18
随分と離れたはずなのに舞華の甘い香りが漂ってきた。思わず小走る足を止めそうになる。執着なんだ。この香りは、僕がまだ舞華を心の中に閉じ込めてしまっているからなんだ。いや違う。扉はもう開いている。だから早く、一刻も早く僕の中から出ていってくれ。
もう声は聞こえないだろうと耳栓を外した代わりに、鼻を力強くつまんで舞華を追い出そうと必死になった。
ごめんなさい。さようなら。
「よく言った」
彼女は耳元でそう囁いた。吐息がくすぐったかった。
別れても尚、僕を苦しめ続けた元恋人。それでも、愛し続けてしまった最愛の人。僕の言の葉で傷つけてしまった忘れたくなかった人。どうか、どうか、僕の世界から溶けて消えてください。そして、幸せにならないでください。
「さっきのさ、事実にしてもいいなって」
帰りの車内で、シートベルトを装着しながら彼女が言った。
「さっきの?」
「私たち付き合ってるの、ってやつ」
「いやいや」
「どう?」
「さっき、元カノとケジメつけたばっかなんですけど」
彼女は、そっかと息のような声で言った。
彼女は綺麗だ。こんな恋人はどこの誰からも羨ましがられるだろう。でも、今の僕はまだ、舞華の匂いを僅かに忘れられないでいた。
「あとさ、名前知らないです」
「ん? あれ、言ってなかったっけ?」
「気づけよ、です」
彼女は、がはははと笑った。そんなに笑っているのは初めて見た気がする。
「ごめんごめん。一原だよ」
「イチハラ?」
「数字の一に、野原」
「一原さん、そういえばこの前、一原さんの部屋から男の人の声がしたんですけど、恋人でも出来たんですか?」
「いや、今付き合っても良くない? って会話しなかった? ていうか盗み聞き? 趣味悪いよ」
「違う、違いますよ。聞こえてきたんです」
もちろん、耳をすましていたことなんて言えるわけもない。
「恋人はいないし、多分七海くんが聞いたのは高校時代の同級生が遊びに来てた時のだね。彼は友達だよ。蒼斗っていうんだけどね」
帰り道、県境のトンネルを抜けると、突然豪雨に覆われた。大粒の豪雨だったので、通り雨だと思った。一原さんに天気予報を確認してもらうと、やはりすぐに止むようだった。
山道の道路沿いにあった小さな空き地に駐車し、二人して豪雨の中に飛び出した。大きな笑い声を雨音に掻き消されながら、僕らは車の上に登って雨に真っ向から打たれた。体に穴が空きそうなほど強く降り続く雨に身を委ねた。目を瞑っていても、鈍色の空がはっきりと見える。絵の具で乱暴に塗り殴ったような空。この雨もきっと鈍色に濁っていて、僕らはみるみるうちに空と同じ色に染まっていく。知らない色が僕を満たしていく。そして、隣で笑う一原さんも僕と一緒になっていくのが心から嬉しい。不穏な想いが鳴らす音が雨音に消されていく。物凄く痛いけれど、この雨で僕の体に染み付いている舞華の匂いが流れてくれればいいなと思った。
「そういえば、何で僕の名字知ってたんですか!」
僕は雨音に負けないように、出したことのないくらいの声で叫んだ。濁った雨が僕の体内を巡っていく。
「アパートの表札!」
一原さんの中にも巡っていることを願う。
二人して息を上げながら、それでも笑い続けた。いつもどこか上の空で、ここには居ない誰かを探しているような一原さんも素直な笑顔だった。僕はその人のことを知らない。知りたくない。でもその誰かは、机の裏のガムのように一原さんの心の内にしつこくこびり付いているのだろう。得体の知れないガムをいつか取ってあげたい。
車の上で鈍色が蕩けていった。でも、僕の目に映る世界はまだ少し色素が薄く感じられた。
それからの車内は、さっきまでとは打って変わって沈黙が続いた。二人とも後悔していた。でも、経験したことのないくらい楽しかった。
一原さん。僕は貴方に救われました。いつか、僕も貴方を救いたいです。その時、一緒に居られなくてもいいんです。でも、この恩は必ず返します。
アパートに到着すると、一原さんは「またね」と言って隣の部屋に転がり込んでいった。夕飯を一緒に食べるとか、今日は飲もうとか、そういう流れになるとばかり思っていたけれど、終わりは呆気なく告げられた。
ふと、彼女の部屋の表札を見た。半年くらいこのアパートに住んでいるのに、表札があるなんて知らなかった。
