花天月地

第13話 いざ、花園へ

 初めて草苺の花を見たとき、胸は天衣無縫な子供のように高鳴った。

 白い花びらが若草の山からこっそりと咲いていたからだ。

 新生活にようやく慣れた頃、通学路を通ると、その白い花が何の前触れもなく、赤々と照らす、ルビーのような赤い実に熟していた。

 小さな木の一朶によじ登って、木苺を何粒も摘まみ、片方の手で臙脂色のハンカチの中に入れ、たちまちハンカチは、春の喜びが詰まった花籠に変身した。



 山際から下りると、切り株に座り、木苺を口の中に入れた。

 甘い汁がじんわりと口の中いっぱいに広がり、その食感を思う存分、堪能した。

 この実を潰して、ジャムにしたら美味しいそうだな、と僕は思い立った。



 春の夕間暮れは静寂、という生絹を丹念に、時間の縦糸と歳月の横糸で織っていた。

 銀鏡川から水音が聞こえ、名前を知らない、千鳥が鳴き続ける声もする。

 春なのに冷たい風が吹いたので、くしゃみをした。

 自転車で駆け上がり、強力な力でペダルを漕ぐと奥山からおーい、おーい、と謎を秘めた胴間声が聞こえた。

 猫背になった背筋が急に伸び上がる。

 逢魔が時だ。

 物の怪が跋扈する異界へ、僕は僧侶に虐げられた稚児のように、天狗風によって連れ去れる。

 双眸を本能的に瞑った。

 思考回路は停止し、矯激な声は無神経に、鼓膜に届く。

 おーい、おーい、と耳障りなほどに纏わりつき、鳩尾と鼻柱がくらくらし始め、その相反する、陶然とした声は走馬灯をリフレインするかのように叫喚した。



「ここからは花園でございます」

 耳鳴りを宙で振り払いながら、両輪のペダルを弱めよう、と作用点に抗った。

 ペダルのスピードは一向に変わらず、もっと速いスピードで加速し始め、脳裏には絶対的な恐怖が舞い込み、虎の尾を踏みそうになった。



 このまま、走れば岩肌にぶつかり、身体は大きく道を踏み外してしまうだろう。

 加速したままの自転車の突風を浴びながら、身体の軸を大きく揺さぶり、ハッと瞼を見開いた。



 そこは辺り一面、見張るような花畑が広がっていた。

 畝の隅々までに蓮華草が咲き誇り、極楽浄土に咲き乱れる、沙羅双樹のように時空を培っていた。

 青みがかった濃淡が絶妙に混ざり合う、ミニチュアの蓮の花のような、可憐な野花。

 もう少し、時を許せば、逆鱗に触れられたコンバインによって刈り出され、土くれの一部と吸収させてしまう、白露の花。

 その引き裂かれた葉脈も空の肥しとなり、夏を到来させるための、新しい生命に溶けていく。



 田路の十字路の畦道に、一本の枝垂桜の大木が、金字塔を打ち立てた、大家が晩年、渾身の力を注いで描いた遺作の、果てしない天井画のような構図で生えていた。



 桜の下枝を折ったら、その小枝から血が流れるらしい。

 その死体の主は誰なのか。

 観衆を惑わす美には必ず、猛毒があるように、この枝垂桜も恨み嘆いた、閨怨の女郎のような妖気を纏っていた。



「あなたはまだ妄執に囚われているのですね」

 桜の木の下にいる、その女人は後ろ姿からでも、醜悪な容貌を想像できた。

 まさか、この人があの。

「お母さまはあなたを憎んでいました。己の人生を狂わせた、あなたを途轍もなく恨んでおりました。あなたはまだ己の出自について、ご存じないのですね」



 黄金色の冠を巨大な頭上に携え、不似合いな桜色の打掛、緋色の袴を身に纏った、女人には黒い影がなかった。

 メトロノームが急激にフォルティシモに変調するかのように、心音が聞こえた。

 僕の両足は金縛りのように動じない。

 おーい、おーい、と妖魔の声はさらに音量を上げ、鼓膜に接近した。



「山の精霊たちがあなたを歓迎しているのですよ」

 いいから、目を逸らすんだ。

 その眼と僕の眼は、一抹たりとも繋がってはいけない。

「私のことをあなたは知っているのですね?」

 はらはら、と怪しげに花びらが僕の頬に触れた。

「あの方が……、私をこんな風に」

 かすかに滲む息が止まった。

 山林から吹く、緑風の音も消えた。

「あなたはあの人と同じですもの」

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