16
天井が見える。どこの天井だ。アパートの天井だ。
夢だった。付けっぱなしにしていた冷房のおかげで、過度に涼しい部屋の中にいるのに汗の量がすごかった。
やけに生々しくて、嫌な夢だ。でも安心した。彼女が消えてしまう、ましてや愛する彼女を自分の手で殺すなんて、考えずとも恐ろしい。
そこで僕は気がつく。部屋がやけに静かだ。僕は違和感を探した。
テレビの前に置かれたローテーブルの上に、手紙が置いてある。僕はその紙切れが視界に入った瞬間に、嫌な予感がした。置き手紙だ。彼女からの置き手紙。僕は恐る恐るその手紙を手に取って、鼓動が早くなっていくのを感じながら読んだ。そこには、「もう関わらないでください」とだけ書き殴ってあった。いつもの彼女の字とは違う雰囲気を帯びた筆跡だった。
僕は泣くこともできず、視界が朦朧としたままベランダに続く窓を開けた。夕凪が、僕を優しく包み込んでくれているような気がした。母親のような温もりを感じた。すると、枯れていた涙腺が水分を取り戻していき、僕は声を押し殺して泣いた。
「こんにちは」
僕はその声に驚いて肩をすくめた。右側から聞こえてきた声は、隣人のものだった。
「あ、すみません」
「何で謝るんですか?」
「あ、いえ、なんでもないです」
名前も知らない隣人は、目を丸くしている。僕は泣いたことで腫れ上がった真っ赤な顔を見られないように、両膝の間に顔を埋めた。
彼女はそれから何も言わなくなった。顔を上げることができないから、まだそこにいるのか、部屋の中に戻ってしまったのかは分からない。けれど、まだそこに居るような気がした。
魔法が使えたらどんなにいいだろう。魔法というものが、僕らが思い描くものと必ずしも同じであるとは思わないけれど、僕が映画やアニメで見たことのある魔法というのは、簡潔にいうと願いが叶うものであった。もし本当にそうなら、僕はありもしない魔法に縋りたい。おかしな形をした杖を握って、おかしな呪文を唱えて、おかしな煙がポンっと音を立てて上がって、彼女が戻ってくる。そんなことが可能なのであれば、契約のための条件でも何でも受け入れるだろう。寿命でも何でもくれてやるし、生贄を用意しろと言われれば何だって用意する。でも、そんなのは妄想でしかない。
「大丈夫ですか?」
本当に心配しているような声で彼女は言った。
「何がですか?」
僕は泣いていることがバレないように、愛する人が出ていったことを悟られないように、しらを切った。
彼女はまた黙った。何を言えばいいのか分からないのか、意地の悪い態度を取る隣人に呆れたのか、物音すらしなかった。
「煙草、喫っていいですか?」
え、と僕は思った。煙草は嫌いだ。中学生の頃に亡くなった父親が喫煙者で、何度も何度も禁煙するように勧めたが結局辞めなかった。
小学生の頃だったか。一度、父親の煙草を隠そうとしたことがある。箱を手に取って隠し場所を探していた時、ソフトケースだったので煙草が二、三本床に落ちた。それを拾ってケースに戻し、自分のお菓子が入った箱の中に入れた。臭いものだと分かっていたので、洗面所で手を洗った。良い香りの石鹸で何十回も臭いを落とそうと試みたが、その努力は無駄に終わった。
しかし、隣人にとって僕の過去は関係がないことだ。喫いたきゃ喫えば良いと思う。隣に僕が住んでいようとも、彼女が座っているベランダは彼女の家だ。
「嫌いです」
しまった、と後悔したがもう遅い。言葉は既に放たれた後なのだ。僕は顔を上げて、ベランダの柵越しに彼女の顔を窺った。
端正な顔がそこにはあった。隠れて隙間から見ているようで、なんだか罪悪感を覚えてしまった。
「あ、いえ、全然大丈夫です。喫ってください」
「ありがとうございます」
隣人は少し薄い唇でそう言った。舞華の唇によく似ている。
彼女はズボンのポケットからジッポライターと白い箱を取り出した。左手で箱を斜めに持ち、右手の人差し指と中指を揃えて、箱の上部分を優しく叩く。煙草が少しずつ顔を見せて、それを歯で軽く咥えて抜き取った。
慣れているようだ。長い間喫っているのだろうか。というか、歳はいくつなのだろうか。同い年に見えなくもないし、歳上にも見える。さすがに歳下には見えなかった。
