17
「なんで?」
店長の怪訝そうな顔に、冷や汗をかく。
来週の水曜日のシフトをキャンセルしたいと申し出たところ、今までニコニコしていた店長の顔が急に歪んだ。店長は、ムラのある白髪を揺らしながら珈琲を淹れている。その横で、僕は両手を腰前で重ねて立っていた。
「入れるって言ってたじゃない」
「すみません。外せない用事が…」
店長はその鋭い目で僕を睨んだ。僕は少し目を細める。
まだ採用されたばかりのカフェで、シフトの変更を申し出るのはさすがに失礼だとは思ったのだが、その日は休まなければならなかった。まだ舞華が側に居てくれた頃、舞華が行きたいと言ったお洒落な村に出かける予定だった日だ。村というかショッピングモールというか、とにかく最近オープンした施設らしかった。先月にシフトを出したあとに話が出たっきり、変更するのを完全に忘れていた。
「絶対外せないの?」
「すみません」
店長はドリップを始めた。店内から微かに聞こえるチルな音楽は、今の僕の状況とは全く合っていない。全然チルじゃない。
店長は呆れた様子で、分かったと言った。申し訳ないです。すみません。と何度も心の中で謝った。
「ありがとうございます」
僕は深々と頭を下げた。やけに磨かれた店長の革靴が目に入った。靴も床も壁も不自然な程に綺麗にされたこの空間は、珈琲を飲んでチルになれるのだろうか、という疑問が湧いた。テーブル席やカウンター席に座る大学生や帰宅途中のサラリーマンたちは、落ち着いた表情で本を読んだり珈琲を喫ったりしている。
僕は、綺麗な生活をしている人間が苦手だ。朝決まった時間にしっかり起床して、皺の無い服を羽織り仕事や学校に向かう。帰りにお洒落なカフェで腰を沈め、ジャズィな音楽をBGMに珈琲を喫う。家の中は統一感のある家具が揃えられていて、模範解答のような夕食を取り、翌日のために日付が変わる前に眠る。僕には真似できないとつくづく思う。このカフェに来る人たちは、皆んなそういう類の人間に見える。僕から見たら、それはもうロボットのようにも思えた。
柄一つないシックな皿やカップを洗い流していく。洗剤で洗う必要があるのかと思う程に汚れていない。客の飲み方や食べ方が異常に綺麗なのだ。そういうところも、人間味が感じられない。
店長も同じだ。決まった時間に出勤して、決まった時間に退勤する。慣れた手つきで珈琲を淹れて、測らずとも決まった分量でスイーツを作る。この店のケーキとか他のスイーツは全て店長の手作りだ。六十四歳男性にしては、器用な人だと思う。一緒に働いていて、たまに本当にロボットなんじゃないかと思う時がある。しかし、怒る時は怒る。声を荒げることは全くないけれど、僕がミスをしたり今日みたいな失礼なことをした時には、分かりやすく機嫌が悪くなる。そういうところは、人間っぽい。
タイムカードを切って店を出る。汚れひとつ無い真っ白な壁で出来たこの店は、知る人ぞ知る人気店だ。敷居の高そうなこの店の面接を受けることは僕にとって気の進まないことではあったけれど、アパートから徒歩数分で来れて時給が高く、何よりも風間の知り合いが店長だということだった。友人の紹介だから面接は確実に受かるとのことだったので、前のバイト先で無断欠勤が続いてクビになったばかりの僕にとっては嬉しい話だった。
帰りに近くのコンビニに寄って、適当な夕飯を購入した。自動ドアを抜けると、バニラのような甘い香りが漂ってきた。知っている匂いだ。どこから来ている匂いなのか気になって辺りを見回してみると、どうやら灰皿の前で立っている女性が喫っている煙草の匂いらしかった。
女性はこちらに気づくと、ニコリとして手を振ってくる。気がつかなかった。通りで知っているはずだ。この間、隣のベランダから流れてきた煙草の匂いと同じだったのだ。
「やあ」
隣人は煙草を咥えたまま、フレンドリーな挨拶をした。
「どうも。知ってる匂いだったので」
「ああ、ごめんごめん。臭い?」
「いえ、お構いなく」
彼女はこの前と違って敬語ではなくなっていた。僕が年下だという確信が持てたからだろう。