彼女の部屋の表札は、無数に削られた跡が付いている。かろうじて読めないこともないけれど、意図的に削ったとしか思えない傷跡。
スマホが、テロリンッと鳴った。
大学の売店には、甘い香りに誘われた蟻のような行列ができている。昼食を買おうと、六号館から売店まで蕩けるような思いに苛まれながら歩いてきたというのに、購入意欲が跡形もなく消え失せた。
昼食が食べられないと分かると、午後の講義に出席するのが馬鹿らしく思えた。夏前はバス通学だったので四限終わりにしか来ないスクールバスを待たなければならなかったが、今や車通学に成り上がったので気にする必要はない。
僕はエンジン音で世界のあらゆる音をリセットしてから、家路についた。
アパートの駐車場に停めて階段に足をかけた時、このまま家に入るのもどうかと思ってしまった。
仕事中らしい車たちが忙しなく行き来する大通り沿いをゆっくりとした足取りで歩く。夏と比べると少しは涼しくなっているけれど、まだホットコーヒーは飲めそうにない。
カップルらしき男女が、こちらに向かって歩いてきているのが見える。男は、白Tシャツに紺色のハーフパンツとサンダル。髪は短くカットされていて、右に流された前髪が小刻みに揺れている。女は、小さな花柄が入った緑のワンピースとサンダル。肩を過ぎる長い髪は緩やかに巻かれていて、女性らしさがムンムンと出ている。こんな暑い太陽の下で、付き合いたてのようにくっついて楽しげに何か話している。二人の愛も夏の日差しのように熱いってか。すぐ冬が来ちゃうぞ、なんて意地の悪いことを考えた。
よく見てみると、サンダルがお揃いのものだった。恋人とサンダルを揃える発想なんて無かった僕は驚いた。
顔が認識できるくらいに近づくと、女性の背中から小さな顔が覗いていることに気づく。赤ん坊だ。気持ちよさそうにすやすやと眠っている。カップルだと思っていたけど、夫婦だったのか。街中でいちゃつく夫婦なんているんだなあ。
三人家族の背中を見つめる。幸せを全面に押し出していて、彼らの周りだけ爽やかな朝で覆われているようだった。あんな風に、舞華と幸せな家庭を築くのだと思っていた。母親になった舞華もこれまで通りに愛し続けて、できるだけ優しい言葉をかけてやって、学生時代と変わらない舞華の笑顔を愛おしく見つめる日々を送るのだと。しかし、その未来は儚くも汚く散ってしまった。汚れた僕らの未来は決して爽やかではなくなった。あの日見た花火も、今となっては汚い花火だったようにも思えた。
扉を開けると、カランコロンとドアベルの爽やかな音が鳴った。いらっしゃい、というマスターの声に会釈してからカウンター席に腰を下ろす。リュックから文庫本を取り出してテーブルの上に置いたところで、マスターが水とおしぼりを出してくれた。
「まだまだ暑いですねぇ」
マスターの穏やかな声が頭上から聞こえた。
「午後の講義サボっちゃいました」
「そうですか」
マスターはニコリと笑ってみせた。穏やかさの権化みたいな人だ。
僕はアイスコーヒーと、少しだけ腹を満たそうとシフォンケーキを頼んだ。それから文庫本を開く。恋愛中毒。本屋でたまたま視界に入ったこの本のタイトルに惹かれ、衝動買いした。最近の本ではないけれど、当時は話題になったみたいで、表紙には「多くの女性の共感を得た問題作!」と書かれている。最近は、映画でも小説でも「問題作!」が多い気がする。そんなにどれもこれもが問題作であってはならない。
半分ほど読み進めたところで、一度文庫本を閉じた。少し休憩しよう。
アイスコーヒーは氷が溶けて薄くなり、グラスは汗をかいている。
「何読まれてるんですか?」
「恋愛中毒ってやつです」
「ああ、割と古い本読んでなさるんですね」
「知ってます?」
「もちろんです。大変話題になりましたから」
マスターは、洗い終わったグラスを清潔なタオルで拭いていく。
「読みました?」
「それはそれは。何回も再読し続けました」
「好きなんですね」
突然、グラスを拭く手を止めた。僕はまばたきをする。どこを見ているわけでもなく、失われた過去に囚われているような黒い目を瞑った。そして、またグラスを拭き始めた。
「随分と愛してしまった人が持ってたものでして」
「奥さんですか?」
不躾なことを尋ねてしまったかもしれない。マスターの顔が一瞬曇った。
「いえ。学生時代に交際していた女性です。妻とはまた別の」