「あの、お尋ねしてもいいですか?」
「質問によります」
尋ねなければ、どういう質問か分からないよなと思いながらも、大した質問ではないので続けた。
「おいくつなんですか?」
彼女はニヤリとする。あ、これは面倒臭いかもしれない。
「何歳だと思う?」か、「君はいくつなの?」のどっちかだろうと僕は予想を立てた。他人に年齢を尋ねたときに、素直に答えてもらった記憶はあまり無い。
「君の二つ上だと思いますよ」
新たな回答だった。その答えに分からないところが二つあった。まず一つ目は「だと思いますよ」という言い方だ。二つ目は、僕の年齢を知っているかのような口ぶりだ。
「僕が何歳か知ってるんですか?」
「いや、知らないですけど。今年引っ越して来ましたよね?」
彼女は僕の目を見た。綺麗だけれど、どこか光の無い瞳に僕は吸い込まれそうになった。魅力的な目だ、と思った。
「はい」
「ですよね。だから同じ大学の一年かなって思っただけです」
「すぐそこの大学ですか?」
「はい。君もそうですよね、多分」
「僕もそうですね」
彼女は上に向かって煙を吐いた。濃い煙だと思ったら、すぐに空気に溶けていった。
それから僕たちは、陽が沈んで月が昇り、星の見えない空が広がるまで話し続けた。何学部の何学科なのか。出身はどこなのか。恋人はいるのか。そんなありきたりな話を飽きることなく、ドミノを並べるように静かに丁寧に続けた。彼女は隣の県出身で、恋人はいないみたいだった。
二時間近く話し込んでいたためか、灰皿には七本の煙草が無造作に並べられている。彼女曰く、一人だと連続で喫うことは滅多にないが、他人と話しながら喫うと本数が増えるらしい。
僕たちは、おやすみなさいと言い合って部屋に戻った。
ふかふかとは言い難いベッドに身を投げ、すぐに眠ってしまった。
今頃、舞華はどこで何をしているのだろう。実家に帰ったのだろうか。一人暮らしの生活に戻ったのだろうか。会いたい。会いたい。
それからの僕の生活は、それはそれは乱れたものだった。アルバイトは無断欠勤を続けておそらく首を切られている。大学の教授やゼミ仲間からの連絡も完全に無視していて、G-mailやメッセンジャーアプリの通知は日毎に溜まっていった。一桁から二桁、三桁へと数字が大きくなっていく通知バッジを、朝と夜に見つめた。アプリを起動する勇気がない。メッセージを目にしたくない。僕は通知バッジを見つめる度に、スマホをベッドに放り投げた。
ある日、複数人の友人たちからLINEが来た。各々の友人たちは面識がない。だから、彼らが打ち合わせて連絡してきたわけでは当然ないのだが、あまりにもタイミングが合致していた。
【元気にしてる?】とか【今何してるの?】とか、【久々に会いたくなったんだけど、今どこ?】とか。僕の今の状況を知りようもない友人たちが、こぞって心配している顔が何となく想像できてしまった。彼らが送ってきた文章を既読をつけないように読んでいると、なんだか可笑しくなってきてクスッと笑った。しかし、返信をする気力はなく、マルチタスク画面を開いて次々に上へスワイプを繰り返し、様々なSNSを終了させていった。
どれくらい経っただろうか。真夏の朝だというのに、酷く寒気がする。体が熱い。頭がくらくらする。完全に体調を崩してしまっている。情けない。
恋人、ああ、恋人ではないか。同棲していた元恋人との別れが原因で体調を崩した人は、この世に何人いるのかな。一人だったらどうしよう。自分でもよく分からないタラレバ話のせいで、孤独感を感じた。
夢だったらいいのに。本でも読んでいたら玄関がギィっと開いて、ただいまって言う彼女の声が聞こえてきそうだ。頭痛がする。
その時、玄関の扉が鈍い音を響かせた。僕は咄嗟に立ち上がって玄関に向かう。舞華が戻ってきた。舞華が戻ってきたのだ。僕は溢れ出しそうな涙を必死に止めた。
「ドア開けっぱだぞー」
その声は期待していた声より随分と低かった。少しこもっているような、掠れた声。
「風間」
彼はまばたきをした。
「なんで残念そうな顔してんだよ」
「いや、なんでもない」