「そんなきっちりした格好して、なんかあったの?」
「バイトです」
「え、なんの?」
「そこのカフェです」
「真っ白の?」
「はい。知ってるんですね」
白い煙がふわふわと浮かんでいる。こちらに流れてくる煙を吸ってむせてしまった。
「うわ、ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうにして、煙草を少し遠ざけてくれた。
「あ、気にしないでください。耐性がないだけなので。あ、でも、バイト先は喫煙OKなところなんで、そのうち免疫ついてくると思います」
「あそこ敷居高そうで行かないんだよなー」
僕とは反対の方向に煙を吐いた。煙はすぐに溶けてしまった。
「そうですよね。僕も行ったことなかったです」
「何であそこなの?」
「友達の紹介で」
「すごー」
彼女は自分から聞いてきた割には、あまり興味がなさそうだった。
「帰る?」
「帰ります」
「じゃあ、ご一緒に」
「はい」
部屋着だと思われるショートパンツから、白い足が出ている。胸の大きさがすぐに分かりそうなTシャツ。僕はボディガードの気分になった。
「露出多くないですか」
「そう?」
「そんな格好で夜に一人で歩いてたら危ないですよ」
彼女はフフッと微笑んだ。何がおかしいのだろう。
「似たようなことを言ってる人いた」
「元カレとか?」
「うーん、違うかな。しかも私に言ったわけじゃないんだけど」
「みんなそう言いますよ」
「その人は、やけに気にしてたな。フェミニストかと思ったもん」
懐かしそうに話すなあ、と思った。いつの誰の話をしているんだろう。
「そういえば、この前オープンした村みたいな商業施設、知ってる?」
「知ってますよ。今度行くんです」
「誰と? 彼女?」
彼女。そんな話はしたことがない。
ビールを飲んでいる舞華の横顔を思い出してしまった。寒気がした。
「いないですよ」
「あれ? 一緒に住んでるんじゃないの?」
「え、何で知ってるんですか」
「彼女と玄関先で会ったことあるもん。すごく可愛い子」
見られていたのか。何か話したのだろうか。彼女。隣人は今、舞華のことを彼女だと言った。ということは、舞華は僕と付き合っていると話したのだろうか。
「なんか話しました?」
「うーん、どうだっけな」
彼女は顎に指を添えて、首を傾げた。眉間に皺が寄っている。舞華が考え事をする時と同じポーズだった。
「彼氏が寝てるから買い物に行く、って言ってたかな」
「何でそんなことを」
「えー、分かんない。私がなんか話しかけたんだよ、きっと。可愛い子だったから」
「彼氏、か」
舞華のことがさらに分からなくなった。僕には、戻るつもりはないとか周りに話すなとか言っていたくせに、僕のことを彼氏だと言っていたのか。謎はまたさらに底を深くした。
「付き合ってなかったんだね」
隣人は空を見上げて言った。よく空を見上げる人だ。あまり星も見えない空の何を見ているのだろう。
僕も倣って空を見上げる。満ちた月が浮かんでいる。
「じゃあ付いていっていい?」
「は?」
「その、村」
「なんで」
「いいじゃん。暇だもん」
「はあ」
好きな人と行くはずだった場所に、一人で行くことになった場所に、まだ名前も知らない隣人と行くことになった。予想外の展開に驚いたのか、床に靴を引っ掛けてよろめいてしまった。
風に乗った彼女の香りが漂ってきた。舞華とは似ても似つかない香り。でも、良い香り。煙草を喫った後とは思えないような甘い香り。長い髪が微かに揺れていて、街灯も少ない夜道だというのに、しっかりとケアがされている髪は妖艶な光を魅せていた。眠たい目を開いてその髪の艶に見惚れていると、いつの間にかアパートに着いていた。バイバイ、と言って手を振る彼女の指は、白くて細くて脆そうだった。
あ、この間の男の声について聞きそびれた。
夏休みは、もう残り一ヶ月。まだまだ暑い日が続いている。
今年の夏は「暑い」という言葉では不十分な気がする。なんというか、「死」というものが気体として外気に満ち満ちている、といった感じだ。
