第10話 藤浪、風光る
風薫る皐月の頃、僕は伯父さんと何度か、山に行った。
伯父さんは張り切って狩猟のこと、山にいる生き物のこと、林業の大切さを教えてくれる。
もちろん、未成年だから銃は扱えないし、狩猟の時期ではないので、獲物を捕らえることは出来ないんだ、と伯父さんは丁寧に教えてくれた。
藤の花が咲き乱れる五月晴れ、森羅万象と調和する生命は躍動に溢れ、深山は大地のための讃歌を口ずさんでいた。
藤の花は水上に沿って、重たげに揺れ、シャガの花が木陰の軒先に輝くように咲き誇っていた。シャガの花は最初、園芸用の花じゃないか、と勘違いしたくらいだった。
この花を見かけたら、僕は家に持って帰るようにしている。
あくる日、何本も摘んで自分の部屋に飾っていると、活けた花瓶がテレビのある部屋に移動していたので、ほんのりと嬉しかった。
集落の民家の土手には、多彩な躑躅が咲いていた。
初めて来たときよりも、森は夏めいて、四季折々のノスタルジックな民謡を唄っていた。
週末の暇に宿題をすぐさま、終わらせ、自学学習をしたり、読みたかった本を読み耽ったり、それでも暇だから、銀鏡地区を散策していたりした。
まず、銀鏡神社に出向いた。
近くには小さなお社があり、滾々とした泉が湧き、小川も流れていた。伯父さんが教えてくれた、仏法僧が遠くの森で鳴いていた。
誰一人いなかった。持ってきた本を読んで終日、境内で過ごした。
そのとき、青葉が目映く、瞳の奥に古風なシネマの貴重なネガとして残った。
今日は特別だ。
連休中も何もする予定はないし、興味もあったから、伯父さんの仕事場まで見学に来たのだ。
「辰一君にも猪を解体するところを見せてあげるよ。いつか、見せられたらいいな」
タオルで汗を拭きながら、伯父さんは蒼穹に向かって、話しかけた。
「辰一君は野生の猪を見たことがないだろう? 大きいんだぞ! ウリ坊でも大きな犬くらいあるんだ」
本当に伯父さんは根っこから、山が好きなんだ、と僕は感心した。
早朝から軽トラックに乗って、山の尾根付近まで登頂した。
赤石が剥き出しに晒された、更地に軽トラを止め、しばらく歩き、木立の奥へと突き進む。
清らかな水脈が流れているのが見えた。
これが源流だろうか。なだらかな水面にはイエローグリーンの色をした水草が、自己主張するかのように揺れていた。
何も汚濁のない、ナチュラルな小川。
「この川の水は飲めるんだよ」
伯父さんは慣れた手つきで、空のペットボトルに真水を入れこんだ。
伯父さんは適量に達すると、ペットボトルを利き手で持ち上げ、一気にそれを飲み干した。水はあっという間になくなり、リュックからもう、一本のペットボトルを取り出した。
「辰一君も水を汲んで飲んでごらん。山の水は美味しいよ」
僕も伯父さんの真似をして、青々と漲る、水底にペットボトルを沈めた。
「両手で持つといいよ」
助言通りに実践すると、たくさんの水が水を得た魚のように入ってくる。
滴り落ちた雫が手の甲に当たり、触れると透明な真水は、細い指をひりひりと濡らす。
地下水が天界を目指してこんにちわ、と拝礼するかのようだ。
流れ落ちた水は緩慢に川下に流れていく。
「山の水は甘いんだよ。身体にいい、ミネラルがふんだんに入っているから。こんなに美味しい水は銀鏡だけだよ」
咽喉には冷涼とした、感触がしっかりと残り、胃が水で満たされている。
「すごく美味しいです」
「だろう? いつか、辰一君に見せようと思ったんだ。ああ、もうすぐ昼前だな」
森の中は涼気に満ち溢れ、爽やかな緑風が吹いている。
万緑の季節。山笑う。
風はそよぎ、草葉は朗らかにラプソディーの小節を歌う。
翠色のフラスコのように若葉は萌え、うなじを撫でる、山間の霊気が僕を清らかに詣でさせた。
見晴らしのいい、天辺で弁当を食べよう、と伯父さんから提案があったのでさらに歩き続けた。
「辰一君は学校に慣れたか?」
もう慣れました、と伝えると、タイミング良く、お腹の虫が鳴った。
弁当は茉莉子さんと正子さんが朝早くから、仕込んで作ってくれた。
正子さんも茉莉子さんも悪い人ではない。
義展さんも学校に登校するときも、大きな声で挨拶してくれるし、会うたびにあれこれ山の豆知識を教えてくれる。
「珍しい授業があって、楽しいです。理科の時間にみんなで裏山に上るなんていいな、と思っちゃって」
「俺は根っこからの山の子だったから、裏山に行っても、何の感動もなかったけど、今でも理科の授業では裏山に行くんだね。いい勉強になるだろう。辰一君、神楽で奉納する猪の頭は俺たちが採るんだぞ。毎年冬になると、狩猟のシーズンになるんだ。何で、猪の頭を奉納するか、分かるか?」
切り取られたばかりの、命の緒。
荒々しい太古の森の神にでも、僕の心臓を選ばれし生贄として捧げられたら、この世の煩悩も消し去ることができるのかもしれない。
「もののけ姫に出てきますよね。アシタカとサンが最後、シシ神の首を返す場面が」
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