moonstruck -月光がもたらす狂気-
14
テーブルの上にはサッポロの缶ビールとコンドームが置いてある。「大柴広己」の「さよならミッドナイト」みたいな部屋だなと僕は思った。しかし、隣に眠っているのは恋人ではなかった。
昨日の夜、約半年ぶりに須原舞華から連絡があったのだ。それは元恋人からの連絡にありがちな【元気?】というものだった。
彼女は今、県外に一人で暮らしていて、夏休みに入ったので帰省して来るということだった。彼女の帰省先は、今僕が一人暮らしをしている市内だった。駅一つ分もない距離にある彼女の実家には、一度だけ訪れたことがあったけれど場所は覚えていなかった。
「んん、今何時?」
セックスをした後、すぐに寝てしまった彼女はのそのそと起きだして、掠れた声で言った。
「五時」
僕はできるだけそっけなく返した。
「朝の? 昼の?」
「朝」
彼女は重たい瞼を擦りながら立ち上がって、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すとそのまま口をつけて飲んだ。吐瀉物と汗が渾々沌々としたような不愉快にぬるい部屋は、息が詰まりそうで小窓を開けた。三日月が僕のことを憐んでいるように思えた。
彼女は帰省と言ったが、実家に帰るつもりは無さそうだった。元々、僕の下宿先を頼りに帰省という体で来たようだった。元カノ、と僕は思う。
僕はまだ未練があったのだと思う。彼女から連絡が来た時は、思わず喜ぶ自分がいることに気付いた。その反面、嬉しいけど素直に喜べない自分もいた。
彼女は家に着くと連絡をよこした。玄関を開けると、黙って立っている彼女が居た。僕らは言葉を飲み込んで、裏の畑の虫だけが鳴いていた。「久しぶり」と苦笑いした彼女は別れた時とは別人のようになっていた。
髪の長さが顎の位置くらいに短くなっていて、服装の系統もガラッと変わっていて、僕と付き合っていた頃の彼女はもういないのだと悟った。
ショートヘアにしてよとお願いしても渋っていた彼女が、別れてからバッサリ切ってしまうのはどういう意味なのだろうと思った。そもそもその行動に僕が関係しているなんて保証はないのに。
部屋に上がるのを少し戸惑っていたようだったが、彼女はゆっくりの僕の家に入って丁寧にパンプスを脱いだ。四畳のキッチンを通って六畳のワンルームに踏み入れると、「意外に綺麗にしてるんだね」と僕に背を向けて言った。意外にとはどういう意味なのだろうか。彼女の発言に対していちいち意味が知りたくなってしまった。
元カレの家に泊まりに来るというのは普通のことなのだろうか。彼女は両親と仲が良いわけではなかったので、実家に帰りづらいのかもしれない。モヤモヤとした気持ちが晴れないまま、僕たちはお酒を飲み始めた。
月から彼女に視線を移すと、キャミソール姿の彼女は胡座をかいてテレビの電源を入れようとしていた。薄暗い部屋に突然眩しい光が放たれて、僕は目を瞑った。ニュースが始まる時間だった。
スマホが、テロリンッと鳴った。この音は、ニュース速報を告げる通知音だ。今、ニュース番組で報道されている事と同じ内容が書かれていた。
先週、殺人事件が起こったみたいだった。「三十代の男性が刃物で数箇所を刺されて死亡しました」とニュースキャスターが告げた。その事件は隣の県で起こったらしく、さほど遠くないこの場所は危うく感じられた。確か、同じような事件がここ数年の間に何件も起こったように思う。
「物騒な世の中だ」
須原舞華は誰に向けてというわけでもなく呟いた。
「殺し方同じっぽいね。同一犯かな」
「夜出歩くのはよしなよ」
「でも殺されてるの男の人ばっかじゃない?」
「そういえばそうかも」
確かに、この手の殺人事件の被害者は男性ばかりであった。同一人物が犯人なのか分からないけれど、被害者に何かしらの繋がりがあるわけでもないようだった。
