第5話 叡山菫
伯父さんの解説は取り分け、逸品だった。
僕も見習って慣れないながらも初めて、対面する山の豊潤な恵みを分けてもらった。
「ほら、ビニール袋に入れてごらん。根の奥から強く引っ張って採るんだよ」
思い切って、右足を使って抜いてみると、蕨が抜けたので、気付かないうちに歓声が出ていた。手の平が蕨に当たり、チクリチクリ、と小さな痛みをもたらす。
慣れない動きの結果、明日は筋肉痛になるかもしれない、とふと、予感した。
赤土が露呈した窪地には、小さな菫が咲いていた。
市街地で見るような鮮明な紫色ではなく、花びらが夏雲のように白く、ギザギザの花弁になっている。ちょうど、ヨーロッパの瀟洒な庭園にある、洒落た鉄製のオブジェみたいな菫だった。
「この菫は持って帰っても枯れちゃうんだな。やっぱり、花はそこで咲く運命があるんだよ」
誰か、こんなに綺麗な花を摘んで、帰った人がいたんだろうか。
「誰か、この白い菫を持って帰った人がいるんですか」
「千夏だよ。千夏が四歳くらいのときに花壇に植えたんだ。すぐに枯れちゃったけどな」
それを聞いて、僕は尋ねなければ良かった、と猛烈に後悔した。
あんな奴、綺麗なものにはまるで、興味がなさそうに見えるから、と背中にへばりついた、透明な汗のじれったさに翻弄されながら冷静に分析した。
「綺麗な花。僕にはないものがある」
それは知らず知らずのうちに吐いた、言の葉の露だった。
「辰一君はメルヘンなんだな。まるで、小さい頃の千夏にそっくりだ」
あの人と僕が似ているわけがない。あんないつも男と肌を擦りつけ合うような奴なんて、こっちから問答無用だ、と小さな怒りを秘めると、少し斜面からこけそうになった。
春の夕の透徹した、境界線は暗紫色に線引きされ、レジ袋の中は蕨と薇で、こんもりと膨らんだ。
このまま、烈風を浴びて死んでしまえたら、僕を取り巻く、穢れた身体も最後には、黒く湿った土に戻るだろうか。
「僕はこんなに山菜を食べたことがないです」
春夕焼は釈然としない、僕の前髪を天鵞絨のように染め上げた。
「昔はこんな山奥では、生野菜が取れなかったから、こうやって、山菜で露を凌いだのさ。辰一君は都会育ちだからな。知らなくて当然だよ」
「伯父さんの名前は何ですか」
話の展開を変更しても、伯父さんはちっとも、罰が悪そうな顔をしなかった。
僕はその快活な顔を見て、ほっと安堵した。
「伯父さんは辰弥っていうんだよ。亡くなった俺の親父の名前、辰彦の一字から取ったらしい。親父は銀鏡神楽の祝子(ほうり)で、生前は取り分け一人剣に迫力があったことで有名だったんだ。あっ、祝子の意味が分からんな。祝子は銀鏡神楽では舞い手のことを指すんだよ」
林業一本で今まで暮らし、意力を宿しました、と言わんばかりの山の男だ、と僕の心の中で喝采を送った。
幾星霜も山林を駆け巡り、峡間の大木に登り、清潔な汗にまみれ、首尾一貫、奥山の営みにその強靭な力を捧げてきた、惚れ惚れするような、屈強な男。
あの人の類似点は?
全然似ていない。
本当に正真正銘の兄妹なんだろうか。
「伯父さんは千夏とは十歳も離れているんだよ。可愛いものだったさ。伯父さんの口元と千夏の口元はよく似ているだろう。辰一君ともそっくりだ」
伯父さんの指摘に邪気はなかったけれども、何となく、罰が悪かった。
僕とあの人は金輪際、似ていない。
血縁は母と子、という関係性を照らし合わせれば、色濃く引いてはいるかもしれないけれども、根本的にあの人と僕は違う。
僕は肩に震えを刻み込んだ。
あんな人からこの世への切符を贈呈されたくはなかった、と峻烈な悪寒は止まらない。
「帰り際にタラの芽の木があるから、採って帰ろうか」
伯父さんは僕の荒んだ内情を察したのか、心配して声をかけた。
「タラの芽ってあの高級食材の、タラの芽ですか?」
僕がつい、持ち合わせた豆知識を披露しても、伯父さんの瞳の奥に嫌味は滲み出なかった。
「物知りだね、辰一君は。勉強もよくできるんじゃないか。将来が楽しみだな」
勉強ができる、という言葉に野暮なお世辞はなかった。
勉強の一件で僕を取り巻く大人たちから褒められても、その瞳の表面には所詮、あの人の子供だから、という嘲笑が常に入り混じっていた。
伯父さんは全身全霊の言葉で褒めてくれる。
定期考査で何度か、首席になってもあの人は男たちから贈り物を貢いでもらうほうに忙しく、僕の将来へ関心の一欠けらもなかったからだ。
「今夜はタラの芽の天麩羅だな」
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