町がゆらゆらと曲がっている。街行く人たちも、一緒になってゆらゆらと曲がっている。もうこれは、でっかい電子レンジの中だ。そのうち、チンッと高い音を出してこの揺めきが治るよう願った。
ピッピッ。ドアハンドルに手を翳すと、アンサーバックが起動した。車内に入ると同時にブレーキを踏み込み、エンジンをかける。ブオオオン、と燃費の悪そうな音が轟いた。すぐに冷房のボタンを押して、二十二度に設定する。風量は最大。生ぬるい、いや、ほぼ熱い風が吹き出てきた。風が冷たくなるのを待ちながら少し窓を開けると、酷く熱い空気がじりじりと肌を湿らせた。
シートベルトの金具が熱を帯びていて、火傷をしたかと焦った。音がなるまでしっかりと押し込み、ステアリングを握る。こちらも熱を帯びていて、「あっつ!」と叫んだ。
「うるさ」
助手席に座っている隣人は襟を煽っている。鎖骨が垣間見えて、ドキッとしてしまった。暑そうに顰めている表情は、どこか誘惑を漂わせているように思えた。
「とてもじゃないけど、ハンドル握れないです」
「涼しくなってから出発しよ」
僕たちは車内がマシな気温になるまで待った。
閉め忘れていた窓を閉める。スマホとカーナビをBluetoothで繋ぎ、ドライブに適していそうな音楽を探す。「Nulbarich」の「It’s Who We Are」は夏のドライブに最適かどうかは分からなかったけれど、格好つけてお洒落な曲をかけた。
ある程度涼しくなってきたので、ギアをDに入れてサイドブレーキを外す。クリープ現象に発車を委ねた後に、アクセルを徐々に踏んでいった。
高速道路を一時間半ほど走ると、目的地に到着した。そこは想像よりも遥かに広大な施設だった。まだ建設途中の場所もあるようで、到着してすぐに「また来よう」と彼女は言った。いつになるかは分からないし、実現するかも分からないけれど、彼女との次の約束に嬉しくなった。
キラキラ光るアクセサリーを見つけた彼女は、普段のクールな感じというか、サバサバしてる感じを一切持ち合わせず、アクセサリーに劣らない程に輝いた瞳ではしゃいでいた。その様子を一歩下がった場所で見つめていると、彼女の背中が舞華のそれに思えてくる。僕は犬みたいに頭をぶるぶると振って、舞華の存在を消し去った。
当てもなく歩いていると、ベージュで統一されたカフェが現れた。少し休もうかと声をかけると、左側に並べられた数多くのアクセサリーに釘付けになったまま頷いた。
僕はアイスコーヒーのブラック、彼女はアイスカフェオレを注文した。かしこまりました、と店員のお兄さんが爽やかに笑うと、「イケメンだ」と彼女が呟いた。
「ブラックって、どこが美味しいの?」
ストローを咥えた彼女は、真面目な顔で尋ねた。
「飲んだことないんですか?」
「ない」
彼女の瞳を見つめる。睫毛が長く、アイラインが綺麗に引かれていて、僕は夏のアイスクリームのように蕩けてしまいそうになった。
「飲んでみます?」
「やだ」
飲んでみないと分からないのに。どこが美味しいのかと聞かれても、僕の語彙力では表現しきれない。だから、僕が力説するよりも、飲んでみることが一番の説明になる気がした。
「やっぱ飲む」
翻意を促さずとも、彼女は心変わりした。
さっきまで僕が使っていたストローを咥えた。眼鏡をかけた小学生の名探偵が謎の粉を確かめるように、ごく少量のブラックコーヒーを味見すると、明らかに不味そうな顔をした。
高そうな料理店らを横目に、腹を空かせながらぶらつく。
僕は珈琲豆を購入した。豆に詳しいわけではないので、見た感じ美味しそうなものにした。彼女は雑貨屋でウッドな犬の置物を買っていた。いくらしたのか尋ねると、八百円だと言った。腰を抜かしてしまうところだった。そんな小さな置物が八百円だなんて、それを買ってしまうなんて、僕には理解し難いことであった。
至る所にあるカフェやケーキ屋のショーケースに並べられたスイーツたちに目を輝かせる彼女の、やけにハイトーンな喜びの小さな叫びは、彼女らしくなかったけれどそこが可愛らしかった。