「ねえ、アイス食べたい」
彼女は昔から朝方にアイスを食べたがった。高校生の頃の朝方は一緒にいれるわけもなく、六時頃に目が覚めると彼女から【アイス食べたい】と連絡が来ていることがあった。
「コンビニ行こっか」
僕はできるだけ優しく言った。
もう空はだいぶ明るくなってきていた。それでもコンビニのやけに明るい青い光は、轟々と光を放っていて僕の目を細くさせた。
僕は買ったことのない商品にしようと思い、バニラアイスを手に取った。すると彼女が「もうこれ食べないんだ?」と、昔よく彼女とアイスを買った時に決まって僕が選んだチョコレートのアイスをつまんで揺らした。
意図的にそれを避けたわけではなかったけれど、彼女にそう言われると意地でもそのアイスは買わないでおこうと思った。
彼女が食べたいアイスがこのコンビニには無いと言ったので、コンビニを梯子することになった。
青から緑に移る。いつ僕の前から消えてしまうか分からない彼女となら、何度でもコンビニを梯子してやろうと思った。次のコンビニにも食べたいアイスが無ければいいのにとさえ思った。
結局、探していたアイスはあっさり見つかった。美味しそうに食べる彼女の小さな口を見てると、過去の思い出が甦ってきて思わず涙が出そうになったが、さすがに泣けやしないと気付かれないように鼻をすすった。
コンビニからアパートまでの道のりでアイスは食べ終えてしまった。珈琲も買えば良かったと嘆く彼女に、僕は「珈琲なんて飲んだら寝れないよ」と彼女の背中に向けて言った。愛しい人は「そっか」と素直に受け入れた。
元カノとセックスだなんて、泥沼のような経験をしてしまった僕は、なんだかオトナになっていると思った。昔に想像したオトナとは随分とかけ離れているけれど、大して気に病んだりはしなかった。
彼女が初めて泊まった日から一週間が経とうとしていた。しかし僕らはあの日以来、体を求め合うことは無くなっていた。十二個入りのコンドームは一つしか使われていなかった。毎晩のようにアルコールを取り入れてはいたものの、そういう雰囲気にはなったものの、僕が彼女の膨らみを撫でることはなかった。
蝉の声が五月蝿く感じなくなっていた。朝に起きて陽が沈むまで常に聞こえているその鳴き声は、もう生活の一部と化していた。
酷く冷えたファミレスの店内は、家族連れが多く見られた。ランチタイムはこれ程までに混雑するものかと、微かに頭痛を覚えた。
「急に来たのか?」
「まあ、割と急だね」
僕はやけに細いストローを咥えて、汚い音を立てながら、一滴も残すまいとメロンソーダを吸い込んだ。フリードリンクだから注ぎ足せるのだけれど。
「いや都合良すぎっすよ、七海さん」
「都合の良い男に成り下がるのか、紡(つむぐ)」
夏休みに入ったということで、僕は地元に戻って二人と落ち合っていた。
「一回だけだよ。あ、でも、本人には言うなよ」
「セックスしたんだろ? ってか」
「言わないっすよ」
「成竹、その口調やめろよ。なんか腹立ってくる」
僕は片眉を上げて叱った。「スマセン」と軽く謝罪する態度にさらに苛立ったけれど、もう何も言わなかった。
向かいのテーブル席に座っている中年女性たちの会話が聞こえてきた。ここ最近立て続いている殺人事件について話しているらしい。
「隣の県なんですって」
「やだっ」
「あんた知らないの? 同じような事件が立て続いてるのよ」
「聞いた? 犯人の年齢」
「いくつ?」
「二十代前半らしいのよ」
「その犯人捕まらないの?」
「最初の事件から二年も経ってるのに、まだ捕まってないらしい」
「警察は何してんだか」
「殺し方が似てるから同一犯かもって」
「去年あたりに一度パタっと無くなったでしょ?」
「また再開したのよ」
