第71話 桜月夜、少年母を呼ぶ

 いつか見た桜の木の下で、黒髪の少女が立っていた。

 少女は何日も食べていない、と思わせる姿態の細さにも関わらず、下腹部だけは不自然にぽっこりと膨らんでいた。

 染み一つさえもない、白い頬はぞっとするほど血の気がなく、その視線は桜の大木に注がれている。



 少女は大きなお腹を叩き始め、万朶の桜がはらりはらり、と散るとともに数知れない嗚咽が桜の木の下にこよなく響き渡った。

 少女はまだ、ゆっくりと青い花を咲かせるはずだった。



 その青い花も一瞬で、枯れ果ててしまった、純情の雌蕊まで。

 花びらが散るように、僕の水源が流れてしまえば、少女は苦衷に陥る、機会さえもなかったはずだった。

 少女はあどけない、黒い瞳をきょろきょろさせながら僕がいる、此方まで歩みを寄せた。



 翠風が吹き荒び、砕かれた桜貝を集めたような、下枝がかなり強く揺れ始めた。



「母さん!」

 僕はとっさに手を伸ばし、果てしない夜空に向かって、その名を呼ぶと水の闇の綾が大きくなり、万華鏡のように空想庭園の中で、僕の声が花開いた。



 酷く幼げな少女は、両肩をか弱げに震わせ、僕の手を優しく握った。

 記憶の底に仕舞ってある、青い螢の群れ。

 夏の刹那を彩る命の群れ。

 白い水辺に咲く青い光の花。



 きっと、僕は何も感じはしない。

 僕が赤い海の中でこの世に生を受けたとき、たぶん、螢が飛び交っていたんじゃないか、とふと、夢想する。

 神楽鈴の音の結晶の欠片が生まれては消え、生まれては僕の心の中に重ね合うように、幾度もなく木霊する。

 鈴の律動が星の雪となって降り注いでくる。



 僕の心臓もその鈴の悠久の音と軽やかに刻みながら、まだ動いていく。

 桜の花びらがふんわりと下降流と舞い、時の彼方に消えれば、玲瓏なる滴りが僕と同化する。

「お母さんを許して」

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