自分の足の指先を見て言った。舞華じゃなかった。風間だったから残念というわけではない。ただ、期待してしまって、舞華が僕の生活に戻ってくるという理想郷を勝手に作ったのだ。
「あぁ」
風間は何かを察したような声を漏らした。やめてくれ。察するなんて気持ちの悪いことしないでくれ。そんな哀れんだ顔しないでくれ。惨めじゃないか。
「元気か?」
「まあ、そこそこ」
「せっかくの夏休みだから遊びの誘いしてんのに、全く音沙汰ないからさ」
「ごめんごめん。立て込んでて」
風間は無機質な表情で僕の顔をじっと見たあと、僕越しに部屋を覗いた。そして、大仰な溜息をついた。
「まあ、コンビニでも行こや」
「コンビニ?」
「すぐそこにあるだろ。ローソン」
「何しに行くんだよ」
「腹減らね?」
正直、僕は腹は減ってなかった。それを風間に伝えたけれど、強制的に準備をさせられて結局外に出ることになった。
久々に太陽の光に照らされて、眩暈がした。黒いぐにゃぐにゃした糸みたいなものが視界を漂っている。体調が悪い。頭が痛い。
舞華が出て行ってから何日経っているのだろう。スマホの電源はとっくに切れていて、しかし、充電をするのさえ面倒臭かった。だから、今が何月何日の何曜日か分からない。僕の部屋にはカレンダーは掛かっていないし、置き時計も掛け時計もない。大学の入学祝いに親に買ってもらったスペースグレーのスマホは、長らく夏眠したままだ。
風間はいかついサングラスをしている。程よく鍛えられた腕が、サイズの合っていないTシャツから伸びている。
「シャツ小さくない?」
「最近、鍛え始めたからさ」
そこで風間は黙った。えっ、と僕は思う。「鍛え始めたからさ」の続きはないのだろうか。理由になっていないように思える。
「うん」
「え、分かんない?」
「なにが?」
「鍛えられた筋肉見せたいじゃん」
「え、筋肉見せるためにわざわざ小さめの服着てんの?」
「当たり前だろ」
意味がわからない。男というものは、鍛えた筋肉を見せたいものなのか。誰に? 街行く女性に? 逆に、ピチピチの服を着た男の筋肉を見て喜ぶ女性もいるのだろうか。そんなに見せたいなら服を脱げばいい。さすがに公共の場で裸になるのは危険だけれど、だったらナンパでもして、ホテルに入ったあとに筋肉を見せつけてやればいいじゃないか。
気持ち悪い、と思ったけれど口にするのはやめておこうと思った。この時、自分の考えも余程気持ちが悪いものだと、僕は気づかなかった。
「気持ち悪い」
「は?」
風間はサングラス越しに僕を睨んでいるようだった。だからと言って、怒っているわけではないのだろう。
「お前にゃ分からんだろうよ。まっしろくん」
「白くて悪かったな」
「別に悪いとは言ってねぇよ」
「まっくろ」
「褒め言葉だな」
もう何も言い返せなかった。筋トレを始め、その結果が現れてきて自信に満ちた男には、その真逆のように細くて白い僕は対抗しきれない。
風間が羨ましいと思った。高校初めの頃から交際を続けている恋人とは、今も順調のようだった。「結婚するかは分からん。けど出来たらいいよな」と、十九歳なりの真剣な顔で将来を考える風間の顔を覚えている。普段はちゃらんぽらんな彼も、時には真剣な表情を見せる。マッチの火のような嫉妬心を感じながらも、二人は上手くいってほしいと願っている。
「サングラス似合ってない」
法定速度を優に超えていそうな速度で黒いセダンが走ってくる。そのボディに反射する日光に、僕は目を細めた。
清々しいほどに乾ききった暑さでゆらゆら揺れる街並みとは裏腹に、コンビニの店内はひんやりとしている。体が一瞬にして冷やされ、頬を伝う汗がこそばゆい。顔を揺らして、鼻先まで伸びた前髪を鬱陶しく退かした。
「なにか買ってくれるの?」
風間は迷った。
「まあ、今日だけな」
半年前の高校卒業の頃まで、黒くはあっても細かった風間は、今や頼もしく思える。ん? 半年前まで細かった男が、ここまでの筋肉男になれるのか? 急に疑問が湧いてくる。「最近、鍛え始めたからさ」という風間の声を思い出す。最近とはいつだろうか。この前ファミレスで落ち合った日は、こんなに鍛えられていただろうか。