僕はまた一歩後ろからその光景を眺めていた。
「紡くん?」
その声に僕は総毛立った。
聞きたかった声。聞きたくなかった声。何故、今ここで。
心臓を鷲掴みにされたように痛む。首を絞められるように痛む。
目が泳ぐ。声がした方を振り返るのが恐ろしくて、どこを見たらいいか分からなくなった。
「紡くん」
また声がする。幻聴か? いっそ、幻聴であってくれ。
隣人はどこにいったのだ。辺りを見回す。まだケーキを見つめている。
こっちを向いてくれ。そう思った時、彼女はふとこちらに目をやった。振り向く瞬間は笑顔だった彼女は、パッと感情の読めない表情に変わった。
「何してるの、こんなところで」
僕は声のする方へ顔を向ける。目の前に舞華が立っている。初めて僕のアパートに来た時と同じ服を着ていた。
「あ、いや、それは」
「なに?」
今更何を迷っているんだ。舞華のことは忘れると決めたんだ。今は隣人と遊びに来ている。それを舞華に伝えろ。君に未練は無いとしっかり伝えろ。
「一人?」
舞華はきょとんとした顔で尋ねた。
言え。何でもいいから言って、さらっと乗り越えろ。
「んー、えっと」
賑わう人々の騒めきで、僕の声は掻き消される。早く何か言わないと。
「七海、ごめん、待たせて」
後ろから腕を組まれる。名前の知らない彼女が、今までにない距離感で隣に来た。
「あれ、あなた」
「え? 紡くんの隣に住んでる方?」
「そうそう、前に一度会ったことあるよね。どうも」
「どうも」
舞華が明らかに困っている。少し不機嫌そうに見える。
「えっと、どういう…」
「七海も何か言ったら?」
「え?」
舞華が何か言おうとしたのを遮るように、彼女は早口に喋った。
「ひさし、ぶり」
僕は舞華から目線を外して、右側に並ぶ雑貨を見た。こんな状況にも関わらず、宝石のようなアクセサリーは輝き続けている。
「知らなかったけど、元カノさんだったんだね」
「え、あ、はい」
「何か用ですか?」
やけに強気な口調だ。君が敵対心を覚える必要なんてないのに。
舞華は言葉が出ないようだった。知らない女から睨まれて、怯えているのだろう。
「ごめんなさい。私たち付き合ってるの」
「え?」「え?」
僕と舞華の声が重なった。舞華の声の方が大きかった。
状況を察して気を遣ってくれたのか。申し訳ない。あとでケーキでも買ってあげよう。
修羅場を迎えている僕らの横を、小さな子供が走り抜けていった。その後を母親らしき女性が慌てた様子で追いかけていった。
「舞華」
舞華は僕の目を見た。舞華の目が垂れているように見える。ごめん。怯えさせてごめん。好き。本当に好きだった。これから先、君以上の人に出逢えるか不安なほどに好きだった。完全なる依存と執着に塗れていた。ごめん。
「もう話しかけないで」
舞華は僕が見たことのない表情をした。
すごく心臓が痛い。頭が痛い。舞華に「話しかけないで」なんて酷いことを言ってしまった。ごめんなさい。でも、でも。
離れた方が良いとは分かっていても、恋は盲目なんて言う。本当にその通りで、僕の世界は舞華以外は真っ黒で。何も見えてなくて。好きだったけれど、愛していたけれど、不幸を感じていた。でも、例え未来に待っているのが不幸だけだったとしても、舞華と居られるのなら構わなかった。
でも、でも、でも。
「え?」
都合が良すぎる。都合が良すぎるよ、舞華。僕の気持ちを知っていながら、僕の家に来て、キスをして、一緒に風呂に入って、髪を乾かしあって、映画を観て泣いて、セックスをして、シングルベッドで身を寄せながら眠って。
「舞華が僕を捨てたんだ。もう苦しめないで」
全身から涙が出そうだ。毛穴という毛穴から溢れてしまいそうだ。
隣人に引っ張られて、僕は舞華に背を向けて歩き始めた。僕の後ろで何か言っているのが聞こえる。でも僕は形の無い耳栓をすっぽりと填めて聴覚を塞いでしまった。
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