第15話 山の姫の独白

 心を飛ばすんだ、いいかい、とにかく咽喉がカラカラになるまで、空っぽになるんだ。

 僕は目を閉じられず、瞳孔を薄情に見開く。

 彼女の満面の笑壺に入った顔と、醜く萎れた枯れ尾花のような頬が目の前にある。

 濡れ雑巾のような、カサカサの手は大きく、僕の胸を広く制圧している。



 獲物である、哀れな野鼠を高らかに捕らえた、大蛇のように赤い舌で、僕の胸まで真正面まで近づき、生命力の強い、蚯蚓のように舐め始めた。

 卑屈な振動がじかに伝わり、僕の冷たくなった唇と機微と敏感な胸先は、ピクン、ピクンと動いた。

 どっと強力な倦怠感も、押し寄せた。



 冬枯れの水無川のような、危機的な疲労だ。

 僕はこの期に及んで抗おう、と蹴ったり、かじったり、手で摘まんだりした。

 それでも、彼女の力は途轍もなく強く、僕を抱えるように前のめりになった。



「僕が何をしたんだよ。お前に何をしたっていうんだ」

 悲鳴がささやかな抵抗だった。

 孤高を気取る女王蜂の触手のように、そのムニュムニュした舌は僕の乳首の奥まで吸い込んだ。

 僕は反射的にのし上がろうと背中を反った。

 おーい、おーい、と再び、あの謎めいた声が聞こえてきた。

 僕はそれに向かって、叫ぼうと苦心した。

 ここにいる!

 ここにいるんだ! と声にならない声で、口の中の真空を吸った。

 噎せ返り、爆音にさらされたような沈痛がする。



「逃げようとしたのですね。それは許しませんよ」

 姫は計画通りの満悦に浸ったのか、僕の白シャツのボタンを丁寧に直し始めた。

 何だ、これで終わりなのか、これで解放される。

 良かった、と思う反面、今度は途轍もない恐怖心が芽生えた。

 ここで命を絶たれてしまうんじゃないか、という最大限の恐怖。



「山の草花に手を出しましたね。私の山の生き物を傷つけましたね」

 ハッとなって、その容顔を一瞥すると、姫の小さな眼はどことなく、潤んでいた。

「草木も摘まれたら痛いのですよ。声には出せないけれども、怖いのですよ。あなたは山のものにむやみに手を出しましたね。私の森に」

「違うよ。僕はそんなつもりじゃない」

 素っ気なく言い訳して、何になるのだろう。



「僕は山の草や花を傷つけない。約束する。だから、帰らせて」

「仮に約束を破ったとしたら?」

 姫の問答は気が遠くなるまで、続きそうだった。

「君の思い通りにしていい」

 姫は決死の覚悟の僕から離れ、立ち上がろうと腰を曲げたら激痛が走り、踝が傷んだ。

「私のもとへあなたは一度迷い込んでしまったのです。あなたは」

 その続きを聞く前に僕はよろめきながらも、無我夢中で名前を喰われないために、僕はとにかく逃げた。

 自転車までの距離は意外にも短く、鎌首を振り回した山姥のように、姫が追いかけてくるのかと思いきや、それは杞憂で終わった。

 恐怖感に苛まれながら振り返ると、蓮華畑の面影は消え、そこはただの山に通じる獣道になっていた。



 何かが倒れている。

 鳥居だ。

 それも、石製の鳥居。

 それも歴史の風化を物語った、すごく小さな鳥居だった。

 もしや、僕は木苺や草苺を食べるのに夢中で、その鳥居の祠を倒してしまったのかもしれない。

 とっさにその鳥居を基に遭った場所まで直し、埃や落ち葉を払い、必要最小限の償いを施した。

 罪悪感で、どうかなりそうでも、山の急な天気の気まぐれな遮光にぞっとして、立ち去るように家路に向かった。

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