「お前、何にすんの?」
風間は、陳列されたドリンクを眺めている。不思議な男。このまま鍛え続けたら、俗に言う細マッチョというやつになるのだろうか。
「ざる蕎麦」
「それ栄養あんの?」
「知らん」
「お前もタンパク質取ったほうがいいぞ。筋肉増やすにはタンパク質。相変わらず細い体してんのな」
風間は僕の腹をポンポンと二回叩いた。彼に悪気はないのだろうけれど、なんだか不愉快だ。別に僕は筋肉が欲しいわけではないし、筋トレを始めようとしているわけでもない。
いつもの喫茶に行って本を読みたくなった。
「自分が鍛え始めたからって、他人を見下すのは良くないと思うけど」
ざる蕎麦を手にして、ラベルに書かれた値段を見た。四百九十八円。何故、どれもこれも微妙な値段なのだろうか。
誰も彼もが同じ目的を持って生きているわけじゃない。自分の好きなことが相手は嫌いだったり、その逆もある。同じものが好きでも、目的が違ったりジャンルが分かれたりする。自分が優れている場合に、それを武器に相手を蔑むなんてナンセンスだ。
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「でも、現に僕は不愉快だ」
レジの向こう側から、店員が僕らを見ている。会話を聞いているのだろうか。それとも、風間の筋肉に見惚れているのだろうか。金色の髪を後ろで束ねた、おそらく僕らよりは歳上の女性。目があってしまって、意図せず目線を逸らしてしまった。失礼なことをしただろうか。
「ごめん」
風間は分が悪そうに謝った。
「本当は申し訳ないなと思ってたけど、やっぱ奢れ」
優位な立場に置かれた敵キャラみたく、僕はニヤリとした。
アパートに戻り、僕はざる蕎麦を、風間はチキンサラダと野菜スティック、プロテインを腹に入れた。
風間は自分の家みたいにくつろぎ始めた。テレビの電源を入れ、バラエティ番組を見ながら大きな声で笑っている。僕も一緒になって爆笑した。
「泊まっていい?」
突然、親に宿泊許可を取るような口調で尋ねてきた。この家で寝泊まりをしたことがあるのは舞華だけだ。もう、この家は僕と舞華の家だと勘違いしていた。
「舞華、なんていうかな」
「は?」
風間は呆気に取られた様子だった。僕はハッとする。舞華はもういない。彼女の許可を取る必要なんてどこにもないし、なんならここは僕の家だ。強いて許可を取るべきなのは、家賃を払ってくれている両親だ。
「何言ってんの、お前」
「いや、違う違う。間違えた」
「間違えたって何だよ。ここはお前んちだろ? 何であいつの気持ちを考慮しなくちゃなんないんだよ」
「だから、違うって!」
窓ガラスが震えるほどの大声に、風間はびくっとした。僕も、僕の声に驚いてしまった。
「ごめん」
「お前、どうした?」
風間の目が少し垂れているような気がした。ツンとした目が、垂れ目に見える。
「何でもない」
「そういえば、舞華ちゃんの荷物ないな」
風間は、部屋中をぐるぐると見渡す。舞華の荷物が無いことを改めて確認すると、僕の方に向き直った。
「一緒に暮らしてたんじゃないのか?」
「…った」
「なんて?」
深呼吸をする。上手く息が吸えなかった。鼻から肺までのどこかに、厚い壁が作られているように。
「出てった」
風間の顔を見ることができない。どういう顔をしていても、自分が傷つきそうで怖かったのだ。
「いつ?」
「今日何日?」
風間はスマホの横についた小さなボタンを押した。やけに明るい光が放たれ、すぐに消えた。
「八月二十五日」
「じゃあ、一週間くらい前」
あぐらをかいている自分の脚を見たまま言った。また少し細くなったんじゃないか。
舞華の顔が浮かんでくる。この夏休みに行った場所や、交わした会話、締まった体。酒を飲みながら遊んだトランプゲーム。負けて悔しそうな舞華の表情。全て、全てが愛おしくて苦しい。
気づいたら、嗚咽しながら泣いていた。息ができない。苦しい。助けて。帰ってきて。
「大丈夫か」
風間の顔は見えないけれど、その声から本当に心配してくれているのが伝わってきた。彼の優しさにも泣けてくる。
