第14話 茶色の時代の戦争と桜花

 その小さな眼と僕の眼は繋がった。

 そこにいたのは見るからに、無残な顔をした醜女だった。

 賽の河原に堆く積まれた、礫のようにごつごつとした、肌は申し分もなく、皺くちゃで肌質もくすみ、色つやも頗る悪い。

 首筋まで長い髪の毛が垂れ、ふさふさとした前髪から垣間見える、その米粒ほどの眼に生気はなかった。

 まず、色がない。

 山の姫は血涙が滲むまで、哀しみに明け暮れ、深淵に自ら飛び込み、泡沫の水泡となった。

 そういう真偽さえも疑わしい伝説だ。



「君を捨てた人じゃないよ、僕は」

 なぜ、口から出た駒のように言ってしまったのか。

「僕は顔だけで人を判断しない」

 もし、僕の顔が後ろ指を指されるような、醜悪な顔だったのならば、身体も綺麗なままで面目を保てたかもしれない。

 他者から褒められるような顔立ちだろうが、なかろうが、口を噤むような穢らわしい、痴情の罠に僕は嵌ったのだから。

「あの人は見かけだけで人を見るけれども僕は違う」

 なぜ、繰り言を言い出すのか、皆目、分からない。

 怖いから?

 否。

 まだ、軋轢を心の底から許せていないから、強気になっているだけだ。

 殻を破れない、僕は正義に対して強く、武装するしかなかった。



「あなたは誰かと肌を合わせましたね。それも奥深く」

 万朶の桜が散れば、何もかが終礼する。

 僕の身体がもう腐り果てている、暗黙の了解に気づいたんだろうか。

「美しい桜でしょう? 私の妹もこのように麗しく、可憐でした。しかし」

 桜の美しさとは、対照的に嗄れ声はちっとも、似合っていなかった。



「この花もいつかは散るのですよ。瞬く間に。人の命もそうやって、散ってしまうのです。妹は晩年、紅葉を散らすような美貌さえ、文字通り、失われてしまったのですよ。あの方はわずかな合間しか、仲睦まじく、契った妹を愛さなかったのです。男とは所詮、そんなものですか」

 この移ろいやすい世で、最も醜い姫は僕に近付いた。

 厳格な司令官の無茶難題の命令に逆らう、兵士のように足がすくみ、小指さえも震えなかった。

 自分が保有する、身体の一部分なのに反応に意に介していない。

 ちょうど、ハイスピードで走行していた、SL列車が幾つかの時代の茶色い戦争で急停止したかのように。



「まあ、麗しい顔ですこと。これからのあなたが歩む道のりで、かなりの女人が恋慕の犠牲になるでしょうね。まあまあ、そんなに唇を固くなさないで。ちょっと、疲れたでしょう。育ち盛りの少年ですから、少し骨休めになっても」

 身体が重力を封鎖したかのように宙に浮いた。

 手もぶらぶら、足もぶらぶら、僕はそのまま、蓮華畑に倒され、背中に蓮華草の花束に当たるのが、直通で分かった。



「あなたは自信がないのです。誰とも打ち解けたくない、と思いながらも、心の奥深いところで他者を求めている。……ならば、私がその重要な役目を担ってもお良しと?」

 僕は洒落にならない、悪夢を見ているんだろうか。

 この人里離れた山奥で、自己制御を失いかけているのだろうか。

 彼女の老婆のような手はごつごつと山となり、手の甲には、斑模様のホクロが集中している。

 本当に岩のようだ。

 毒蛇の抜け殻のように、目線を背けたくなる手。



「あの人に似ておられる。ああ、そっくり。そっくり」

 疎外されるまもなく、姫の汗ばんだ手から、学ランのボタンを開けられ、微風が胸板に侵入する。

 嬉々とした表情が、真上の姫の歪んだ笑みから伝わり、肌が冷涼な空気に触れる。

 目の前には顔が言うまでもなく、醜女の顔があり続けたし、その小さな豆粒のような、目元や皺くちゃの頬、潰れた団子鼻としぼんだたらこ唇、はっきりと見えた。

 硬くなった肌かさの悪い手も僕の胸に中に入ったとき、身体は切り裂かれるような激痛が走った。

 同時に背中で踏んだ、蓮華草も八方塞がりに千切れていく。

 筆舌難い、強固な力が僕を支配した。

 何の了解もなく、勝手に触れられる、淫乱な行為そのものは慣れているけれども、その新たな淫靡な振る舞いに遭遇するとき、常時、初夜のように酷く、執拗な手触りが、荒れた吐息が、その辛辣な目線が、何より弄ばれている、僕の体躯が震え上がるほど、逸楽を幾度もなく感じるのはなぜだろう。

「怖いでしょう。怖いですもの。人と触れ合うときは怖いものです」

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