最終話

 大学に入り、佳苗は達彦のことを忘れようと努めた。


 しかし、忘却しようとすればするほど、彼との思い出が怒涛のように押し寄せてくる。


 彼女は翻弄されるままに日々を送った。


 どうあがこうと、その深淵から脱け出ることはできなかった。


 達彦のことは愛している。


 だが、もし彼に高校を卒業してすぐに結婚を申し込まれたとしたら、果たして快く承諾できたろうか。


 何の抵抗も未練もなく、彼の腕の中へすっぽり納まることができただろうか。


 それこそが、彼女の最大の盲点だった。


 佳苗はまだ若い。


 これからもいろいろ経験したいし、ありきたりでもいいから、人並みに青春というものを満喫したかった。


 達彦との未来を憧憬する反面、このまま自分をうずめてしまっていいのかという焦燥と心残りが確かに内在していた。


 しかし、達彦とつき合っていれば、どうしても結婚と背中合わせになることは、彼の年齢からもやむを得ぬことだった。


 彼を深く愛してはいても、日常的な条件に迫られると、彼女はどう対処していいかわからなくなってしまう。


 そこで、意識と肉体の分離などという半ば陶酔じみた観念的な妄想へ逃げこみ、孤独なエゴイズムとともに昇華していくのだ。


 あるいは、失ってしまったからこそなお、彼を恋しく思うのかもしれない。


 彼女が欲していた戦慄的な刺激がこんな形で訪れるなど、思いも寄らぬことだった。


 佳苗は大学へ通いながらも、毎日のようにメールをし、ドライフラワーを作っては、ひそかに彼の新聞社へ送ってみたりもした。


 どのような状況にあろうと二人の愛は不滅なのだ、と頑なに思い込み、自らの行為に酔いしれながら。


 佳苗は知らなかった。


 環境がどのように人の内面を変化させるのかを。





 注文したアイスミルクがテーブルに置かれた。


 とりとめのないその音は、佳苗の記憶の糸を断ち切った。


 彼女はストローでグラスの中の液体をかきまわした。


 無限にも思える白いうねりに、ふっと吸い込まれてしまいそうな気がした。


 達彦はシャツのポケットから煙草を取り出し、火をつけた。


「元気だったか?」


「ええ、なんとか」


「ドライフラワーをありがとう。デスクに飾ってあるよ」


「あれ、作るのたいへんだったの。わたし、不器用でしょう。指先の感覚がなくなるほど頑張ったのよ」


「相変わらず大げさだな」


「フッフッ」


「パーマかけたんだね。化粧もしてるし、ずい分変わったみたいだ」


「高校時代の友だちも、みんなそんなこといって物珍しそうに見てたわ。大学の友だちからはいかにも早熟そうに見られてるようだし、おかしい。誰もわたしのことなんか、何にもわかっちゃいないのにね」


 投げやりな口調の中にも、どこか哀しい響きがあった。


 いったい今日は、何のために彼に会いにきたんだろう。


 もう一度二人の愛を確かめるため?


 そんなことを確かめたところで何になるだろう?


 何が残るんだろう?


 考えるうち、ほとんど無意識に一筋の涙がこぼれ落ちた。


 もう話すことなど何もない。


 話せば苦しくなるだけだ。


 達彦が気遣わしげに見守っている。


 そう、この涙がすべての答えを出してくれたはずだ。


 まもなく二人は無言のまま喫茶店を出て、別れた。


 帰りの電車はどことなくどんよりしていた。


 傍に立っているサラリーマンのオーデコロンと汗の混じった体臭が、佳苗を嫌悪させた。


 仕方なくドアの方へよけた。


 街は無数のネオンに彩られ、日中とは違う熱気がアスファルトの下からぐんぐん立ち昇り、真っ赤な夕焼け空までも支配してゆくようだった。


 ドアの窓に疲れたような女の顔が浮かんでいる。


 達彦が好いてくれた長い髪は、もう彼女にはない。


「もう一度、伸ばしてみようかな」


 ふとそんな言葉を洩らしたが、たとえそうしてみたところで、以前のように優しく達彦が撫でてくれるということは、決してないのだ。


 抗いようのない倦怠が、体内を蛇のようにぬるぬる這いずりまわっている。


 もはや抵抗しようもなく、彼女はぼんやりネオンのあかりを眺めていた。

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さよならの貌(カタチ) 令狐冲三 @houshyo

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