「もっと、もっと一緒にいたかった」
親に叱られた子供みたいに、わんわん泣いた。涙が枯れるまで。
そして、涙は本当に枯れた。
風間が台所の方へ行き、ごそごそし始めた。冷蔵庫の扉が閉まる音がしたと思ったら、「おい」と低い声で言った。見上げると、風間の両手には缶ビールが一本ずつぶら下がっていた。
「飲もうぜ」
朝、家に来た時に冷蔵庫の前でこそこそ何かしていると思ったら、ビールを詰め込んでいたのか。呆れた。こんな時に酒なんて一番良くない。でも、風間なり優しさが、ぽっかり空いた穴を少しだけ埋めてくれた気がした。
まだ夕方だというのに、僕たちは缶ビールのプルタブを開け、缶を軽くぶつけて乾杯した。キンキンに冷えたビールが喉を通り、少しだけ暑くなる。冷房の温度を一度下げた。
ビールを飲み終わり、ハァと溜息をつくと、風間がまた冷蔵庫から缶を持ってきた。
「まだまだぁ」
顔が少しだけ赤くなった風間の手には、ハイボールが二つ。バカだ。
僕は、四段ある棚の一番下からお菓子ボックスを取り出して、ローテーブルの上にどんと置く。
「おつまみだ」
風間はやけに嬉しそうな顔をした。チャックを開けて、何が入ってんだぁと呑気な声を出しながら漁り始めた。
持つべきものは無条件に一緒に酒を飲んでくれる友人だ。風間は、僕が舞華のことで惚気た時も、愚痴を言う時も、舞華がいなくなって沈んでいる今も、一緒に酒を楽しんでくれる。呆れるし、バカだけど、頼もしい。
「まだ好きなのか?」
「明らかだろうに」
「じゃあ、気が済むまで惚れてろ」
言い方は別として、彼の気遣いを感じる。
「風間は最近どうなんだよ」
「俺? 俺は別に何もないな」
「レスになったりしてない?」
「なわけないわ。バンバン腰振ってる」
やはり、友人と酒を飲む時に猥談は欠かせないものだ。意図してなくてもそういう話題はどこからともなく自然と湧き上がってくる。
「もう七時か」
気の抜けた声色で風間は呟いた。
テレビの画面には、見たこともない芸人がボケてスベった瞬間が映し出されていた。
「ナルでも呼ぶか」
ナルというのは成竹のことだ。風間は成竹のことをナルと呼ぶ。この時間から来てくれるだろうか。
「電車で来させるの?」
「それしかねぇよ」
可哀想に。先輩二人が宅飲みしているところに呼び出されたら来るしかないじゃないか。
風間は慣れた手つきでスマホを操作して、成竹に電話をした。すぐに繋がって、僕の家で飲んでいる趣旨を伝えると、「うぃ」と言って電話を切った。
「来るってよ」
スルメの嫌な臭いが部屋を充満していることに気がつき、窓を少しだけ開けた。隙間風がひゅうひゅう入り込んでくる。少しだけバニラの香りがして隣のベランダを覗いてみたけれど、そこに隣人はいなかった。ベランダに出て耳をすましてみると、隣人の部屋から話し声が聞こえてきた。僕の部屋の音の隙間から隣人の部屋から聞こえる男のものと思われる声が微かにあり、彼女に恋人がいるという話は聞いたことがないし次会った時に尋ねてみるのもいいが、不躾な質問ではないだろうか。
一時間半ほど経った頃、成竹が到着した。彼は自分で買ってきたビールを一気飲みすると「追いつきますぜぇ」と戯けた。
成竹はついに追いつき、真っ直ぐ歩けないほどに酔っ払った。まだ未成年の三人、ましてや高校三年生の成竹もいるけれど、僕たちは大人をフリをして次々とアルコールを含んでいった。
僕は知っている。二人とも戯け続けているけれど、二人にも二人なりに苦悩があることを。決して僕には弱さを見せない二人が、初めて聞く洋楽にノって踊り回っている様子に笑い転げながら、この友情は消えないでほしいと願った。舞華は失ったけれど、この二人は失いたくない。
気を抜くとぽわんと浮かんでくる舞華の顔に、目元が熱くなってくる。眼球の底から凄い勢いで溢れ出てくる涙を誤魔化すように、必死になって笑った。枯れたはずの悲し涙を笑い涙に無理やり変換させて、僕も一緒になって踊った。
少しだけ開かれた窓の隙間から入る夏風は、思ったよりぬるかった。
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