15

 朝、目が覚めると彼女の姿が無かった。家の至る所を探したがやはりいない。僕は気が動転してしまい、起きたての腫れた顔のまま外へ飛び出した。日差しが直線的に僕に刺さった。反射的に目を閉じ、再び開けると目眩がしているような感覚に陥った。視界がチカチカして、しばらくの間ピントを合わせることができなかった。

 アパートの周りを一通り探してみたけれど、やはり彼女の姿は無い。消えた、と思った。いつ消えてしまうか分からず怯えていて、心の準備などできるはずもないがそれが出来ぬまま彼女は居なくなってしまった。アパートに戻り、ベッドに横たわる。天井がぐらぐらと揺れている。体が熱を帯び始め、頭痛を感じるようになった。目が開けられない。目元が熱くなっていき、奥の方からじわじわと涙が溢れ出てくる。すぐに枕カバーが濡れて、触れているのが気持ち悪くなったけれど、枕を退かす気力も無くなっていた。

 舞華。僕はそう呟いた。舞華。舞華。何度も何度も呟いた。涙は止まることを知らず、僕の意思とは裏腹に物凄い勢いでこぼれていった。僕は泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。

 窓から差し込む蜜柑を絞ったような濃い橙色の光が部屋の色を変えていく頃、僕はゆっくりと目を開けた。もう涙は止まっていた。天井の揺らぎも治っていて、体を起こそうとした。しかし、体が言うことを聞かない。酷く疲れていて、空腹の音が聞こえてきても動くことはできなかった。

 死んだように横になったまま、時間だけが過ぎていった。いつの間にか部屋は限りなく透明に近い青色に染まっていた。さすがに空腹にも限界が来ていて、僕はのそのそと起き上がって冷蔵庫を開く。卵とベーコンを取り出して、フライパンが置かれたコンロに火をつけた。卵を二個割って菜箸で溶いていると、箸とお椀が擦れ、黄身と白身が混ざっていく音が、涙を誘っていて頬を滴っていった。

 僕は無気力に、朝ごはんと見間違えそうな献立をちまちまと口へ運んでいく。気がつくと完食し終えていて、どの味も覚えていなかった。

「何で真っ暗な部屋で食べてんの?」

 その声に僕の耳は大袈裟に反応した。高くも低くもなくて心地良い声。

「なにしてんの?」

 少し角が立っているけれど、その声はとても愛おしく感じられた。

「舞華」

「はい」

 彼女の頭の上には「?」が浮かんでいるように見える。僕の上にも同じものが薄く乗っている。

「帰ってきたの?」

「え? うん」

「どこ行ってたの?」

「友達と遊んでた」

「僕に何も言わずに?」

「何で言う必要があるの? 彼氏じゃあるまいし」

 彼女をまた不機嫌にさせてしまっていることに気づいていたけれど、僕はお構いなしに質問を続けた。

「いなくなったのかと思った」

「は?」

 彼女は部屋の電気を付けた。蛍光灯の白っぽい光がやけに眩しく思えた。

「私の荷物全部置いてあるじゃん」

 僕は部屋を見回す。確かに、彼女の荷物は全て置かれたままだった。何故気づかなかったのだろう。悲しさに塗れて周りが見えなくなっていたのか。僕の細胞という細胞が安堵しきっている。また涙が出そうになったが、彼女の前で泣き崩れるわけにもいかずにぐっと堪えた。

「よかった」

 僕は脱力気に声を漏らした。本当に良かった。彼女は消えずにちゃんとここに戻ってきてくれた。

「何言ってんの。やめてよ」

 彼女は本当に迷惑そうに言った。僕は彼女の気持ちがまるで分からないままだ。喜ぶ僕を迷惑に思いながらも、自然な動作で部屋着に着替えていく。彼女が何を考えながら、何を感じながら、この部屋に向かって歩いてきたのか謎だった。でもおそらく、何も考えていないのだろう。僕と一緒に居たいわけでもないだろうし、この家に帰りたいと思って帰ってきたわけでもないだろうし、ましてや僕のことが好きなわけでもないだろう。彼女が居てくれることに僕が喜ぶと、彼女は迷惑に感じる。でも、彼女はこの家に帰ってきて、僕と一緒に夏を過ごしている。