三人のうち、誰がどのセリフを言ったかは分からなかったが、テンポの良い会話はとても聞きやすかった。犯人は同世代なのか。僕は、自分が人を殺すところを想像してみた。けれど上手く想像できなかった。僕に人が殺せるなんて到底思えなかった。
「なんで人殺すんだろうな」
風間は重要なことではなさそうに言った。
「いろいろ理由があるんじゃない?」
「理由って何すか?」
知るかそんなもん、と思いながら僕は考えられる理由を探った。
「そりゃあ、色々あると思うよ。例えば、ただ人を殺してみたかったサイコパスとか。あ、いやでも、それだと不定期に大勢を殺す理由になるのかな。となると、何か深い理由があったりして。恨んでいる人を片っ端から殺し回ってるとか。いやでも、そんなこと僕らとそんなに変わらない歳の人ができるものなのかな。いやそれは何とも言えないか」
僕は二人に向かって話すというよりは、一人で疑問と推察を繰り返していた。この時の二人がどんな表情をしていたのかは分からない。
「お前、探偵とかやったら?」
風間は、自身の短く切り揃えられた髪を撫でながら茶化した。
「似合いそうっすね」
成竹も意地の悪そうな顔をして、風間に便乗した。
「どういう意味だ、二人とも」
僕は二人の目を交互を睨みつけながら、頭の中は事件のことでいっぱいになっていた。
知らない間に、家族連れの殆どが居なくなっていた。新聞を渋い目つきで熟読しているおじいさんと、イヤホンをつけながら勉学に励む高校生らしき男の子と、僕らの五人だけになっていた。
冷房が効き過ぎているのではないかと思う。せっかくフリードリンクを頼んだのに、これ以上冷たいジュースを飲んだら腹を壊しそうなのでやめておいた。風間と成竹も二杯ずつくらいしか飲んでいなかった。
〈堂本〉と書かれた名札を付けたウェイトレスが、水のキャッチャーを持って「おかわりはいかがですか」と尋ねた。僕たちは「大丈夫です」と、少しずつズレたタイミングで三人とも返事をした。ウェイトレスは「かしこまりました」と微笑んでから、小さな尻を振りながら厨房へ戻っていった。
風間はふと思い出したように、僕を指差した。
「今もお前のアパートにいるの? 須原」
「いるよ」
「何してんすかね」
「多分寝てる」
僕は彼女の顔を思い浮かべる。彼女の寝顔は、この世のものとは思えないほどに可愛いのだ。うつ伏せで寝る癖のある彼女の頬は餅みたいで、そっと触れるとプニプニしてて柔らかかった。未練だ、と思った。
「お前が今、幸せなら、俺は良いと思うぞ」
重たい二重の扉を開けて外に出ると、肌がじわっとしたのが分かった。一瞬で汗が滲むこの季節は、彼女が隣に居ないと耐えられないと思った。すぐに帰ろう。明日にでも帰ろう。早く会いたい。顔が見たい。肌を感じたい。髪を撫でたい。彼女のぬくもりを感じたい。唇に触れたい。いくつもの恋の声が、僕の心の中に響いていた。彼女に渡しておいた合鍵が愛おしく感じられ、目頭が濡れた。
八月も中旬になり、世間はお盆休みに入った。とは言っても、学生の僕の生活は何ら変わらない。昼前に起床して彼女と適当な昼食を食べ、うたた寝をして、バイトのために気怠く準備をして、嫌味な性格の先輩がいるバイト先でため息を吐き、彼女と夕食を食べながら酒を飲んで、真っ暗な部屋で映画でも見て、シングルベッドの上で体を寄せ合って眠る。
同じ曲ばかりが流れているような毎日だったけれど、彼女の存在があるだけでその曲は絶え間なくメロディを変化させていた。
お盆休みになっても実家に帰る素振りのない彼女に、帰らなくていいのかと尋ねてみたが、はっきりと「帰らない」と言った。お盆くらい帰ってもいいのにという考えはよぎったが、一緒にいれるならとすぐにどうでも良くなってしまった。
