第8話

 佳苗は三年生になり、ついに進路という岐路に立たされた。


 進学を決意していたのだが、就職組の友だちを見ているとなんだかしっくりしなかった。


「わたし、大学行くのやめようかな」と、不器用な手つきで林檎をむきながら、佳苗はいった。


「なんだ、もう弱音を吐いてるのか。勉強はしてるのか?」


 達彦が説教じみた口調でいう。


「わたし、お勉強は好きじゃないの。実力もぜんぜんないし、まるっきりダメよ」


 佳苗は林檎を頬張りながら無邪気に笑った。


 そんな彼女の態度を見ると、達彦は暗い顔になって、


「ダメじゃないか、そんなのんびりしてたんじゃ。佳苗はいったいどうする気なんだ?」


「どうするって?」


「もし、受験に失敗したらだよ」


「もちろん、永久就職するに決まってるわ」


 佳苗は目をクリクリさせ、いたずらっぽく笑っていった。


 達彦もつられて笑い出した。


 けれども二人の笑顔の奥には、一種形容しがたいほの暗い影がほんのりとさしていた。


 夏がもうすぐそこまで来ている。




 夏休みはもっぱら夏期講習に通い、受験生としての日々を送った。


 佳苗は改めて自分の実力のなさを思い知らされ、必死になって参考書をめくった。


 二学期に入り、担任から推薦入学の話が持ち込まれた。


 彼女の成績でも受けられるということで、場慣れの意味も含めて受けてみたのだが、思いがけず合格の朗報に接し、佳苗は半信半疑のままその旨を達彦に告げた。


「よかったね、おめでとう」


「どうもありがとう。なんか嘘みたい」


「嘘なもんか。やればできるんだよ、佳苗も」


「そうね」


 電話口から聞こえてくる達彦の声が妙に空々しい気がして、目に見えない不気味な隔たりを感じずにはいられなかった。




「達彦さん、ごめんなさい。許して。ただの友だちだったの。もう会わないって決めたし、電話がきてもすぐ切っちゃうの。本当よ、信じて!」


 佳苗は泣きじゃくりながら、背を向けている達彦にとりすがった。


「謝ることなんかない。キミの意志でそうしたんだから、俺がとやかくいう権利なんか何もないよ」


 達彦は険しい表情のまま、雑誌をパラパラめくった。


 口もとは塗り固めたように堅く閉ざされたままだった。


 推薦で一足早く進学が決まっていた佳苗は、冬休みにデパートの衣料品売り場でアルバイトをした。


 そこでいっしょだった四つ歳上の大学生と意気投合し、二度ほどドライブに連れて行ってもらったが、そのことを懺悔のつもりで達彦に打ち明けたのだった。


 別に話さなくてもよかったのだが、半年ほど前から例の物憂げな冷笑が彼女を急速に侵食しはじめていて、それをねじ伏せるためにも、達彦との間に何かしら戦慄的な刺激を流し込んでみたいと願っていたからだった。


 子供じみた悪戯心で、単に彼の反応を試すつもりの遊戯的な意味しかない告白だったが、それで得られたものいえば、甚だ不本意な、手応えのない病んだ刺激だけだった。


「佳苗はやっぱり同世代のやつとつき合うほうがいいよ。俺といっしょにいたって満足できやしない。大学へ行けばいろいろ吸収して成長していくんだ。こんな状態をいつまでも続けてたら、佳苗は本当にダメになっちまうよ。わかるね」


「わからないわ、今のわたしは何もわからないの。だからこそ、達彦さんが必要なのよ。誰よりも!他の男の人とつき合ったのは心から反省してるし、不貞だったわ」


「不貞だなんて、キミみたいな娘が口にする言葉じゃないよ」


「ごめんなさい、許して!」


「許す許さないじゃない、いずれそうなることは前々からわかっていたよ」


 達彦は決して詰らなかった。


 ただ、冷静に彼女をなだめようとするだけだ。


「お願いだから突き放さないで。わたしが本当に、本当に悪かったの。だからね、だから!」


「もう泣くな。すんだことはしょうがないさ。佳苗は何も悪くないよ」


 達彦は必要以上の冷やかさを装いながら、彼女の淋しい肩を震える手で抱きしめた。


 いつの頃からか、二人の間には根拠のない不倫が芽を出しはじめていた。


 誰に咎められることもなく自由に恋愛できる立場にある二人だったはずが、どこか空回りしていた。


 それはまるで、欠けた歯車のようなぎこちなさだった。


 常にギィッギィッと軋む音が二人を抑圧しようとするのだが、決して止まることは出来ず、いつまでも回り続けるのだった。


 無論偽りの愛情や、刹那的な快楽のために回り続けているのではない。


 ただ、そうするしか術を見出せなかった。

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