 僕は、彼女がどう思っていようと、幸せを感じられずにはいられなかった。これでいい、と自分に言い聞かせることしかできなかった。もしこの状況を世間が知ることになって、僕と彼女が大勢の人々から非難を浴びることになったとしても、そんなことが起こることはないにしても、僕は彼女のことを想い続けるのだろう。その先に明るい未来が待っていないとしても。

 その夜は久しぶりにセックスをすることになった。何故そんなことになったのかは分からないけれど、彼女の中に入るたびに、僕の心は満たされていった。感じてはいけないと分かっている幸せを、高揚感を、快感を、僕は彼女の甘い言葉や喘ぎ声から感じた。泥沼に浸かっていくような、限りある二人の夏を貪るようなセックスに、僕たちは朝方まで夢中になった。

 世界が動き出していく時間になって、僕たちはようやく眠りについた。小さな枕一つを共有して、鼻が触れそうな距離で向かい合った。ココナッツのような妖艶な香りが鼻を通って脳を刺激する。彼女の髪を触れるか触れないかの手つきで撫でた。彼女の髪が顔に触れて、こそばゆくて一人で笑った。



 旅行に行こうよ、と舞華は言い出した。駅内のドトールで涼しんでいた時のことだった。

「京都で浴衣着たい。なんか寺も見たいし」

「寺? そんなキャラだっけ」

「別に興味はないけど、今はそういう気分。紡くん、寺好きでしょ? 結構前に、京都とか奈良の寺に行きたいって言ってたじゃん」

「いつの話だよ。高校生の時に、大学生になってバイト代が貯まったら行こうねって言ってたやつでしょ」

「そうそう」

「付き合ってないじゃん」

「まあ、そうか」

 彼女は終始、スマホの画面を睨みつけていた。旅行先の情報を仕入れているようだった。

「田舎のコテージとかでのんびりするのもいいよね」

「行くってことはもう決まってるんだ?」

「嫌なの?」

 嫌なわけがない。ただ、恋人ではない好きな人と旅行になんて行くものなのだろうか。純粋に楽しめるのだろうか。ふとした時に彼女が恋人ではないことを思い出して、旅行先で辛くならないだろうか。

「海の方とか?」

 彼女は意地悪そうにニヤついた。彼女の頭の中には海鮮とか綺麗な景色とかで埋まり始めているのだろう。

 アイスコーヒーが結露して、グラスを持ち上げると底の形に雫が溜まっていた。

 夏の海沿いは涼しいかとも思ったけれど、全くもって予想が外れた。ただ立っているだけで汗が垂れてくる。タオルを持ってくればよかった。

 彼女はこんな暑い中ではしゃぎまくっている。暑い暑いと言いながら、美味しそうな海鮮を見つけては駆け寄って「食べよ!」と満面の笑みを僕に向けて言った。驚きを超える値段がつけられた海鮮丼、これはさすがに食べなかった。不貞腐れる彼女の頬をつまんで、「高すぎる」と言い聞かせた。

 それから僕たちはメジャーなところやそうでないところを次々に回って、ついに疲れ果ててしまった。ホテルに着くと風呂に入ることも忘れ、セミダブルのベッドに身を投げた。彼女がスマホで流しっぱなしにしている知らない曲をBGMにして、僕らはゆっくりと夢に潜り込んでいった。

 僕が目を覚ましたのは二十四時を回った頃だった。当然、こんな時間に大浴場が開いているわけもなく、僕は致し方なくひっそりと部屋の奥にある狭い風呂で汗を流した。風呂から出ると彼女はまだ眠っていて、その寝顔を横目で見ながら髪を乾かす。その流れで歯も磨き、コンタクトを外してケースにしまった。その時ちょうど「Saucy Dog」の「コンタクトケース」が流れていた。置いていかれないようにしないと、と僕は思った。

 髪を乾かしていると、ドライヤーの音で気づかなかったが、舞華は目を覚ましていた。何も言わずに風呂場にするりと入っていくと、シャワーの音がドライヤーの風音越しに聞こえてきた。

 舞華の風呂を待つ間、僕はテレビをつけて適当にチャンネルを替えて、ぼーっと眺めた。

 風呂の扉の開く音が聞こえたすぐ後に、大きな声で僕の名前が呼ばれた。

「はい、はい」

 僕は慌てて風呂場の方へ駆け寄る。

「出たら、駅行こうよ」

「こんな時間から?」

「ここの駅って写真撮ると綺麗なんだって。撮りたい」

「こんな時間に?」

「いいの」

 不貞腐れたような声で強行突破すると、また扉を閉めた。しばらくすると、ドライヤーのブオオオンという音が聞こえてきて、僕は浴衣からスウェットに着替えて腕時計をつけた。