今日は、彼女の帰りが遅い。高校時代の部活仲間との食事に出かけていったが、日付が変わっても帰ってこないのでさすがに心配に思った。連絡をしてみても既読すらつかない。電話もしてみたけれど、「キャンセル」ではなく「不在着信」という文字が出るまで彼女が応答することはなかった。
午前一時を回っても珍しく眠たくならいようだったので、一人で映画を見ることにした。邦画にしようか洋画にしようか、はたまたドラマでもいいなとか、これ見たかったアニメじゃんだとか言って三十分ほど悩んだ。
結局、三回ほど観たことのある「ブルーバレンタイン」という映画にした。部屋を暗くしてアマゾンで購入した小さなライトをつけた。冷蔵庫から缶ビールを出して、お菓子ボックスからさきいかを取り出した。もうストーリーは覚えてしまった映画の青白い画面を見ながら、彼女のことを想った。
半分くらいに差し掛かったところで、玄関の方から物音がした。乱暴な音を立てながら扉が閉まり、ガチャンと鍵が閉まった。彼女が帰ってきたみたいだ。台所で水が流れる音がしたと思ったら、足音だけでも分かるほどにふらつきながらリビングに向かってくる。
ドアノブが回り、扉が開けられたと同時に「あのさ」と低い声が聞こえた。
「成竹くんに余計なこと言った?」
暗い部屋でも分かるくらいには、彼女の顔は怒りに染まっていた。
「え、なに?」
「なに? じゃなくてさ、茶化されたんだけど」
息を呑んだ。彼女が消えてしまう予感がする。言葉が言葉にならず、「あぁ」と掠れた声が出る。
彼女と成竹は、高校で部活が同じだったことを思い出した。彼女の紹介で成竹と僕は親交を深めたのだった。
「私たちの間に何かあると思われるようなこと言わないで」
「何かってなに?」
「そんなん知らないけどさ」
彼女の声はやたらと大きくて、隣の部屋に聞こえてしまっているのではないかと少し不安になる。何かってなんだろう。復縁するとかしないとか、そういう話をされたのだろうか。それが気に入らなかったのだろうか。いや成竹、あいつ。
「戻るつもりなんてないから」
あっさり言われてしまった。僕の中には小さくも大きい期待が、石にこびりつく苔のようにしつこく張り付いていた。
「そっか」
期待していた反動で、頭が回らなくなっていた。でも、期待させるような態度をとっていたのは彼女じゃないか。一緒に暮らし、夜に散歩をし、一度だけれど元カレの僕とセックスをし、一緒に眠った。それは僕も友人たちも何かあると思うだろう。
舞華は風呂も入らず、僕に触れることもなく、ベッドに横たわった。そしてすぐに寝息を立てた。何かあると思われたくないのなら一緒に居なければいいのに、と思わざるを得なかった。舞華は何故ここにいるのだろう。何故僕と一緒にいるのだろう。彼女の考えていることがわからなくなってしまった。
彼女が僕の家に来てからの彼女の笑顔が憎く思えた。さらには付き合っていた高校時代の彼女のそれも憎く感じた。すぐそこで眠っている彼女の背中に嫌悪感を感じて、同じ空間にいることに吐き気を覚える。
急に部屋がぬるくなったようで、じわりと汗が滲むのが分かる。さっきまで感動しながら観ていた映画も鬱陶しい。もう何もかもが鬱陶しい。
少しだけ開かれたカーテンの隙間から覗いている月が僕を嘲笑っている。うつ伏せで寝ている舞華も実は起きていて嘲笑っているのかもしれない。テレビの画面に映る俳優が、僕のことを憐んでいるように見えた。鳥肌が立った。
ベッドで一緒に眠ることに抵抗があって、ソファの上で小さくなって眠ろうとした。しかし、なかなか寝付くことはできなかった。目を閉じて視界が真っ暗になると、彼女の顔が浮かんでくる。楽しい思い出も彼女の笑った顔も、全てに黒い靄がかかっていった。
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