第9話

 卒業式を終えて間もなく、達彦の結婚が伝えられた。


 佳苗が東京へ下宿するための準備にすこしずつ取りかかりはじめた頃だった。


「どうして?どうして今まで何も話してくれなかったの?ねえ、なぜなの?」


 達彦は応えない。


「ズルイわ。黙ってるなんて」


「仕方なかったんだ。俺ももう30になった。身を固める時だ。むろん、佳苗が嫌いなわけじゃない。でも、向こうとはもう5年も前に結婚の約束をした。向こうの両親の猛反対があって立ち消えになりかけてたけど、彼女は27になり、会社も辞めて、親とも絶縁状態になって俺のもとへ来る。断ることはできない。半ば義務なんだよ。わかってくれ」


「そうなの。なら、どうしてその話が出た時にわたしと別れなかったの?わたしを騙したの?」


「騙しただなんて、そんな風に思わないでくれ。できるだけ佳苗を傍に置いときたかった。手放したくなかったんだ。許してくれ」


「イヤよ。イヤ、結婚なんかしちゃ。ついこないだだって、佳苗の誕生日が四月だから、入学のお祝いにどこか遠くへ行こうっていってくれたじゃない。あれは何よ、ねえ!」


「本当にそうできたら、どんなにいいだろう」


「そんな取ってつけたようなことを、よく平気でいえるのね」


「俺を信じないのか」


「この話を聞くまでは信じてたわ、心の底から。とにかくイヤよ」


「佳苗、落ち着いてくれ。30にもなれば、恋だの愛だので結婚するんじゃないんだ。わかってくれよ。さっきもいったように、義務なんだ。妥協なんだ。もし佳苗がおなじ土俵にいたら、向こうの女性には悪いけど、おまえを選ぶ。でも、佳苗はこれから四年間大学へ行く。その時点で駄目なんだ」


「ふん!じゃあ、なぜ大学へ行くなっていってくれなかったの」と、佳苗はヒステリックに叫んだ。


「佳苗には思う存分青春時代をすごしてもらいたい。もっともっと自分を磨いて素敵な女性になって欲しいんだ。家庭に閉じ込めてしまうなんてできないよ」


「そう、すばらしい逃げ道ね。それでわたしをはぐらかすつもりなのね」


 彼女の奇声に近い罵りが、部屋中に響きわたった。


「どこまで俺を疑えば気がすむんだ?佳苗がそんな女だったなんて、幻滅だよ。騙されたのはむしろ、俺のほうだ」


「わたしも、あなたがこんな見事に欺くなんて、夢にも思わなかった」


 佳苗は赤々と燃えているストーブに目を凝らした。


「参ったな、佳苗は本当に俺のことを考えてくれてるのか」


「じゃあ、どうすればいいのよっ!」


 佳苗は半ば熱病にでもかかったように頬や目を真っ赤に腫らし、メラメラと燃えさかるストーブの炎のほうへ、吸い込まれるように近づいていった。


 そして、湯気の立つやかんに手を延ばした。


「馬鹿っ!何をするんだっ!」


 達彦の鋭い叫びが、煮えたぎる彼女の意識に、凍りつくような冷水を浴びせた。


 彼は、佳苗を強く抱きしめた。


「ごめんなさい本当に。聞きわけがなくて。わたし、どうかしてたの。どうしてあなたが結婚して安定した暮らしを営もうとするのを恨む必要があるのでしょう。こんなに愛しい人を苦しめるなんて。ただ、ただね、もう何ヶ月かすればこの部屋は違う女性の色に塗り替えられて、わたしはだんだん色あせてどこかへ消え去ってしまう。あなたに忘れられてしまう。それが何よりも悲しいの」


 彼女は力なく項垂れ、達彦の胸に顔をうずめてむせび泣いた。


 その後、佳苗は逃げるようにして東京の下宿へ移った。


 出発する前にも達彦とは何度か会ったが、そのたびに彼を罵り自分を憐憫するという繰り返しで、苦しくなるばかりだった。


 無償の愛を嘆くのではなく、単に達彦を愛憎しているだけなのだと気づいたのは、彼の妻になる女性と会った時だった。


 彼女はとりたてて佳苗の存在を怒っている風もなく、和やかな口調でこういった。


「たぶん、達彦さんはまだわたしより佳苗さんのほうが好きだと思うの。だって、わたしの目につくところへ、わざとあなたの手紙や写真、エプロンなんかを置いとくんだもの。他に好きな女性がいるのはすぐわかったわ。でもね、わたしはわたしのやり方で、ゆっくりでいいの、きっともう一度前のように強く愛し合えるようにしてみせるわ。だから今は、何もいわずに黙って彼についていくつもり」


 幾層にも積み上げられてきた女の年輪。


 そんなものを佳苗は彼女から感じた。


「わたしね、覚悟はできてるのよ。もしあなたが大学を卒業して、彼の前にまた、わたしなんかよりずっと素敵な女性になって現れて、彼の心を奪っていったとしても、その時はその時。だけど今は、わたしが彼のお世話をさせてもらうわ」

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