 どこかの乾燥機の音が響く廊下を、ペタペタ音がする館内用スリッパで歩く。エレベーターに乗り込み一階のボタンを押すと、「扉が閉まります」と女性のアナウンスが流れた。ロビーは不自然なくらいに静かで、なんだか不気味に感じた。受付には男性スタッフが一人だけ立っており、目が合うとニコリと微笑んでくれたので、僕も微笑み返しておいた。営業スマイル、と僕は思った。

 ホテルから徒歩十分くらいのところにその駅はあった。僕は何も知らないまま来てしまったので、大きな橙色のオブジェに目を見開いた。下からライトアップされていて、これは写真映えするな、女子に人気そうだな、と心の中で呟いた。

 真夜中だというのに、空気は相変わらず蒸し蒸ししている。正直、もうホテルに戻りたい気分だけれど、舞華が見たことないくらいにはしゃいでいるので、とてもじゃないが言える空気ではなかった。

 数え切れないほどのツーショットを撮影する。僕のポケットからスマホを取り出して、鳥居を見上げる舞華の背中をシャッターに収める。カシャッという音に舞華はくるっと振り返った。

「一人の写真いらない」

 これは僕の観賞用だ。しかし、そんなことを言えば、消せと言われてしまうだろう。

「観賞用」

「は?」

「あ、ごめん。なんでもない」

「見るだけならいいよ。SNSとかに載せないでね」

「そんなお門違いなことはしないよ」

 君とまた付き合いたい、とお門違いな願いをしている人間のセリフではない。本当は載せてしまいたい。みんなに自慢したい。僕はまた舞華と結ばれたぞって。でも、そんなことをしてしまえば、彼女は僕の元から去ってしまうだろう。あくまでも、この恋心は隠さなければならないのだ。

「じゃあ何枚か撮ってもいい?」

 僕はダメ元で、本当にダメ元で尋ねてみた。

「いいよ」

 答えは、あっさりしたものだった。

 何枚撮ったのだろう。おそらく、三十枚くらいだ。全て同じような写真。舞華が背を向けていたり、こちらを向いていたりと、多少の違いはあれどパッと見た感じは違いが分からない写真ばかりだ。しかし、そのどれもが僕にとっては大切な宝物となった。

 普段撮らないような、いかにもはしゃいでいる写真を撮った。

 ホテルに戻ってから、寝る直前に写真を見返してみると、他人が見たら全て同じような写真でつまらないカメラロールだった。でも、どの舞華も違う表情をしていて、満面の笑みだったり、目を閉じてしまっていたり、戯けていたりして、全ての写真の舞華がどうしようもなく愛おしくなった。

 一から百までの写真を見終えると、舞華は既にぐっすりと眠ってしまっていた。セミダブルベッドの半分に身を寄せ合って、正しくは僕が一方的に身を寄せて夢に落ちた。

 起床したのはチェックアウト一時間前だった。モーニングビュッフェに行く予定は完全に消えてしまった。


 舞華は僕より少し前に起きていたようで、既に準備を始めている。ユニットバスの鏡の前でヘアアイロンで髪を巻いたり、ヘアオイルで整えたりしている。僕はその横で呑気に歯磨きをした。適当にワックスでセットをし、冷めた舞華のヘアアイロンにカバーをして、彼女の鞄に押し込む。舞華はメイクに時間をかけていた。思う存分、可愛くなってくれ。いや、僕は着飾っていない君も好きなのだけれど。

 チェックアウト時刻のギリギリにホテルを出て、僕らは家路に着いた。その途中、有名な恐竜博物館があるというので寄り道をすることにした。

市街地にでんと佇んでいるのかと思っていたけれど、予想は全くのハズレ。想像よりも遥かに山の上の、スマホが圏外になる場所に建てられていた。

 受付を済ませて館内に入り、中央のエスカレーターに身を任せて登っていくと、ティラノサウルスが動いていて目を丸くした。舞華は、うおおおおと唸っていた。分かりやすくテンションが上がっているようだった。

 ゆっくりとした足取りで見物するのかと思いきや、舞華はそれぞれの展示物の説明文なんかには目もくれず、流し見したらさっさと歩いて行ってしまう。僕は一つ一つ丁寧に見て回りたかったのだけれど、こんなに大きな館内ではぐれるとさすがに困るので、仕方なく諦めてついていくことにした。

