心配ないか。どんな子なの?」
ハリラムには大きく分けて五つの部族が暮らしている。
サイカ、シージャ、カツァリ、アニ、カダル。
西の大陸南部の森から来たと伝わるサイカ族と、同じく大陸南部の海辺から来たというシージャ族は話す言葉がほぼ変わらない。
カツァリ族も大陸の山地が故郷といわれ言葉は通じるが、サイカの南側の山間に暮らす彼らは文化的にはやや異なり、森での狩猟を重んじる勇猛な人々だ。
アニ族は北の島々から、カダル族は南の島々からやってきたといわれ、通訳が必要なほど言葉も、文化も異なった。
言葉が通じるかとか人柄とか、今後の生活に関わる大事なことだが、父や兄は何も聞かなかった。そういう点を気にするのは、やはり母親ならではか。
「どんなって……元気な子だよ。友達と芋団子を食べておしゃべりするのが好きな、普通の子」
「そう。いい子なんだね」
嘘は言っていない。トゥーイは安心したように笑った。
本当は、まだあまりカナシャのことは知らない。考えてみればまだ数時間を共に過ごしただけだった。
会いたいな、とオウリは思った。イタン村の
「遠くに行っちゃうのは心配だけど、ちゃんと家族ができて暮らしていけるならそれでいいわ」
「……村を出て、ごめんな」
トゥーイはあはは、と笑いとばした。
「仕方ないでしょ。あんたが少し変わってるのはわかってたし。ちゃんと町で働けるようになったんだから、それでいいの。自分で決めたことを通したんだから、偉かったよ」
正面きって母親に褒められるのは少々こそばゆいが、悪いものではなかった。
「まあしばらくタイガが苛々するだろうけどねえ」
トゥーイが苦笑いする。どういうことかわからなくて、オウリは尋ねた。
「なんでタイガ兄さんが?」
「あの子は、この村でうまくやるために頑張ってるからね。あんたのこと村から逃げ出したと思ってるから、逃げた先で幸せにされると腹が立つんだよ」
なんだそれは。長兄の態度はてっきりカエの経緯にこだわっているのだとばかり思っていた。
「……そうなのか?」
「自分ではわかってないかもしれないけど、オウリがしっかり働いてるって話がアヤルの町から聞こえると機嫌が悪いの。馬鹿だねえ、あの子にはこの村が合ってるし、しっかり働いて嫁も子どももいるのに」
タイガは子どもの頃から苦もなく村の大人達に馴染み、可愛がられ、オウリからすると羨ましいぐらいだった。
居心地の悪いまま十六年暮らしてみろと言いたい。逃げ出したと非難されるのは納得いかなかった。
「なんだよ、それ。生まれた所でちゃんと生きられる方がいいじゃないか」
「どっちでもいいでしょうよ。あんたは村じゃやっていけない、タイガは村を出たらやっていけない。どこで暮らしたって大変なのも幸せなのも同じだよ。人と比べることじゃない。それぞれに大事なものを大事にしていけば、それでいい」
「……タイガ兄さんはこの村が大事だから、それを捨てた俺が気に入らないのかな」
「そうなのかもね。でもあんたは村を捨てたわけじゃない。こうして家に仕事を持ってきたりするし。そういうのを、そのうち飲み込めるようになるよ、あの子も」
もう二十四歳で嫁も子もいる男が「あの子」扱いだ。まったく母親というものはこれだから。
リーファもおっとりして見えて強い母親だった。跳ねっかえりと言われるカナシャが言い負かされて泣くぐらいに。
思い出してオウリは微笑んだ。
―――駄目だ。何をしても話しても、思考がカナシャに辿り着いてしまう。まだ離れてからたったの五日しか経っていないはずなのに。
会いたいな。
しみじみとそう思ったオウリは、村の御杜に行ってみることにした。
低い竹垣に囲まれたイタン村の御杜はクスノキの大樹に守られていた。
クスノキに若葉が萌えるのと入れ替わりに、地面には古い葉が散っていた。
朝、村の誰かが掃き清めたのだろう、枯れ葉が隅に寄せられて山になっているが、風がそよぐ度に次々に葉が落ちてパラパラと音を立てた。
「……疲れた」
オウリは木に寄りかかって目を閉じた。
今日は珍しく家族といろいろ話した。思い返せばイタンに戻る時はいつもアラキか誰かと一緒だった。
そしてオウリもこれまでのオウリではない。カナシャというホダシを得て、人が誰かを思う気持ちを理解するようになった。何を言われてもサラリと流すというわけにはいかないのだった。
「カナシャ……」
人を思うということは、わかった。でも結局カナシャ以外への気持ちは特にない。
ひどい話だが、あの子だけが特別なのだ。
カナシャと二人なら世界は丸くなる。
カナシャがいなければ世界が欠ける。
他の誰がいようと、一人でいるのと変わらない。
どうしてだかまったくわからない。ろくに知りもしない女の子の何がいいのか、自分でも理解に苦しむ。
なのに心惹かれてやまない。
「聴こえるかな、カナシャ……」
少しでもあの子とつながればいい。オウリはズルルッと木の根本に座り込んで木漏れ日を見上げた。
ふわりと風が頬を撫でていくが、オウリにはカナシャを感じる力はなかった。
パラパラと葉の散る音を聞きながら、オウリはしばらく一人で目を閉じていた。
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