僕は言葉を飲み込んだ。
ああ、この人も同じだ。苦しい恋愛をした人の顔だ。毎朝、洗面所で見る自分の顔に似ている。目だ。彼の目と僕の目が似ている。
「あの、変なこと聞いてもいいですか?」
マスターは僕の目を見てすぐに逸らした。
「返答の質に期待はしないでくださいね」
グラスに映る歪んだ自分の顔を見た。
「幸せになれないと分かっていても、淫らな関係にしかならないと分かっていても、雰囲気に流されない人っているんでしょうか」
店内に他の客はいない。僕とマスターの二人だけだ。カウンターには椅子が四つ。テーブル席は二つで、それぞれに椅子が二つずつ。こじんまりとした店には、僕以外の客を見たことがない。
「いらっしゃるでしょうね」
キッチンの奥には古びた扉が一つあって、隣の古本屋に繋がっている。
僕は黙り込んだ。
「でも、その方は強い方です。意思を持ってる方なのだと思います。しかしね、私のように弱い人間たちは流れに流されるしかないんですよ。でもそれは私が下した決断となります。だから、私自身が責任を取らなければなりません。良くも悪くもね」
バイト先のカフェとは違った、ジャズィな音楽が流れている。ここの音楽は気取ってなくて落ち着ける。
マスターは何かを思い出したように掛け時計を見上げた。その様子は、まるで時計の針が逆向きに回転し始めることを待っているようで、決して現在の時刻を気にしたわけではなさそうだった。
「でも私ね、流されるって一概に悪いことじゃないと思うんですよ。意思があるってのも良いと思いますけど、流された先に知らなかった場所やモノがあったりしてね。楽しいこととは限りませんよ? 苦しいことかもしれないし、嬉しいことかもしれません。でも、いつかは自分の成長に繋がるもんです」
じゃあ…と僕が言いかけた時、扉がゆっくり開いてカランコロンと涼しげな音が鳴った。同い年くらいの青年がそそくさと端のテーブル席に座った。深く被られたキャップの下から覗く目と一瞬目が合った。彼の目は光が無くて、ぽっかり空いた穴みたいだった。
残ったアイスコーヒーを一気に流し込む。乾いた喉に珈琲が流れていくのが鮮明に感じられた。受け取ってから随分と時間が経っているはずの珈琲は、水星の味がした。
「マスターも流されてしまったことあるんですか?」
「明白です。何度も何度も流され続けました。天国を見るために快楽に溺れ、歪んだ愛を育み、その歪みは決して元に戻ることはなく、最終的には地獄を見ることになりましたけれど」
少し茶色く濁った氷を見下ろす。それは僕自身みたいだった。
「でも生きてるんですね」
「生きることを選びました」
「選べたことがすごいと思っちゃいました。僕は正解を選べるとは思えないです」
笑おうと思ったけれど、どうしても苦くなってしまった。いつも僕は苦い。苦くて汚くて絶望に浸った笑みを浮かべる。もっと、夜の水面に揺られる月のような綺麗な人間になりたかった。
「いいや。選択に正解も不正解もない、と私は思っとります。選択は人それぞれなんですよ、お客様。もし、選択の先に後悔が待っていたのだとしても、それは貴方が選んだ未来。ですから、周りに何と言われようと、貴方は貴方が信じた道を行けばいいのです。そりゃあ、責任は自らに付いてくるものではありますが、貴方の人生は貴方のものであり、決して愛した方のものではありません」
やけに静かだ。さっきマスターが見上げた掛け時計を僕も見上げる。秒針は止まることなく、そして逆向きに戻ることもなく、右回りに歩み続けている。
「とりあえず、今の道を進んでいようと思います」
「それでいいんです。そして選択には必ず結果が伴います」
「それは必ずしも良いものとな言えないですよね」
「その通りです。真っ暗な闇かもしれませんね」
「闇は嫌ですね」
「そしたら、光が差す場所を探すだけです。何も見えない闇だとしても、どこかには、いつかは、光が差すものですから」
マスターは自然な笑顔をしてみせた。それは凄く穏やかで、青ざめた僕の心にも、少し暖かな日差しが照らされたように思った。
「おかわりください」
僕はからからに乾いたグラスを持ち上げた。
揺れぬ蜉蝣 キズキ七星 @kizuki_nanase
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