 海の恐竜コーナーに差し掛かった時、僕は全身で震えた。海洋恐怖症が見事に発動したのだ。舞華は僕が海洋恐怖症を患っていることは知っているはずなのだが、僕の様子を気にすることもなく、どんどん奥へと行ってしまうのだった。昔から思ってはいたけれど、すごくマイペースだ。

 動く恐竜は初めのティラノサウルスだけかと思っていたら、至る所の恐竜が機械的に動いていた。

 目を離すとすぐに遠くへ行ってしまう舞華も、彼女なりにとても楽しんでいることが伝わってきた。「すごおおい」とか、「ねえ見て! めっちゃリアルに動く!」とか、来る前は興味なさそうにしていたくせに、いざ物を目にすると物珍しいのだろう。マイペースだけれど、笑顔は絶えなかった。

 お土産が並ぶ売店はいくつかあったけれど、特に買いたいものもないしお金もないので見て見ぬフリをした。舞華も恐竜のグッズには興味が湧かなかったみたいだ。

 外に出ると、さすがの山の上でも寿命が縮んでしまうほどに蒸し暑かった。駐車場の隣の森の中には、等身大の恐竜に出会えるというイベントがやっているみたいだったけれど、この暑さの下では楽しいものも楽しめる気がしなくてよしておいた。舞華も深く同意した。でも、「もう少し涼しい時にまた来ようね」と言ってくれた。

 時間に余裕はあったので、高速道路は使用せずにゆっくり帰ろう、と言った彼女の提案に乗って四時間かけて帰った。

 運転に疲れてしまった僕は、アパートに入ると即座に冷房をつけてベッドに寝転んだ。彼女も後に続いて潜り込んでくる。助手席に座っているだけでも疲れるのだろうか。彼女は僕よりも先に眠り込んでしまった。



 僕の手のひらと胸には、僕の知らない色が滲んでいる。なんだこれ。妙に温かくて、パレットの上の絵の具のように嫌な粘り気がある。幼い頃によく食べた、粉を入れて混ぜると粘りが出てくるお菓子を思い出した。

 足元でカランと音がした。金属物が擦れるような嫌な音だった。僕は自分の足元に目をやる。そこには、僕の知らない色に染まった調理用ナイフが転がっていた。

 その光景に寒心せざるを得なかった。自分がどういう状況にいるのか全く理解ができない。

 よく見ると、ナイフの先にスニーカーが転がっている。不自然に先が上を向いたスニーカーが二足、自分の指と指の隙間から見えている。いや違う。スニーカーだけじゃない。僕の全身の毛という毛が逆立っていった。

 舞華。

 僕の目の前に倒れているのは、確かに舞華だった。上半身の数カ所から血が溢れ出ている。どういうことだ。舞華に似た人形か?

 舞華。

 舞華。

 無意識に、倒れているのは舞華ではなく舞華に似た人形だと錯覚した僕は、辺りを見回して舞華を探した。

 舞華。

 舞華。

 舞華。

 しかし、彼女はどこにも居ない。

 僕はもう一度、人形に視線を落とした。人形は目を開けたままだ。目を開けたまま、時間が止まったように微動だにしない。人形だからか?

 舞華。

 舞華。

 舞華。

 舞華。

 突然、酷い頭痛に襲われた。鈍器で思い切り殴られたような、頭蓋骨の端から端までをかち割られたような激しい頭痛だった。ぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開ける。人形ではない。無惨な姿で倒れているのは、僕が愛した女性だった。

 やめてくれ。どうして彼女が死んでいるんだ。誰が殺したんだ。

 僕だ。

 違う。僕じゃない。僕が舞華を殺すわけがない。

 いや、僕だ。

 やめろ。違うって言ってるんだ。

 僕以外に誰が彼女を殺すんだ?

 僕じゃない。だってこんなにも愛しているのに。

 愛しているから殺したんだ。だってそうだろ? 僕はこんなにも愛しているのに、彼女は離れていこうとしたんだ。

 だからって殺すわけがない。やめてくれ。そんなわけがない。

 本当に僕じゃないのか?

 え?

 本当に僕は殺してないのか?

 殺してないよ。愛しているんだ。なんで分からないんだ。

 殺したかったんじゃないのか?

 そんなわけがないだろ。

 殺したかったんじゃないのか?

 違う。違う。違う。

 殺したかったんだろう?

 殺したかった。

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