第9話 夜半の帳の物語

 その日の夜、真っ白で染められていない、ノートに君の名前を書き出してみる。

 穢れを一切知らない、天使のような子。

 大学ノートに今日あった、出来事や日常を綴るのは、僕にとって苦痛な作業ではなかった。



 透明度の高い南洋の海で、泳ぐ色鮮やかな熱帯魚の群れのように、走らせた文字を丁寧に書く。

 言葉を綴るだけで、太腿から上部がいじらしくなり、どうしようもない、情けと貪るように遊んだ。

 生まれて初めてだった。

 こんな風に胸が焦げるような、思いに駆られたのは。



 君は野原に咲く、春風に吹かれた、蒲公英のように可愛い。

 役目を終え、綿帽子になってもみんなを楽しませてくれるんだよね。

 そんな文章を綴ると、恥ずかしい言葉を書きすぎた、と内省した。



 恋をしたのだよ、お前は、と僕は心の内にある耳元で囁く。

 神様って皮肉だな、こんな熱情を与えるんだから、とエメラルドグリーンのシャープペンシルで、ゆっくりと書いた。

 考えすぎだ、お前は、と僕は僕を諫める。



 疲れたので、抽斗の奥にしまってある、文庫本を取り出すと、開かれた春宵の窓辺から桜の花びらが舞い込んできた。

 読みかけの小説、かなり表紙が傷んだ『午後の曳航』。

 小学生の頃には読めなかった、背伸びした小説でもある。

 熟読し終えると、机の上に置き、檸檬色のノートのページを開いた。

 小学生のときに書いた、幼い字で記されたページ。

 紙の上に上書きしても、もちろん、あの頃の僕から返事はない。



 夜半の帳の物語はこの世のピリオドを打つまで続く。

 残酷な神話に冷酷非情な心がほのかに揺れ、しまいには恋路に溺れる、深窓の姫君の逸話を。

 黒髪の姫君は篭絡され、血の涙を流し、皇子とは逢えず、独りきり、永訣の朝を模した悲歌を諳んじる。

 四肢の軸が壊され、醜聞を押し付けられ、貪婪な蝮の噛まれた餌になったここ。

 少年のなよなよしい身体から、未来への展望を振り切る、青年の陰画へと変貌しつつある、ここ。

 僕はたまに触れてはいけない、心の赤い鍵を触ってしまうんだ。

 決して、自分が選択した指針でもない、決定的な何か。満天の星。



 椅子から離れて、押し入れに隠してある、アザラシのぬいぐるみを取り出した。

 表面も噛まれた跡がある、小さい頃に水族館で買ってもらったぬいぐるみだ。

 水族館で他の子供が、次々と欲しい物を買ってもらう最中、幼い僕は口を加えて、じっとアザラシのぬいぐるみを眺めていたから、とうとう、店員から声をかけられた。

 僕、欲しいの? と若い女性店員は優しくアザラシのぬいぐるみを僕に渡した。

 あの人はすぐさま、迷惑そうに血相な顔色を変えたが、幼い僕は泣き出してしまい、その場に座り込んだ。

 そのときに泣く泣く、買ってもらったぬいぐるみ。



「お前は母さんが恋しいのかい。母さんと引き裂かれたから鳴いているんだね」

 独り言が妙に白々しい。

 椅子から立ち上がり、よろめきながら、蒲団の上で横になった。

 襤褸切れのような毛布と格闘しながら、ぬいぐるみに抱きついた。

 ――君の母さんが悪党に命を奪われたように僕にも本当の母さんはいない、いないんだよ?

 吐息を締め付けるように苦しい。

 きりきり、と横隔膜から切ない濁音がする。



 行き渡る気管という気管が硫酸で爛れ、グシャリと鉄板で押しだされたような、激痛が視界を走る。

 ――僕じゃ、母さんの代わりになれないね、母さんはこの世の中でただ一人だけだから、と声をかけても返事はなかった。

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